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タイムカプセルに乗った芸大

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美術 東京美術学校1923年
関東大震災――時代をかえた9月1日

ロダン「青銅時代」1925年寄贈

震災漫画記「正木校長先生、鈴川先生親子対面を見て涕泣の事」

震災漫画記「避難者に水接待の事」

震災漫画記「校内慰問袋配給の事」
 その日、朝からの雨もあがり、上野の杜は穏やかな秋の日を迎えていた。竹の台陳列館では、院展も開幕し、横山大観の「生々流転」が話題をさらおうとしていた。でも学校はまだ夏休み。閑散としたいつもの昼を迎えようとしていたその時、時代を変える大地震がおこった。9月1日午前11時58分。幸い学校の建物に大きな被害はなかったが、上野公園は時間とともに下谷、浅草、神田、本所、深川、日本橋など、被害の大きかった地域からの避難地として、50万ともいう人々であふれ返っていった。校内も一時、1万人以上の人で身動きもとれなかったらしい。

 鈴木信一は、その対応に獅子奮迅の働きをした。教務掛主任で校内に住んでいた彼の奮闘は、「震災日記」(校友会月報 22―5)に詳しい。人々が、まず求めたのは飲み水。校内の2つの古井戸を使った。しかし最大の脅威は火事。東京から立ちのぼる煙は、遠く高崎からも見えたという。翌2日夜、風向きが変わり、松坂屋を焼いた炎が上野の杜に迫ると、人々は火のなかった谷中から田端方面へと避難した。降り注ぐ火の粉の中を大移動する人々の阿鼻叫喚は、さながら地獄絵巻のようだったという。鈴木らは、必死に校舎を火の粉から守った。類焼をまぬがれた校内に残ったのは、千人あまり。食糧難、病気と続いた困難を経て、授業が再開されたのは、2ヵ月後の11月1日だった。

 しかし大災害の時には、奇妙な精神的トランスもおこるらしい。校友会月報の同じ号にのった「震災漫画記」は、意図的にか拍子ぬけするほど明るい。描いたのは学生の安本亮一。彼自身、焼け出されて、学校で被災者の救援にあたっていた。また朝倉文夫は、粉々になったロダンの石膏像「青銅時代」を完全に修復した。この像は、デルスニスが学生・教官の研究のため、1年間美校に預けていたものだった。朝倉は、この修復で逆にロダンの技法を十分に研究できたと、のちのち語っていた。地震の話をフランスできいたデルスニスは、2年後あらためて今度はブロンズ像を寄贈する。いまも正木記念館と旧芸術資料館の内庭にある像である。

 この大地震を機に、日本は右傾化していくのだが、美校の自由と明るさは、不思議なほど変わらず、その後もしばらく続いたらしい。治安維持法が公布された1925年からは、軍事教練が始まった。まるで美校生をさしたかのような「現代の青年が一般に芸術を愛し、文弱に流れつつある」傾向の矯正と、「健全なる生活」がめざされた。文部省の「体育デー」に従い、翌26年には運動会が、また27年からは野外演習も始まっている。しかし当初、教官も無理強いはしなかったらしく、学生は教練には下駄や草履でバラバラの服装、野外演習も体育や遠足気分で結構楽しんでいたらしい。当時の時勢からすれば目くじらものだろうが、今から見ればむしろこっちの方が健全にも見える。ひいき目だろうか。

(さとう・どうしん/美術学部芸術学科助教授)


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