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美術 東京美術学校1932年
校長 正木直彦 最長不倒の在職31年

正木直彦(在職 1901年8月〜1932年3月)

岡倉天心(在職 1890年10月〜1898年3月)

黒田清輝(生没 1866年〜1924年)

和田英作(在職 1932年5月〜1936年6月)
 勲章で飾りたてたきらびやかな正装のこの人。でもどうもあまり似あっていない。むしろちょっと頑固おやじ風の武骨な素朴さがただよう。美校の4代目の校長、正木直彦(1862〜1940)である。この正木が、1932年3月、在任じつに31年におよんだ校長を退任した。就任が1901年だから、20世紀の3分の1も美校を率いたことになる。それを顕彰して建てられたのが、今もある正木記念館だ(1935年竣工)。

 実際の人となりは、いたって温厚で公平だったらしい。退任のあいさつでは、「際立ったことが嫌で」「何でも事柄をなだらかに済したい性質」から、在任が長くなったと控えめに話している。そんな感じだから、2代目校長の岡倉天心(1862〜1913)のような、人間味たっぷりの逸話もほとんどない。が、しかしこの2人、じつは1862(文久2)年生まれの同い年だ。生きた時代さえ違う感じの2人だが、早熟天才、大器晩成それぞれに、時代を背負う自分の役割をはっきりと自覚していた点では、たしかに共通していたかもしれない。

 明治維新(1868)年以降、19世紀後半の美術界は、欧化主義・国粋主義といった政府の方針をめぐって、西洋系と伝統系、それぞれのなかでの新旧両派が、熾烈な競争をくり広げていた。20世紀に入ってようやく、両者は共存へと向かう。その歴史を美校では、前者の19世紀を天心、後者の20世紀を正木が背負った形になっているのだ。だから後者での調整役としての正木の性向は、それ自体が時代的な役目を背負っていた。在任が長くなったのも、それが求められたからだろう。まだ美校騒動(1898年)の余韻がのこる就任早々、辞職した下村観山の復職を天心に求めたのも、また退任まぎわの1931年、校内の中心地に天心の銅像を建てたのも、正木だった。そしてもう1点、2人ともに文部官僚出身の校長だったことも共通している。正木は初め小学校教諭をして、それをやめてから東大、文部省に入ったため、天心とは重なっていない。が、立場こそ違え、国家の視点から美術を考える立場にあった点では同じで、その意味での共感もあったろう。

 実際、正木までの校長は、すべて官僚だった。しかし、つなぎ役の赤間信義(文部省)を経て、2ヵ月後の同年5月、西洋画科教授の和田英作が新校長になったことは、美校史上の画期となるできごとだった。教授会が選出し、一方でなお帝国美術院長の職にあった正木が推薦するという形で、初めて作家校長が生まれたのである。和田は、岡田三郎助とともに長く黒田清輝を補佐してきた人物だ。作家校長という意味では、この黒田が最初でもおかしくなかった。黒田は、正木に勝るとも劣らない美術行政家でもあったからだ。現職のまま、正木より早い2代目の帝国美術院長となり(初代は森おう外)、貴族院議員にもなったが、1924年にすでに歿していた。

 この和田英作を最初として、とくに民主化と大学自治が進められた戦後は、学内から学長が選出されていくことになる。

(さとう・どうしん/美術学部芸術学科助教授)


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