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音楽 東京音楽学校1912年
わが国オーケストラの父、ユンケル

シュトルベルクにあるユンケルの生家。ユンケルの孫/岩倉具一氏所蔵

生家前の広場は、「アウグスト・ユンケル・プラッツ」と命名されている。岩倉具一氏所蔵 シュトルベルクの町の地図は、下記のサイトに掲載されている。http://www.stolberg.de東京音楽学校オーケストラを指揮するユンケル。ヴァイオリンの最前列に、幸田延と幸田(安藤)幸が並んでいる。東京芸術大学附属図書館所蔵

東京音楽学校オーケストラを指揮するユンケル。ヴァイオリンの最前列に、幸田延と幸田(安藤)幸が並んでいる。東京芸術大学附属図書館所蔵
 1912年(明治45年)における指揮を最後に御雇外国人アウグスト・ユンケルが東京音楽学校を去った。彼は1899年に採用されて以来、八面六臂の活躍で、音楽学校にいわゆるフル・オーケストラを初めて組織して、シューベルトの《未完成》交響曲をはじめとする管弦楽曲だけでなく、ケルビーニの《レクィエム》やブラームスの《ドイツ・レクィエム》など、管弦楽つき大合唱曲の初演を手がけるまでに育て上げた。その功績は大いに評価されてしかるべきであろう。

 ユンケルは1868年、北西ドイツ、アーヘン近くの古い町シュトルベルクに生まれた。ケルン音楽院を首席で卒業。在学中、選ばれてブラームスの前でヴァイオリン演奏を披露したほど優秀な学生であった。卒業後は当代随一のヴァイオリニストのヨアヒムに師事。ベルリン・フィルに入団後は巨匠ハンス・フォン・ビューローに推挙され、コンサートマスターにまでなった。だが1カ所になかなか落ち着かない性格だったようで、ケルン、ボストン、シカゴの交響楽団を首席奏者として転々とした。ドイツから楽員を集めるよう頼まれて、シカゴからドイツへスカウトに出かけ、その帰路の船中でドヴォルジャークと会って、親しく合奏をしたことはユンケルの誇らしい思い出の1つになっている。いずれにせよ、彼は音楽家として一流だったのである。だが、日本のジャーナリズムは彼の能力を正しく理解できず、彼の採用の際にも、また契約更新の際にも嫌がらせ記事を書いていた。

 そもそも彼を東京音楽学校に推挙したのは、夏目漱石の随筆でも有名なケーベル博士である。ケーベルは東京帝大の哲学教授であったが、若いときはチャイコフスキーやN・ルビンシテインに学んでモスクワ音楽院を卒業、優れたピアニストでもあった。横浜の楽器商「デーリング商会」で働きながら、慈善演奏会でヴァイオリンをひいたりしていたのを、ケーベルに見いだされたのである。

 カンタータ《海道東征》で知られる作曲家の信時潔(のぶとききよし)の音楽学校在学中の思い出によると、たいていの生徒は「ユンケル先生につかまって何か管弦楽の楽器をやらされた」。ことに管弦楽奏者は当時少なかったので、トランペットやらオーボエやらを勉強させられた。ユンケルは厳しく、ちょっと音程を間違えると、「You alone(君だけで!)」と1人ずつ何度でもやり直させ、大声で怒鳴ることもしばしばだったという。

 しかし、その一方で彼は合奏の楽しみを生徒に植えつけた。ユンケル自身、幸田延や安藤幸(ともに幸田露伴の妹)、ヴェルクマイスター、ケーベル等が教室にいるのを見つけると、自分の授業を早く切り上げ室内楽の練習をするほどで、その情熱は生徒にも伝播した。初めて結成された生徒の弦楽四重奏団のチェロ奏者は、幸田修造(露伴の末弟)である。修造が早世すると山田耕筰が後を継ぎ、さらに山田がドイツに留学すると、信時がチェロを担当した。合奏の快楽に取り憑かれた彼らはベートーヴェンの弦楽四重奏曲のすべてをなんとかこなし、ブラームスの3曲はほぼ暗譜したというから、相当の熱の入れようだったことがわかる。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


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