第64回美学会全国大会|発表要旨

分科会発表要旨若手研究者フォーラム発表要旨

分科会発表要旨

1-A 井奥陽子(東京藝術大学) バウムガルテンの美学におけるフィグーラ論
1-A 小林直子(東京藝術大学) ヘルダーの人間学的美学の構想――初期のバウムガルテン『美学』批判を巡って
1-A 小山田智寛(日本大学) ポール・ヴァレリーの詩作における形式(forme)の機能について
1-B 松原薫(東京大学) J. S. バッハの対位法の18世紀における評価
1-B 弥園綾奈(同志社大学) J. M. W. ターナーにおける詩と音楽の影響について――《奴隷船》における動的表現の解釈
1-B 浅井佑太(京都大学) 表現主義とは何か?――シェーンベルクにおける無調音楽の構成原理
1-C 岩見亮(慶應義塾大学) マルセル・デュシャンにおける「レディ・メイド」の生成
1-C 筧菜奈子(京都大学) ジャクソン・ポロックにおける書道芸術――ブラック・ペインティング成立に関する一考察
1-C 長島彩音(神奈川県立近代美術館) ドロテア・タニングの造形におけるマチエールの探究と第二次世界大戦以降のシュルレアリスム
2-A 島村幸忠(京都大学) 神秘としての死の表象――ジャンケレヴィッチとトルストイにおける微小なもの
2-A 櫻井一成(東京大学) 物語と人間の自由――『時間と物語』と『意志的なものと非意志的なもの』の交叉的読解を通じたリクール哲学の研究
2-B 木水千里(成城大学) マン・レイのレイヨグラフ再考――20・30年代の同時代人による受容との比較を中心に
2-B 山本佐恵(日本大学) 名取洋之助のフォト・ジャーナリズム論――岩波写真文庫(1950-58)を中心に
2-C 田中佳佑(上智大学中世思想研究所) 引喩によるキュア――共同記憶としてのペトラルカ『死の凱旋』
2-C 古川萌(京都大学) 墓碑建築としての伝記集――ヴァザーリ『芸術家列伝』再考
3-A 大熊洋行(東京大学) 趣味判断の原像――カント『判断力批判』におけるUrbild(原像)概念をめぐって
3-A 桑原俊介(東京大学) 解釈学と論理学――ダンハウアーからシュライアマハーまで
3-A 片桐亜古(札幌大谷大学) 悪しき行いの知覚における〈原罪的なるもの〉の関与――ルイジ・パレイゾンの道徳論にみられる《悪》《自由》《美》の関連性
3-B 柿沼美穂 舞踊は何を表現しているのか――運動感覚のダイナミズムが示すもの
3-B 渡辺洋平(京都大学) イメージと時間――ドゥルーズのイメージ論
3-B 水田百合子(大阪大学) ジャン・コクトーの映画における現実とフィクション――『オルフェの遺言』(1960)を中心に
3-C 江澤菜櫻子(早稲田大学) ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ作《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》再考――パンテオン壁画の連関を通して
3-C 村上敬(静岡県立美術館) 「留守模様」としての歴史画――川村清雄《建国》をめぐって
3-C 古舘遼(東京大学) 式場隆三郎試論――山下清の神話を越えて
4-A 三浦洋(北海道情報大学) 詩作の二つの原因――『詩学』における「類」と「種」の分節
4-A 田中一孝(京都大学) プラトン『国家』篇第10巻における絵画製作と模倣術の類比について
4-B 井岡詩子(京都大学) 『マネ』における「遊戯」と「沈黙」――ジョルジュ・バタイユのインファンティアの芸術論
4-B 利根川由奈(京都大学) ヤン・フートのキュレーションにおける「地域」と「芸術」の関係――ルネ・マグリットを参照点として
4-C 細田明宏(帝京大学) 人形浄瑠璃文楽における襲名の芸術学的意義について
4-C 井上聡(京都大学) 三島由紀夫――文体の美学

若手研究者フォーラム発表要旨

1 小田原のどか(筑波大学) 中西夏之の絵画場の研究――土方巽との協働からの影響を中心に
1 長谷川紫穂(埼玉大学) 初期メディアアートにみる生命体表現の拡大についての考察
1 井阪美里(京都市立芸術大学) マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンス作品における「女性性」について――《Dragon Heads》を手がかりに
1 髙井彩(京都市立芸術大学) マリーナ・アブラモヴィッチ研究――アブラモヴィッチの立体作品制作、《Transitory Objects》シリーズに関しての考察
2 角田あさな(立命館大学) ルイス・キャロルの『アリス』作品における価値としてのパラドクス――帽子屋と三月ウサギを例として
2 西尾茉以世(慶應義塾大学) 寺山修司の演劇における虚実の不分離――シェクナーのパフォーマンスとの比較を通じて
2 木村智哉(日本学術振興会) 東宝におけるアニメーション、特殊撮影、美術の人的・技術的結合について――“造型技術映画”『ムクの木の話』を例に
2 藤阪新吾(京都学園大学) 昭和天皇の「テーブル」の「味わい」――映画『太陽』の社会美学的考察
3 森結(沖縄県立芸術大学) ルカ・シニョレッリ作《フィリッピーニ祭壇画》に関する一解釈――衣服に描かれた文様を手掛りに
3 山田のぞみ(北海道大学) ベラスケス作《ラス・イランデーラス(糸を紡ぐ女たち)》に関する一考察
3 国清景子(関西学院大学) レンブラント《ホメロスの胸像に手を置くアリストテレス》における主題の分析――触覚に対する画家の関心
3 谷口依子(女子美術大学美術館) ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《帽子のあるヴィエル弾き》に関する一考察
4 外山悠(同志社大学) 台湾美術展覧会をめぐるローカル・カラー
4 菊川亜騎(京都市立芸術大学) 戦後日本における抽象彫刻の形成――1954年の鉄彫刻の登場から
4 小野寺奈津 フルクサスにおける生活の中での芸術実践――塩見允枝子の『スペイシャル・ポエム』(1965-1975)を中心に
4 佐々木玄太郎(京都大学) 栗憲庭の「ポスト89」論の恣意性と、その背景としての90年代前半における中国現代美術の市場化・国際化
5 鈴木一生(成城大学) コロー《ナルニの眺め》再考――風景画史上の位置づけをめぐって
5 山口裕太郎(東北大学) 《フォリー=ベルジェールの酒場》の鏡に関する一考察――絵画における自己批判とモダニズムの創始
5 大矢未来(東京藝術大学) ハンス・マカルトと演劇的なもの
5 川﨑辰洋(関西学院大学) ムンクの《病める子》――革新的表現と歴史的文脈
6 藤谷正太(青山学院大学) ゲオルグ・ジンメルの『ベックリンの風景画』への一考察
6 平井瑛子(京都大学) 九鬼周造における芸術論――日本の美的概念の構築について
6 樫田祐一郎(京都大学) ジャック・デリダの言語論における一人称代名詞の問題性
6 青田麻未(東京大学) 自然の美的鑑賞における〈制限的認知モデル〉の構築に向けて――パトリシア・マシューズの「言語的モデル」と「知覚的モデル」を手がかりに
7 梅村尚幸(北海道大学) ムノート城の象徴性の検討
7 近藤亮介(東京大学) ピクチャレスク美学の受容と批判――ウィリアム・クーム『ドクター・シンタックスの旅、ピクチャレスクを求めて』(1812)を読む
7 服部真吏(慶應義塾大学) フランク・ロイド・ライトの有機的建築にみられる浮世絵の影響――借用的再現と幾何学的構築
7 加藤康郎(慶應義塾大学) 問題解決としての作品制作――K. R. ポパーの科学方法論とE. H. ゴンブリッチの美術史記述を手がかりとして

※ 発表者による変更のため、一部の発表のタイトルが送付したプログラムと異なっています。あらかじめご了承ください。

バウムガルテンの美学におけるフィグーラ論

井奥 陽子(東京藝術大学)

ルネサンス期以降の絵画論や音楽論には、伝統的レトリックにおける弁論生成の5部門(発想、構成、修辞、記憶、口演)の前3部門が広くとりいれられた。バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten, 1714-1762)の『美学』(1750/58年)にも、第1部が発見論、配列論、記号論と区分されることに伝統的レトリックからの影響が認められる。ところが、フィグーラ(figura)すなわち隠喩や修辞疑問といった言葉のあやに関して、伝統的レトリックでは修辞の部門で扱われるにもかかわらず、『美学』では発見論のなかで数多く挙げられる。さらに『美学』は、バウムガルテンの病のため発見論の途中で中断される。

先行研究では、バウムガルテンがフィグーラを発見論で扱うことに必然性はなく、フィグーラのこうした扱いは『美学』の体系上の混乱を示すものとみなされてきた。対して本発表では、『美学』の発見論でフィグーラが扱われたことには明確な理由があったのではないかという見解を提示する。そのために、『美学』と講義録(1750-51年頃)におけるフィグーラという概念の規定を明らかにすることをとおして、バウムガルテンの美学におけるフィグーラ論が伝統的レトリックにおけるものよりも広い射程をもつことを示したい。

具体的にはまず、フィグーラの分類について考察する。伝統的レトリックでは、一連の文に関わる思考内容のフィグーラも、語に関わる修辞のフィグーラとともに修辞の部門で扱われる。対してバウムガルテンは、伝統的レトリックが修辞のフィグーラばかりに傾注してきたと批判し、順序にもフィグーラがあると主張する。よってバウムガルテンはフィグーラを発見論、配列論、記号論の各々で論じようとしていたのであろう。第二に、フィグーラと認識との関係について考察する。バウムガルテンはフィグーラを「特有の優美が開示されるような認識の部分」と定義し、フィグーラの真の力と美は思考にも表れると主張する。したがって、フィグーラは認識ないし思考と切り離せないものであるべきだとバウムガルテンは考えている。伝統的レトリックでは修辞のフィグーラとされるものも発見論で挙げられるのはそれゆえである。第三に、フィグーラと論証(argumenta)について考察する。伝統的レトリックにおける論証とは、自己の主張を根拠づけるための証明であり、発想の部門の中心を占める。バウムガルテンにおいては、他のものを美しくする理由となる表象と定義される。バウムガルテンがフィグーラを論証とほぼ同一視したのは、論証のこうした特徴をフィグーラに投影する狙いがあったのではないだろうか。

以上の考察から、発見論でフィグーラが扱われたことは『美学』の体系上の混乱を示すものではなく、フィグーラ論はバウムガルテンの美学理論における重要な柱であるという結論が導かれる。

ヘルダーの人間学的美学の構想――初期のバウムガルテン『美学』批判を巡って

小林 直子(東京藝術大学)

1767年、23歳のヘルダーが、バウムガルテンの『美学』(1750/58)に批判的に取り組んだ草稿がある(in: Werke in zehn Bänden, I)。そこで、ヘルダーはバウムガルテンと対決することで、その後の『第四論叢』(1769)や『認識と感覚』(1778)に繋がるような、いうなれば人間学的な美学を構想する。曰く、バウムガルテンの感性的な認識能力の学である「美学」は、「バウムガルテン流儀の一つの美学」(692)にすぎず、「感性的な認識」以前の「動物の感覚」へと遡り、肉体と魂の力の素を探る「自然的美学」(660)を創始すべきである、と。本発表の目的は、このようなヘルダーの最初期の人間学的美学の構想が、バウムガルテンの『美学』という未完の著作を「さらに展開させた論述」(Groß, 2011)なのか、あるいは、本質的に異なる論述なのか(Menke, 2008)について測ることである。

本発表が想定する結論をいえば、両者の前提とする――当時の自然哲学を念頭においた――人間観の違いが、両者の「美学」の議論の決定的違いであり、先の問題提起に即していうなら、ヘルダーはバウムガルテンの「直系の孫」であるに違いないが、バウムガルテンの理論には潜在していなかった人間観から、「美学」を本質的に異なるものへ展開したのである。

「本来的な美学」において、ヘルダーが、主観的認識能力が働く以前の、人間の「自然Natur」に遡って、陶冶や訓練を受けいれない身体的な「感覚」から「美学」を論じようとする方向性には、ルソーの『エミール』における自然主義の影響をみてとれる。しかし、さらに注目すべきは、当時、実験の成果を踏まえて大きく進展した生理学の影響である。ヘルダーは「美学」理論の支えとして、ルソーの他、ライマールス、クルーガーによる生理学的自然哲学を挙げている(668)。彼らは、人間の感覚的反応を、神経繊維の弾力性と緊張として生理学的に捉え、動物的な反応と並列して論じる。しかしその際、動物的「身体」は、デカルトのように魂をもたない機械とはされない。例えばクルーガーは身体と魂を鏡像関係として考えていたし、ライマールスも「心身の力」について論じている。私たちは、そこに、一元的心身関係を見て取ることができる。これらを念頭において、ヘルダーは、同草稿の中で、「美しい感情」を「根本力、魂と肉体を結ぶつながり」(672)として議論するのである。

知的な活動以前の「感覚」に「人間」の始原をおいて議論を進める「本来的美学」は、上述のような自然哲学を前提として可能になったものであり、バウムガルテンの「感性的な認識」の学である「美学」とは、人間観において異なる。さらにヘルダーの「自然的な美学」は、草稿の中でヘルダーが称揚しているメンデルスゾーンの議論からも一歩展開したものであるといえるのではないだろうか。

ポール・ヴァレリーの詩作における形式(forme)の機能について

小山田 智寛(日本大学)

フランスの詩人ポール・ヴァレリー(Paul Valéry 1871-1945)は、詩法において形式(forme)を順守する古典主義者だった。この形式の順守について、ヴァレリーは、詩篇内の詩句のムラ(inégalité)をなくすために形式の純粋さが必要だった、と語っている。いわば不純物を純粋にするための濾紙としての機能をヴァレリーは形式に求めたのである。この点で形式は制作の導きとして機能しているといえよう。作者は詩篇の制作において語や詩句を、形式に照合することで選別するのである。しかし、ヴァレリーの代表作「海辺の墓地」の制作を確認すると、形式の別の機能が見えてくる。

「海辺の墓地」の制作は、リズムの提示に始まり、次いでそれを満たす言葉を探す作業が続いたとされる。ヴァレリーによれば、制作は形式から内容へと進んだのである。先に触れた形式が、制作という意識的な行為に関係しているのに対し、ここでの形式はその意識的な行為自体のきっかけとして機能している。

このようにヴァレリーの詩作において、形式は二つの機能を持つのだが、ヴァレリーは、導きとしての機能を強調した。これは、当時一般的だった情熱的に制作を行う藝術家像に対する反論が意図されていたと考えられる。ヴァレリーの目指すムラのない詩篇の作者とは、語や詩句を逐一形式に照合し、選別する藝術家なのである。一方、ヴァレリーは、形式のきっかけとしての機能を公に語ることは少なかった。この機能はいわば霊感といえるが、ヴァレリーが主張する藝術家像とはそぐわなかったためと考えられる。しかし「海辺の墓地」では、この機能こそが、作者に制作を強いたのであり、その重要性は看過できるものではない。

この機能については、積極的に「カイエ」を参照することで理解を深めたい。ヴァレリーは藝術体験を、欲求と応答の無限の反復と考えた。しかし「カイエ」によれば「理解とは反復の力の破壊である」ため、我々は藝術体験において、理解できないものを反復する。その際に反復の条件とされるものが形式なのである。ヴァレリーは幼児が意味のわからない言葉を暗唱できることを例にあげる。幼児は音やリズムといった言葉の形式的な部分によって、それを反復する。従って「海辺の墓地」の制作も、詩想に魅惑されたヴァレリーが、その形式によって詩想を反復し、詩想に迫る過程で、付随的に内容に到達した、と理解できる。つまりきっかけとしての形式とは、作者が最初に把握した詩想の形式なのであり、それはそもそも作者に制作を可能にする点で重要なのである。以上からヴァレリーの詩作における形式の機能とは、詩句のムラをなくすための導きであり、制作行為そのものを可能にする条件といえる。

J. S. バッハの対位法の18世紀における評価

松原 薫(東京大学)

J. S. バッハ(1685-1750)の本格的な受容は19世紀以降に展開することになったが、これに先立つ18世紀においても、鍵盤楽曲等、一部のジャンルの作品は主に筆写譜を通じて各地に伝播していた。18世紀のバッハの作品伝播の様相は資料研究の側面から明らかにされつつあるが、本発表はそれらの資料研究と一線を画して美学的考察を行うことにより、18世紀後半のバッハ受容研究に新たな視座を加えることを試みる。考察にあたっては、バッハの作曲技法の中でも、とりわけ対位法の捉え方に着目する。

1737年に『批判的音楽家』に掲載されたシャイベの論考は、バッハの音楽を批判したものの代表例としてしばしば言及される。この記事の中でシャイベは、バッハの教会音楽があまりに技巧的に凝っていて複雑であるために、美しさや自然さが損なわれ、また旋律の流れが聞き取りづらくなってしまっている、と述べた。シャイベだけではなく、すでに1725年にはマッテゾンが『クリティカ・ムシカ』の中で、バッハの教会音楽について同様の趣旨の批判を行っていた。バッハの信奉者であったミツラーですら、内声部が充実したバッハの作風が一時代前のものであることを認めている。これらのことからは、旋律と伴奏の役割が明確であるような音楽が主流となりつつあった1730年代において、バッハの音楽がもつ対位法的な複雑さは、時代遅れで当時の趣味に適合しないものとして捉えられ、否定的な評価を生むこともあったことが汲み取れる。これは、バッハの作品が死後になると急速に演奏の場から遠ざかったことの一つの要因とも考えられる。

しかし、18世紀の間から筆写譜の流通を通じて各地に広まっていた《平均律クラヴィーア曲集》は、鍵盤楽器の教本として機能したばかりではなく、対位法、フーガの模範としての役割も果たしたことが知られている。またマールプルク、キルンベルガーがそれぞれ『フーガ論』(1753-54)、『純正作曲の技法』(1770年代)等の理論書を相次いで出版したことと合わせて考えるならば、バッハの対位法は彼の後継者によって18世紀後半にまでわたって積極的に継承されていた状況が推測できる。

このように、バッハの対位法的作風は時代遅れのものと捉えられることもあったが、その一方で同時に、継承されるべき優れた作曲技法として高く評価されたのであった。本発表ではバッハの対位法、フーガといった作曲技法に向けられた見解を吟味する。そして、作曲技法の模範として価値を認めるという肯定的な評価と、時代の流行から外れた古い作曲技法であるとみなす否定的な評価に大別される18世紀の対位法観の襞に分け入ることによって、この二つの方向性が、教会音楽(声楽曲)、器楽曲といったジャンルの別と相俟って、18世紀のバッハ作品伝承の一面を形成し、支えていた可能性を指摘する。

J. M. W. ターナーにおける詩と音楽の影響について――《奴隷船》における動的表現の解釈

弥園 綾奈(同志社大学)

今日、我々がターナー(Joseph Mallord William Turner, 1775-1851)と聞いてまず思い浮かぶのは、《死者と瀕死の者を海上へ投げ捨てる奴隷商人――台風の接近 Slavers throwing overboard the Dead and Dying - Typhon [sic] coming on》(1840年。以下《奴隷船》とする) や、《吹雪 Snow Storm》 (1842年)、《雨、蒸気、スピード――グレート・ウェスタン鉄道 Rain, Steam and Speed - The Great Western Railway》(1844年)といった作品たちであろう。しかし、彼の油彩画は初めからこのような大胆な筆致や色彩、光の効果を使ったダイナミックなものではなく、その表現技法における革新は徐々に行われていったと考えられる。この革新が、どのような影響のもとでなぜ行われたのか、という問題をめぐって、アン・リヴァモアという音楽学者によるターナーと音楽の関係について探る1957年の論文は示唆に富む。この論文には、ターナーが自身のスケッチブックに自分で五線譜を書き、メロディを記し、さらに異名同音などの関係についても強い関心を示していたことなどが報告されている。この論文の後に彼女自身やほかの研究者によってこの観点からの研究が進められた形跡はないが、発表者は、この論文をきっかけに、さらにターナーと音楽との関わりについて探るなかで、前述したターナーの晩年の作品の独自性を、音楽との関連を念頭に置くことでよりうまく説明できるのではないか、と考えた。

本発表では、このことについて一つの事例として《奴隷船》をとりあげ、探究する。ターナーがトムソン(James Thomson, 1700-1748)をはじめ、詩人からの影響を受けていたということは既に多くの先行研究において指摘されている。今回の発表でとりあげる《奴隷船》についても、とりわけトムソンの『四季』(The Seasons 1730年完成)との関連性が語られている。しかし、この《奴隷船》に見られるような、嵐の経過を表すような動性に富んだ表現は詩の影響からだけでは説明しきれない。むしろターナーは、トムソンの描いた『四季』における嵐の襲来という時間的事象を、より動的な表現の性質を持った、音楽という媒介を通して表現することによって実現しようとしたのではないか。ここでは、その具体的な証としてトムソンの『四季』を素材として制作されたハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732-1809) によるオラトリオ《四季》(Die Jahreszeiten 1801年頃完成)をとりあげ、この作品において、嵐の描写や歌詞の表現が動性豊かに行われていることを確認する。そして、《奴隷船》にはこのような音楽の持つ動性が絵画的表現に反映していることを、作品分析を通して指摘する。

当時ターナーの住むロンドンではハイドンの音楽の受容が確立していた。また、ロンドンに長年滞在していた音楽家で、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Baltholdy, 1809-1847)とも親交のあったモシェレス(Ignaz Moscheles, 1794-1870)にターナーが送った書簡の資料なども残されている。これらの関連から、ターナーが自身の絵画作品において、詩だけでなく音楽からもヒントを得ることで独自の作風を築き上げていった可能性は十分に考えられるのである。

表現主義とは何か?――シェーンベルクにおける無調音楽の構成原理

浅井 佑太(京都大学)

しばしばアーノルト・シェーンベルクの「自由な無調」時代の楽曲は表現主義と結び付けられてきた。しかし彼の音楽を「表現主義」として定義する際には、ほとんどの場合「あらゆる慣習からの解放」といった抽象的な創作態度が指摘されるに過ぎず、楽曲分析的な手法が用いられるにしても、歌曲や舞台作品のテクストが考察の中心となることが多い。それゆえ本発表では、シェーンベルクの器楽作品を中心として取り上げ、その分析を通して彼の音楽における「表現主義」の正体を明らかにすることを試みる。

シェーンベルクの「自由な無調」による楽曲は十二音音楽の前段階と見なされることが多い。しかし彼自身が認めるように、この時代の楽曲は中心音の存在を依然として許容しているという点で十二音音楽とは区別しなければならない。さらにこうした無調作品においても、協和音と不協和音の間には明確なヒエラルキーが存在しており、それはしばしば楽曲内での重要なコントラストの創出原理として機能している。そこではシェーンベルクが「浮動和声」と名づけた増三和音や四度和声が不協和なテクスチャの性格を決定づけると同時に、楽曲の無調性を保障する。しかしながら、そうした不協和音の使用法は《室内交響曲第一番op.9》の場合とは違って、声部進行の結果として正当化されることはない。むしろこうした不協和音は、そこに至るまでの文脈からの逸脱として構想されており、もはや解決されることを必要とはしない。そしてその際多くの場合、テンポの加速、音価の減少、音域の著しい変更といった手法がとられる。

一方でこうした作曲手法に見られる「非論理性」、「異常性」といった要素は、シェーンベルクの中で「表現としての音楽」に密接に結びつくものであった。ブゾーニに宛てた手紙や、シェーンベルクのいくつかの記述からは、この時期の彼にとって、こうした要素がひとつの美的規範となっていたことを窺うことができる。

またシェーンベルクは、しばしば音楽的事象の中で、意識的に知覚されるものと無意識的に知覚されるものの間に区別をつけており、そこには彼が大きな関心を寄せていたフロイトの影響が指摘できる。「自由な無調」による音楽においては、著しく不協和なパッセージは、多くの場合その性格上、耳でその連関性や論理性を把握することは難しく、《三つのピアノ曲・第一番op.11/1》でのフラジョレットのような特異なパッセージを、フロイトの意味での「無意識」と結びつけることも不可能ではないだろう。

しかしながら、こうした「自由な無調」時代を特徴づけていた表現主義的な要素は、十二音技法以降は退行しはじめ、彼の中ではむしろ、音楽の論理性や連関性を聴き手に理解させることが重要となる。それゆえに、「自由な無調」時代における表現主義的な要素は、この時代に特有のものとして理解されるのである。

マルセル・デュシャンにおける「レディ・メイド」の生成

岩見 亮(慶應義塾大学)

マルセル・デュシャンが生みだしたレディ・メイドは、コンセプチュアル・アートをはじめとする第二次大戦後の芸術の展開に決定的な影響を与えた先駆的発想として、今日に至る現代美術の出発点のひとつに数えられている。このようなレディ・メイドにはじまる現代美術という図式は、レディ・メイドを本質的に反視覚的で純粋に観念的なものとする解釈を前提としており、そこでは、レディ・メイドの視覚的形式における美的特質は、非本質的なものとして排除・抑圧されてきた。また、こうした従来の標準的なレディ・メイド解釈は、主にデュシャンの1960年代の言説に基づいて展開されたものだが、このような解釈においては、デュシャンの言説自体の変化や同時代の芸術動向との関係が看過されている。

本発表のねらいは、このような戦後現代美術のはじまりとしてのレディ・メイドが、実際は、それが影響を与えたとされる戦後現代美術の諸動向と同時代的に生成・変化したものであることを指摘し、従来一方向的な影響関係として語られてきたレディ・メイドと戦後現代美術との関係を、クレメント・グリーンバーグのフォーマリズム批評によって示されたアメリカ型モダニズムとの対立を軸とした一種の共犯関係として捉え直すことにある。

本発表が特に注目するのは、レディ・メイドに関するデュシャンの言説自体の変化である。デュシャンは1910年代当初、レディ・メイドを彫刻とみなし、署名と書込みを重視していた。また、1917年のニューヨーク・アンデパンダン展における《泉》を巡るスキャンダルに際して、デュシャンは、レディ・メイドが芸術作品であることを説明するため、芸術家による「選択」によって生じる「新たな考え方」を強調したが、それは実用的機能から解放されたレディ・メイドの美的観賞可能性を示唆するものであった。1940年代半ば以降、活動拠点をアメリカへと移したデュシャンは、視覚的感覚のみに訴える絵画を「物理的」あるいは「網膜的」と呼んで批判するようになる。また1950年代半ば以降、デュシャンは新たに「視覚的無関心」や「趣味の欠如」といった独自の用語を用いて、レディ・メイドの反視覚性・観念性を強調するようになるが、こうした傾向は、当時アメリカ美術界で支配的な地位を占めていたグリーンバーグのフォーマリズム批評に対する反発を反映したものであると考えられる。

このように、レディ・メイドに関するデュシャンの言説の変化を通観すると、デュシャンが、時代の芸術状況に応じて微妙に立場を変えながらレディ・メイドの観念を形成していったことがわかる。とりわけ抽象表現主義を擁護したフォーマリズム批評への反発は、反視覚的・観念的なものとしてのレディ・メイドの形成に大きな役割を果たしており、レディ・メイドの美的特質に対する抑圧的傾向もまたここに由来するものと考えられる。

ジャクソン・ポロックにおける書道芸術――ブラック・ペインティング成立に関する一考察

筧 菜奈子(京都大学)

本発表は、アメリカ抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロック(1912-1956)の晩年の作品群であるブラック・ペインティングの成立過程について、書道芸術からの影響という観点で考察を行うものである。ブラック・ペインティングとは、ポロックが1951-53年頃に制作した黒一色で構成された作品群のことを指す。これらの作品では、ポアリングなどの技法が用いられながら、それまでの抽象的な作品とは異なり、具象的形象が描かれている。また、和紙などの吸水性の高い媒体を用いることで、塗料の滲みの効果を意図した点が特色として挙げられる。こうした作品形態から、東洋の書道芸術からの影響が推察されてきたものの、明確な研究がなされることはこれまでなかった。

そこで本発表ではまず、研究が行われてこなかった背景を明らかにする。ここではアメリカの芸術に対する政治的意図を考察した上で、特にクレメント・グリーンバーグによる評論(「「アメリカ型」絵画」〔1955〕)を検討する。そうすることで、アメリカが当時、芸術の主流をヨーロッパから奪うために、ポロックをヨーロッパ・モダニズムの正当な後継者として位置づけたこと、及び、そのために東洋芸術からの影響は余計なものとして一切排除されてきたことが明らかとなる。しかし実際には、1953年にニューヨーク近代美術館にて『「日本の書」展』が開催されるなど、当時のアメリカにおいて東洋芸術への関心は確実に高まっていたことがわかる。またポロック自身も、日本の書に強く影響を受けていた周囲の作家たちの影響を受け、1950年には書道道具を用いて作品制作を行っている。このことから、ポロックが書道に強く影響を受けていたことは明らかである。

以上の影響関係を踏まえ、次に、書道がブラック・ペインティング形成に際してどのように影響したかを明らかにする。ブラック・ペインティングに描かれる具象的形象は、ポロック自身が「初期のイメージ」と述べていたことから、初期素描に描かれたイメージであることが先行研究において指摘されている。しかしながら、なぜ過去のイメージがこの時期に再び描かれたのかについて解釈されることはなかった。そこで本発表では、1950年の書道的文字作品に着目し、それらが初期のイメージとブラック・ペインティングを繋ぐ重要な役割を果たしていると考える。初期のイメージは、ジャクソン・ラッシングらによってインディアンに由来する絵文字的形象であることが指摘されている。つまり、ポロックは、書道という文字を書く手法を取り入れることで、過去の絵文字的形象を再び描く方法を新たに創出し、これがブラック・ペインティング成立の重要な要因となったのである。

本発表の意義は、これまで明確にされてこなかったポロックにおける東洋からの影響を指摘する点にある。このことは、ブラック・ペインティングのみならず、死後に発見された制作途中のコラージュ作品への新たな解釈をも可能にするだろう。

ドロテア・タニングの造形におけるマチエールの探究と第二次世界大戦以降のシュルレアリスム

長島 彩音(神奈川県立近代美術館)

ドロテア・タニング(1910-2012)の絵画は、綿密な再現描写である1940年代以降の「具象」的な表現から、1960年代以降には大胆な筆致を重ねる「抽象」的な傾向へと変化する。転換期となる1955年頃の作品は、襞が寄ったような重層的なマチエール(物質的効果)がカンヴァス全体を覆い、描かれた形象が浮かび上がって/沈み込んでいる。このうち「具象」的な表現ばかりがシュルレアリスムと関連付けられ特筆されてきた。本発表では、タニングの絵画表現の変容を美術史に照らして論じるとともに、第二次世界大戦以降のシュルレアリスム美術とその受容の変遷を、タニングの造形性の考察を通して再検証する。

本来、思想運動の実践だったシュルレアリスム美術にとって具象と抽象の区別は問題ではなかったが、アメリカでは「具象/抽象」が対立概念として「シュルレアリスム/抽象表現主義」に適用された。タニングはアメリカで前者を自らの表現様式として引き受けたが、フランスに移った1950年代から、重層的で不確定なイメージを呈する非再現的な作風に転じた。しかし、布や身体表面に関する主題、襞が寄ったようなマチエールをみれば、その変容に「具象/抽象」の断絶を当てはめるのではなく、表面性の探求という一貫性を賦することができる。その活動が舞台衣装のデザインや版画、布帛の彫刻と広がったことにも注目したい。当時のアメリカの美術批評の文脈において、シュルレアリスム美術についての言説が内容と形式の区別を前提とするに対し、身体表面から作品表面へと展開するタニングのマチエールの探求は、内容であると同時に形式でもあろうとした。これは、批評言説上の制度に過ぎない「シュルレアリスム」の枠組みに挑む独自の試みといえる。そこには、アメリカ的言説の外での、オートマティスムの後継としての抽象表現主義への接近と、具象と抽象を弁別する制度に加担せず新たな視座を提供したアクション・ペインティングやアンフォルメルとの親和性も認められる。

また、当時のタニングの受容に関わる資料と自伝の分析を通して、造形的特徴と作家自身の自己成型(Self-fashioning)についても考察を試みる。タニングの表現は「具象/抽象」の枠組みを引き受けた上で、どちらにも回収されないその境界上、言うなれば間にある「/(スラッシュ)」上に留まろうとする。一方と他方が隔てられつつ接する境界としての表面の機能への意識は、造形的特徴に表れるとともに、内なる作家自身と外的世界との境界にも向けられた。作家自身こそが「具象/抽象」、「シュルレアリストである/ない」或いは「アメリカ/ヨーロッパ」(さらには「偉大な芸術家の妻/自身も芸術家」)という重層化されたアイデンティティの間で、どちらにも添い/どちらにも回収されまいとしていたのである。タニングの造形を「具象/抽象」の枠組みを超えて捉えるとき、そのマチエールの探求は作家の自己成型とともに展開していると考察する。

神秘としての死の表象――ジャンケレヴィッチとトルストイにおける微小なもの

島村 幸忠(京都大学)

ヴラジーミル・ジャンケレヴィッチ(1903-85)は音楽論で有名なフランスの哲学者であるが、音楽以外にも様々なジャンルの芸術に関心を寄せていた。特に文学作品に対する造詣は深く、様々な詩や小説を援用していることから、彼の思想の背景にそれらがあることは明らかである。20世紀後半の死生観に大きく影響を及ぼした彼の死論もその例外ではない。その死論では、特にロシアの文豪レフ・トルストイが重要な役割を果たしている。このことは、『死』(1966)においてトルストイの幾つかの作品が言及されていることから確かめられる(例えば、『三つの死』『アンナ・カレーニナ』『イヴァン・イリイチの死』等々)。また、ジャンケレヴィッチは、『死』におけるトルストイに関する一連の言及を一つのトルストイ論としてまとめてもいるのである(「トルストイと死」〔1981〕)。本発表では、この「トルストイと死」を中心に、まず、ジャンケレヴィッチがトルストイの作品における死の表象をいかなるものとして捉えていたのかを読解する。次に、ジャンケレヴィッチの死論のエッセンスを確認していくとともに、イザベル・ド・モンモランやジョエル・アンセル等の先行研究では示唆するのみに留まっていた、ジャンケレヴィッチと文学作品の関係とその重要性を、トルストイを例に具体的に明示する。

ジャンケレヴィッチは、トルストイの作品のなかに描かれる微小なもの(infinitésimal)の表象に着目する。ジャンケレヴィッチによれば、微小なものの表象はトルストイに特徴的な表現方法である。すなわち、トルストイは、事物を詳細に描くことによって、私たちと事物の間に介在するあらゆる障害物を避け、事物に対して直接的に肉薄することを試みたという。死が描かれる場面においてもその手法は用いられ、トルストイは死にゆく者を観察し、作品のなかでその様子を詳らかにする。その例として、ジャンケレヴィッチはトルストイがしばしば用いるВнимание(注意)という語に注目しつつ、トルストイの作品では、死にゆく者が身の回りの事象に対して強い注意力を発揮する姿が描かれていることを指摘する。例えば『アンナ・カレーニナ』では、死に際のニコライ・リョーヴィンが、彼の部屋から出て行くマーシャのささやき声を敏感に聞き取るシーンが描かれる。ジャンケレヴィッチによれば、このような臨終の者の細かな描写こそが、認識不可能な神秘としての死を表現する役割を果たしているというのである。さらに、こうした、死にゆく者の細かな描写は、現実への愛着を示しているともいえる。つまり、死とは生を否定するものであるにも拘らず、トルストイの作品においては、死の表象は、逆に生の肯定によって表されているというのである。このような解釈のなかにこそ、ジャンケレヴィッチの死論のエッセンスを見て取ることができるであろう。

物語と人間の自由――『時間と物語』と『意志的なものと非意志的なもの』の交叉的読解を通じたリクール哲学の研究

櫻井 一成(東京大学)

リクール哲学は、主体の自己理解を様々なテーマとの関連において論じた「自己理解の解釈学」であると言われる。ただし従来の研究ではあまり強調されてこなかったことであるが、自己理解には過去志向の自己理解と未来志向の自己理解という二つの方式が認められる。両者の相違と連関に注目することは、リクール哲学の理解を深化させる上で重要な意味を持つだろう。

リクールは『時間と物語』(1983-5年)において「主体は自らが、自らについて、自らに語る物語のうちに、自らを認める」と述べ、「物語的自己同一性」の概念を提示する。物語は人生を理解するうえで不可欠の媒体であり、主体は「私」の生起を物語ることによって、なぜ「私」が他ならぬこの「私」であるのかを理解するのである。一方、リクールは1970年代に詩的言語の解釈というテーマに取り組んだが、そこで構想されたのは、詩的言語の描く「テクスト世界」が現実への批判的問いかけとなり、問いによって賦活された読者の想像力が新たな自己を生成させる、という解釈過程である。この構想をリクールは「意志の詩学」と呼ぶが、そこでは未来志向的な自己理解が特定の観点から主題化されている。

もちろん二つの自己理解は無関係ではなく、主体の過去と未来は相互規定的な循環のうちにとらえられなければならない。リクールはさまざまなテクストで、未来の企投が過去理解に遡及的影響を及ぼすこと、また過去の物語的再構築が企投を可能にすることを述べ、両者の循環に触れている。発表者が目指すのは、過去と未来の相互規定的な循環という観点から自己理解の解釈学を具体化し、そのことを通じてリクール哲学を体系化することである。

発表ではまず、初期の『意志的なものと非意志的なもの』(1950年)の意志論の分析を行なう。リクール独自の意志論を支えているのは、「自らを既にそこにある者として見いだすことがなければ、私は新しいものを意志することができない」という一節が示すように、自由な意志には過去理解が不可欠であるとする見解である。その論述を詳しく分析することで、時間の流れのなかで過去と未来が螺旋的に循環することによって構成される現在の「注意」に、人間的自由の成立がかかっていることが明らかとなるはずである。

続いて発表では、『意志的なもの』のうちに『時間と物語』の時間-物語論を先取りする記述が認められることを根拠として、「物語的自己同一性」と人間的自由の関係を明らかにする。すなわち、意志論のうちに時間-物語論を導入し、時間-物語論のうちに意志論を導入する交叉的読解によって、物語ることが人間の自由を可能にするという命題を獲得する。

この命題を得ることで、『時間と物語』において言及された「経験の前-物語的構造」概念や、自己理解の解釈学における「詩的言語」の位置づけを十全に理解する道が開かれる。これらのことを予告して、発表は閉じられるだろう。

マン・レイのレイヨグラフ再考――20・30年代の同時代人による受容との比較を中心に

木水 千里(成城大学)

1921年、マン・レイは感光紙に物体を置き、そこに光を当て像を得る技法を発見し、それをレイヨグラフと名付けた。当時、芸術雑誌を始めモード雑誌にも取り上げられたこの技法は彼を代表するもののひとつとなった。しかし、1977年にロザリンド・クラウスが『オクトーバー』誌において「指標論」を発表して以来、レイヨグラフは「指標」という語と頻繁に結び付けられるようになる。パースに依拠しながら、写真を対象との類似物としてではなく、感光紙上の光の定着という物理的生成からなる指標として捉えるクラウスは、レンズを捨て感光紙のみで成立しているレイヨグラフについて写真の指標性を明示していると述べるのである。以降、フィリップ・デュボワ『写真的行為(L'Acte photographique)』(1990年)等の研究書において「指標」を表す概念とともに紹介されているように、マン・レイのレイヨグラフはその典型として扱われるようになる。

だが、本当にレイヨグラフは写真の本質をもっともよくあらわしている、いわば「写真的写真」なのだろうか。本発表では、写真は指標であるという70年代以降流布した見解からでは見えてこない、マン・レイが考えたレイヨグラフの意義について改めて考察することを目的とする。

そのために、指標記号として認識されている写真を再び類似記号として考察するドミニク・シャトーの論に注目し、写真は指標であるといういささか硬直化した見解をパースの理論の枠内で再検討することから始める。しかし、それは指標としての写真に類似的側面もまた認めることを意味しない。写真における類似を、一点一点がその対象と対応しているから似ているとみなされる指標的類似と、現実の指標の選別・変形という抽象・抽出化の過程によってそれ自身が記号となり、その対象を喚起させることができる類像的類似という二つの類似に分けることで、写真を指標記号のみに分類するという70年代以降一般的に広がった傾向に対する見直しが試みられているのである。

そして、マン・レイと近い存在であったシュルレアリストの写真理解は、まさにこの類像的類似によるものであることを明らかにし、20・30年代のフランスにおける写真理解を改めて整理する。このような類似としての写真理解において、レンズを捨てたレイヨグラフは非類似的写真として捉えられていた。しかし、マン・レイは写真の指標性を十分理解しており、その上で自ら光源を操ることが可能なレイヨグラフという技法を用い、対象の反射光を定着させるのではなく、光で描くことを試みた。そのとき彼にとって、もはや写真の本質が指標にあるのか、あるいは類似にあるのかということは問題ではない。マン・レイにとってレイヨグラフとは、ある構想を実現化することによって結果的に生じた写真という表現方法に対する軽視、あるいは写真という媒体を自由に用いた制作活動だった。レイヨグラフについての考察は、表現方法を自由に使うという20世紀美術における彼独自の構想を浮かび上がらせてくれるだろう。

名取洋之助のフォト・ジャーナリズム論――岩波写真文庫(1950-58)を中心に

山本 佐恵(日本大学)

本発表の目的は、1950年から58年までの間に286冊刊行され、従来にないまったく斬新なグラフィック・スタイルの出版物として当時人気を博した「岩波写真文庫」を中心に、戦後における名取洋之助のフォト・ジャーナリストとしての位置づけとその写真論を検討することである。

岩波写真文庫は、戦後の用紙不足と資材難で前途に不安を抱いていた岩波書店が、戦後の出版界を生き抜くための展開として、写真・映画などの新しい映像メディアにも進出する必要を感じていたことから設立した岩波映画製作所によって創刊された。同写真文庫は、岩波映画製作所の経営基盤を確立する重要な柱の一つだった。

「岩波文庫の写真版」という構想のもと、その編集長には、戦前に、報道写真のスペシャリストとしてドイツ仕込みのフォト・ジャーナリズムを日本に導入した名取洋之助が迎えられた。名取は戦時中、日本の国家宣伝に深く関わった後、戦後は「日本の『ライフ』」を標榜して『週刊サンニュース』を創刊したものの、経営的に行き詰まりフリーの状態にあった。岩波写真文庫は、フォト・ジャーナリストとしての名取が戦後に成し遂げた最後の大きな仕事の一つである。

日本の写真史に大きな足跡を残した名取洋之助については、対外宣伝グラフ雑誌『NIPPON』をはじめとする、戦時下の日本の国家宣伝に深く関わった1930年代から40年代までの活動について、多くの重要な先行研究がある。しかし戦後の名取の活動について、その社会的意義や歴史的な位置づけを検討したものはまだ少ない。

だが、「戦時下のプロパガンディスト」という従来の名取洋之助像から離れて岩波写真文庫における仕事を振り返った時、「写真によってわかりやすくメッセージを伝える」という名取の写真論は、むしろ「戦後民主主義」の時代にこそ、より生きるものであったといえるのではないだろうか。

本発表では、そうした視点から名取の仕事を再検討する材料の一つとして、岩波写真文庫を中心にとりあげる。その中でも、名取自身が監修した『写真』、『アメリカ』、〈新風土記〉シリーズ等は彼の写真論を探るうえで重要なものだが、その他にも初期の岩波写真文庫におけるベストセラーとなった『様式の歴史』『仏像―イコノグラフィ―』などの「美術もの」や、羽仁進が監修した『心と顔』なども、名取のフォト・ジャーナリズムについての姿勢を考えるうえで興味深いヒントを与えてくれる。

これらの企画は、1950年代の「大衆教養主義」ともいうべき時代の空気の中から生まれたものでもあったが、同時に、「写真の読みかた」を戦後の大衆に啓蒙し、写真の「大衆化」に努めた名取の考え方を色濃く反映したものでもあった。当時の出版物や関連文献などから、岩波写真文庫刊行時における時代背景や制作意図などを明らかにし、その上で、岩波写真文庫にみられる名取洋之助の写真論と彼の位置づけについて考察する。

引喩によるキュア――共同記憶としてのペトラルカ『死の凱旋』

田中 佳佑(上智大学中世思想研究所)

ハイパーリンクを日常的に利用する現代人にとって、引喩(allusion)はもはや修辞として際立つ技法ではない。それどころかあらゆるジャンルの芸術で、目指すべきひとつの効果から所与の条件へと、引喩の地位は転倒して久しい。ただしこれは、われわれの生から引喩が締め出されたということではなく、却ってわれわれが引喩を生きるようになったということを意味するのかもしれない。この疑念は、言換えれば、歴史内「個人」の存立可能性に対する表象論的疑いであり、歴史学と美学との狭間の問いである。現代人の共同記憶=歴史は、「個人」の記憶(口述か筆記による史料)の限定的集積としては成り立たず、むしろ膨大な虚構(無論そのなかには報道「記録」も含まれる)に媒介されて「他者」の生を自分の生に取込み意味づけするという仕方で引喩的に加工された記憶の、無際限に相互引用可能な、したがって不可逆に増殖し続ける堆積としてのみ成り立つのではないか。そう考えるほか、災害や戦争などの歴史的危機にみまわれた「他者」の惨状が映像や言説を介して強迫的なほど熱心に、また当り前のように消費されている理由が、よく解らない。

1348年ヨーロッパでは、年頭フリウーリで起きた大地震に続いて広範囲に黒死病も流行し、その病原と見なされたユダヤ人への差別的虐待が横行した。所謂「大ペスト年」である。イタリアの文人ペトラルカはこの災害で恋人と親友とを同時に喪った。そして1352年から執筆を始めたと推定される未完の詩『凱旋』は、著名な古代人の事績を連ねて讃える構成のうち第三巻『死の凱旋』だけが異例で、死んだ恋人(同時代人)と対話する場面を設える。従来この箇所は、ペトラルカの詩を「甘き憂いの生」の表現と見るF・デ・サンクティス以来の伝統にしたがい、詩人の「個人」的な心情表白と解釈されてきた。これに対し本発表では、当該箇所が偽プラトーン、キケロー、セネカ、偽セネカ、ウェルギリウスからの数多の引喩に織り成されて古典的死生観のトポスを反復する哲学叙述であること、それゆえ詩行自体は類型思考の踏襲であり詩人の独創的表白ではないことを、各句を逐い適示する。そのうえで本発表では、「大ペスト年」を経てヨーロッパ精神が否応なく政治・経済・文化すべての面で新たな水準に立つことを余儀なくされた状況下、ペトラルカが自分の喪失と時代の危機とを重ね合せ、それらのためのキュア(肉体的治癒/精神的救済)を、まさしくみずから引喩を生きることによって見出そうとしたのではないかと考える。ペトラルカは当該作品のなかで女神アウローラとその恋人ティートーノスとの悲恋の神話を引喩し、後者に擬して自分を慰めている。本発表は、この《引喩を生きる》という詩人の在り方をわれわれの近代的な感性にも通ずる生と観て、引喩が修辞技法として本来有していた感情への訴求効果を、もういちど評価し考えるためのよすがと為す。

墓碑建築としての伝記集――ヴァザーリ『芸術家列伝』再考

古川 萌(京都大学)

16世紀の画家・建築家ジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)が著した『芸術家列伝』(初版1550、二版1568)は、13世紀から16世紀のイタリアの芸術家たちの生涯を綴った伝記集である。おもに様式という観点から芸術の発展を記述し、マニエラ・モデルナを称揚した書物として名高く、また芸術家の生涯についての資料としても活用されてきた。しかし、『芸術家列伝』が基本的に伝記の集まりという形式を取っており、ヴァザーリが書いているのは「芸術の歴史」というより、むしろ「芸術家の歴史」であることは、これまでの研究において比較的軽視されていたように思われる。

本発表は、『芸術家列伝』が伝記集であるという事実に立ち戻り、この書物の構成と役割について再考するものである。伝記に含められたエピタフ(墓碑銘)と、芸術家の木版肖像画を主な手がかりとして、これら伝記のひとつひとつを芸術家の死後の名声を約束する「墓碑」であると解釈することにより、『芸術家列伝』のあらたな側面が浮かび上がってくるだろう。

『芸術家列伝』に収録されている伝記の多くは、とりわけ初版において、その芸術家に捧げられたエピタフ(墓碑銘)で締めくくられている。それらのエピタフは必ずしも芸術家の墓碑に刻みつけられた碑文ではなく、詩人が死者に捧げる詩を紙に書き、それを墓碑に貼りつけたものも含まれる。エピタフには、その芸術家の生涯を要約したものや、生涯のなかの一エピソードを喚起させる内容のものが見られ、このことから、エピタフがその伝記で書かれたことを反復する小さな伝記としての役割を担ったことが推測される。

しかし、初版で多く見られたエピタフは、1568年に出版された『芸術家列伝』二版では大量に削られることとなり、代わりに初版にはなかった木版肖像画が収録された。これがエピタフに代わって死のイメージを喚起させる要素として機能し、伝記はますます墓碑の様相を呈することとなる。というのも、これらの肖像画はヴァザーリ自身の図案に基づいた複雑な建築的構造を持った枠に入れられ、単なる肖像画ではない、モニュメントのような装飾を施されているためである。さらに、この装飾枠には肖像がなかに描かれた楕円と諸芸術の擬人像があしらわれており、これが同じくヴァザーリの図案に基づくミケランジェロの墓碑に類似していることから、ヴァザーリがまさに墓碑を想起するようにこの装飾枠を構想したことがうかがわれる。したがって、この肖像の直後に続く伝記の本文は長大なエピタフとして解釈し、ひとつひとつの伝記をモニュメントとエピタフを併せもつ墓碑として見ることが可能なのである。

これらのことから、『芸術家列伝』は墓碑が立ち並ぶ空間を有するもの、すなわち建築としてみなしうる。本発表では、『芸術家列伝』が建築としての書物の系譜上にありながら、それが墓碑の建築であるという点において特異な存在であることを提示したい。

趣味判断の原像――カント『判断力批判』におけるUrbild(原像)概念をめぐって

大熊 洋行(東京大学)

I. カント(1724-1804)が批判期に一貫して用いる概念にUrbild(原像)概念がある。J. J. DiCensoが“The Concept of Urbild in Kant's Philosophy of Religion”で宗教的意義にそくして述べるように、この概念は『純粋理性批判』(1781/87)以来、ドイツ語の通常の用法と同様に理念と理想について用いられており、この点は批判期で一貫している。しかし、とりわけ『判断力批判』(1790)において美しいものの「かたち」が問題とされるとき、「像」の緊張を孕んだありかたが明らかになる。本発表はこの問題について同書における用法と思考を探る。この概念が用いられる個所は二か所ある。第一に美の分析論の第三契機、美の理想と標準理念が議論される箇所、第二に美しい技術(芸術)の議論で美的理念に対し用いられる箇所である。それゆえこの概念を問題とすることは『判断力批判』の二つの理念の関係を問うことであり、さらに同書第一部の前半と後半との関係を問うことでもある。

標準理念と美の理想では一つの統一された像が問題とされる。これは我々の通常の語法から了解しやすい。しかし美的理念とは理念そのものを提示する一つの像というよりも、理念を人々の思考に引き起こす副次的な諸表象(Nebenvorstellungen)の集積を意味する。つまり美的理念においては通常の理解におけるような像が直接的に結ばれることはなく、集積された副次的な諸表象によって間接的に思考が引き起こされる。それゆえこの問いは、『判断力批判』の理想・理念において像とは何か、かたちをめぐって下される趣味判断はいかなる仕方で判断するのか、かたちと像とはいかなる関係にあるのか、美的理念はいかなる意味で原像たり得ているのか、といった趣味判断の根本構造をめぐる問いへと繋がる。

以上をふまえ本発表は、第一に標準理念、美の理想と美的理念の構造を理性理念とを比較しつつ検討し、『判断力批判』における像概念が感性的な受容性と知的な自発性との緊張関係の中にあることを示し、第二に趣味判断の様式と認識判断のそれと比較することで、かたちと像とをめぐってなされる判断の仕方を明らかにする。これをうけて第三に『判断力批判』における美的理念が、表現概念の導入とともにその自発的な側面の強調を通して、判断の「原的な」像としての位置付けを得ることがあかされる。

さらにこの考察を通して、原像としての美的理念において働き、『判断力批判』第二部において中心概念の一つとなる「自然の技巧」へと連なる概念でもある「技術」ないし「技巧」のあり方にもまた光があてられる。美的理念は美しい技術(芸術)をめぐる議論の中で導入される概念であり、こうした判断の働きもまた「第一序論」で示された判断力の技巧的な働きの一つのあり方でもあるからである。

解釈学と論理学――ダンハウアーからシュライアマハーまで

桑原 俊介(東京大学)

『解釈学と批判』(1819)の冒頭付近においてシュライアマハー(Fr. Schleiermacher)は、従来の解釈学が「論理学の付属物」として構想されてきた点を批判する。それは何を意味するのか。本発表は、Hermeneuticaが成立する17世紀前半からシュライアマハーへと至る、とりわけドイツにおける解釈学と論理学との関係性を歴史的に捉え返すことを課題とする。

Hermeneuticaという名称を提起し、それをひとつの独立した近代的学問として構想したのは17世紀前半の神学者ダンハウアーである。彼は解釈学を「論理学の一部」として構想した。その根拠は、第一に、アリストテレスの論理学(オルガノン)が不十分であり、それを「補完」する必要があること、第二に、特殊解釈学に限定されない一般解釈学を構想するにあたり、すべての学問の基礎的方法論としての論理学が最適であった点が挙げられる。

かかる「論理学の一部」としての解釈学という構想は、17世紀末以来の、とりわけドイツ啓蒙主義の解釈学において継承され、例えばトマージウスは、解釈学を、真理の発見、伝達、理解、判定、反駁という論理学の5つの方法論的区分の第三を担うものとして位置づける。またマイアーは、解釈学を論理学の一部として位置づけるのみならず、解釈学の方法そのものを論理学の手法の適用として規定する。

一方でシュライアマハーは、かかる「論理学の一部」としての解釈学の構想を批判し、解釈学を、いかなる学問にも帰属せず、いかなる学問の論理にも還元され得ない独自の方法論として構築することを試みる。ここに彼の解釈学の独自性のひとつがある。とはいえシュライアマハーは、同時に、解釈学と論理学とを相互依存関係に置くべきことを主張する。ただしそこで想定されていた論理学とは、従来の論理学とは異なる。つまり彼は、従来の論理学を、彼独自の「弁証法」という形で再構成した上で、解釈学と論理学(弁証法)とを相互補完関係に置く。

また、本発表では、解釈学と論理学とに関わる「蓋然性」概念にも注目する。17世紀中葉より、とりわけパスカル等によって学問領域が「必然性」の領域から「蓋然性」の領域まで拡張される。トマージウスやマイアーは、解釈学をかかる蓋然性の領域において可能な学問として位置づける。近代的な学問としての解釈学が可能となるひとつの契機として、このような学問の拡張が挙げられる。シュライアマハーも、解釈学を蓋然性の領域と関係づけ、とりわけそれを「予見的方法」として特徴づける。

以上のように、シュライアマハー解釈学を、論理学との歴史的関係性において捉え返すことで、シュライアマハー解釈学と彼以前の解釈学との断絶面のひとつを明らかにし、その独自性の一端を闡明することが本発表の最終的な目的を構成する。

悪しき行いの知覚における〈原罪的なるもの〉の関与――ルイジ・パレイゾンの道徳論にみられる《悪》《自由》《美》の関連性

片桐 亜古(札幌大谷大学)

本発表は、イタリアの哲学者ルイジ・パレイゾン(1918-1991)が提示した芸術活動における道徳的実践活動の関与をテーマとする研究の一環として、道徳的実践活動をめぐる彼の思索を考察するものである。

道徳的実践活動に関するパレイゾンの思索の中心テーマは、《悪》と《自由》である。

パレイゾンが「人間の行為の実行は、自由における意思決定によるものである」と述べる時、それはある状況においていかなる行動を起こすかを自分の意志で決定し実行することを意味するだけではない。彼によれば、今ある状況を受入れるか否かに関してまず人は選択を迫られる。自己の実存的自由の行使を、既にそこで求められているのである。

我々は、善に対しても悪に対しても常に等しく開かれた状況におかれている。実行される行為が善きものであっても悪しきものであっても、主体の意志に基づいた決定であり実行である、という点において違いはない。善なる行いが尊いというのは、善も悪も選択する自由がある中で善を選んだからこそである。「“強要された”善よりも自由において選んだ悪の方が好ましいことを[…]否定する人は誰もいないであろう」とパレイゾンは述べる。

彼は、現実の世界にみられる悪は、可能性としてあった《悪》が人間の行為の実行によって現実化したものとみる。行為の主体の意図の下、《悪》は現実のものとなる。パレイゾンによれば、この《悪》実現への意志こそが、《悪》をめぐる最も悲観すべき様相である 。悪しき行いの実行を、主体による《自由》の行使と《悪》の現勢化の関連性という観点から考察する、というのが本発表における第一の論点である。

現勢化した《悪》は、状況に応じた様態で顕在化する。パレイゾンによれば、顕在化した多様な《悪》の様態を解釈することによってのみ《悪》の認識は可能である 。彼は、人間存在の始源を《自由》と《悪》の関連性において表象的に描いたものとして、聖書の《原罪》をめぐる物語を挙げる 。人間が背負うことを運命づけられた“《原罪》的なるもの”をめぐるパレイゾンの論旨を参照しながら、それが悪しき行いの知覚においていかに関与するかを検討する、というのが第二の論点である。

悪しき行いの知覚体験が美的体験となる可能性の有無を検討する、というのが第三の論点である。パレイゾンは、ある行いの実行において「その限定された状況において出来うる善きことがまさに余すところなく実現された時」あるいは「満足できるかたちで為された時」それは道徳的に価値があるばかりではなく美しい行為とみなすことが出来る、と述べる 。美しい行為とは、善きことが十全に実現された行為ということになる。では、仮に悪しき行為であっても、それが十全に実現され満足できるかたちを備えているものであれば、美しい行為とみなすことはできないであろうか。

舞踊は何を表現しているのか――運動感覚のダイナミズムが示すもの

柿沼 美穂

舞踊は人間の地上生活と同時に発現したとされるほど古い起源をもち、舞踊に類似した動作をもたない民族はほとんどいない。ところが、「舞踊とは何か――舞踊は何を表現し、何を創造し、他の芸術、芸術家、現実の世界とどのような関係にあるのか」に関しては、いまだ「混乱」状況が続いている。しかしながらランガーの指摘と推測のとおり、「混乱」状態にこそ哲学的考察の意味があるのではないか。なぜならそうした混乱状態は、舞踊にさまざまな知覚能力が関係することから生じると考えられるからである。

舞踊は視覚と聴覚の双方に働きかけ、空間芸術であるとともに時間芸術でもあるが、舞踊にとりわけ特徴的なのは、舞踊をする者のみならず見る側の深部感覚である、体性感覚としての運動感覚に大きな影響を与える点である。通常は自己自身の動きにおいて生ずると考えられがちな運動感覚であるが、実際には他者の動きに対してもそのような感覚を感じ取ることはできる。そうであれば、舞踊をとりまく「混乱」状況を整理する契機として、このような運動感覚を再考する必要性があるだろう。

さらに、空間的かつ時間的である運動感覚は、力や抵抗感といったダイナミックな力動感の変化に深く関係する点で、主観的な時間の感覚に強いつながりをもつものと考えられる。カントは内官の形式としての時間秩序によって、諸知覚が時間軸に沿って分節化し、秩序ある現象として把握されうるとした。舞踊は、たしかに時間軸に沿って新たな運動現象を提示していると言えるだろうが、その反面でカントの分析は、力や抵抗感といった上述の運動感覚の説明としては不満が残る。

実際にカントにおいては、ダイナミックな力動感をともなう運動は特段考慮の対象となっていない。その後ベルクソンは、空間的認識として分割できない「持続」である意識流が時間の基盤となっていると考え、そのダイナミズムに注目したが、こうした持続と人間の感覚との関係については詳述しなかった。さらには、運動が人間の知覚を裏打ちすると考えたメルロ=ポンティも、運動のダイナミズムが視覚や聴覚といったより個別的な知覚とどのように関係しているか、そして、そのダイナミズムと人間が有する意識における時間性との関係については十分に考察していないと思われる。

今回の発表では、上述のような理論的観点を踏まえつつ、舞踊が人間の運動のダイナミズムと知覚、さらにその知覚による世界との関係を表現している点について再考する。このダイナミズムこそが、人間の運動を可能にし、継続的な記憶の基盤となること、そしてわれわれの知覚を時間的空間的に分節化することが理解されよう。それによって「舞踊とは何か」という問い、特に「舞踊が何を表現しているのか」という問いに対する回答に迫りたい。

イメージと時間――ドゥルーズのイメージ論

渡辺 洋平(京都大学)

1980年代前半、ドゥルーズは相次いでイメージに関係する著作を上梓する。すなわち、画家フランシス・ベーコン論である『感覚の論理』(1981)と、二冊からなる映画論『シネマ1――運動イメージ』(1983)、および『シネマ2――時間イメージ』(1985)である。たしかにドゥルーズはそれまでの著作でも、ほぼ常になんらかのかたちで芸術や芸術作品に対して言及してきた。しかし、このように著作というまとまったかたちで絵画や映画が論じられるのは、この時期を措いて他にはない。では、この時期にドゥルーズにイメージに関する論考を書かせたものは何だったのか。そこにはおそらく、70年代における精神分析家フェリックス・ガタリとの共同作業において生み出された、動物への生成変化や顔貌性といった概念、あるいは言語学的ではない記号論といった考え方が大きく関係していよう。

だが本発表では、これらのイメージにまつわる著作を、時間の問題から考察することを試みたい。というのも『感覚の論理』においてドゥルーズ自身が、画家、音楽家、作家はみな時間を感覚可能なものにし、感覚可能な時間を表現することを課題にしていると述べ、まさしくベーコンはこの課題を成し遂げた画家であると言われているからである。このことはまた、時間という問題がドゥルーズの芸術論における主要な関心事であったことを意味していよう。事実『感覚の論理』に次いで出版された映画論もまた、その名の通り、それぞれ運動と時間という概念を軸として映画におけるイメージを考察したものであった。この点において、これらの映画論も『感覚の論理』においてなされた考察の延長上にあったと考えられる。そこで本発表では、『感覚の論理』と映画論を同時に取り扱うことによって、広くイメージと時間の関係性を考察することを試みる。また時間の問題は、ドゥルーズが初期から一貫して追求してきた問題でもあり、これらのイメージ論における時間のあり方を考察することによって、ドゥルーズ独自の思想を明確化することも可能となるであろう。

以上より、本発表は、ドゥルーズのイメージ論の特質を明らかにするだけでなく、ドゥルーズの時間に対する視点や、イメージと時間の関係性ついても明確化すること目指す。またこの過程において、絵画イメージと映画イメージの違いについても考察したい。それによって、芸術作品と時間の関係についてひとつの視点をあたえることができるだろう。

ジャン・コクトーの映画における現実とフィクション――『オルフェの遺言』(1960)を中心に

水田 百合子(大阪大学)

『オルフェの遺言』(1960)は、ジャン・コクトー(1889-1963)が監督した最後の映画である。この映画の主人公は詩人であり、70歳になったコクトー自らがその役を演じている。一種の自伝ふう映画であり映画『オルフェ』(1950)の続編でもあると見なされている。ほかにも彼の初めての映画『詩人の血』(1930)がこの作品と対をなすという意見もある。『詩人の血』ですでにコクトーは、デッサンをはじめとする自分の作品を引用し、芸術家の人生を表現しようとつとめていたからである。本発表では、これら一連の映画作品世界の中で、コクトーが詩人としての自分自身の姿をどのように変容させているのかを、『オルフェの遺言』を中心に分析し考察する。

『オルフェ』が、ギリシア神話の詩人の原型オルフェウスに自身を重ね合わせて作った映画だとすれば、その約10年後に制作された『オルフェの遺言』は、コクトー自身がそのオルフェウスの系譜にいることを、自分の身体を通じて見せようとしたものだと思われる。自伝的映画の変容を分析すれば、コクトーが死へと近づく自分の生をどのように映像化しようとしてきたかが明らかになろう。『オルフェの遺言』の中で、主人公である詩人は、ミネルヴァに矢で射抜かれて殺されるが、その直後すぐに生き返って立ち上がる。この死と再生のテーマは、これら三つの映画に共通するモチーフである。それは際限なく反復される作品創造を表しているのであろうか。コクトーによれば詩人は、人間にとっての限界である限定された現実の時空間から、境界を越えてそれとは感覚の異なる世界へ解き放たれる。時間を遡り、また空間を飛び越えることこそ、詩人の特権にほかならない。映画は、詩人のその非現実的な現実を作り上げ、詩の本質を明るみにする試みであったといえよう。

『オルフェの遺言』でコクトーはみずから被写体となって、スクリーン内の世界へ入り込む。友人たちも役を得て出演している。映画の舞台は、コクトーが晩年を過ごした南仏である。この作品に詩人の現実生活は、どのように、どこまで投影されているであろうか。コクトーの芸術作品(デッサン・絵画・壁画・タペストリー)や彼自身の演劇や映画の登場人物たちも頻繁にあらわれている。現実とフィクションは、どのように入り混じり、反発し合い、一体化しているであろうか。こうして生まれた新たな作品世界では、作家コクトーと作品が対話を交わしている。コクトーは自らの晩年に映画という表現手段を用いて、初期から追求してきた自己引用という創作スタイルを発展させている。

ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ作《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》再考――パンテオン壁画の連関を通して

江澤 菜櫻子(早稲田大学)

《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》は、ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)の晩年の代表作であり、象徴主義絵画の好例とされる。本作はパリのパンテオンのために制作された壁画群の1点であるにもかかわらず、単独で取り上げられることが多く、他の壁画との関連性は殆ど論じられていない。そこで本発表では、ピュヴィがパンテオンに描いた三連画《パリに食糧を供給する聖ジュヌヴィエーヴ》との関連性を主軸に、新たな解釈を提示する。

本発表では、まず、《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》にも、その隣に位置する三連画にもパリの都市壁という同一のモチーフが描かれ、ピュヴィが両作品をひとつの連なりの内に捉えていたことを指摘する。

次に、《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》の習作から作品制作過程を検討し、三連画との間に対照性を構築しようとする画家の構想を明らかにする。《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》の習作段階においては、戦乱や飢饉を示すモチーフが描き込まれているものの、完成作ではこのような説明的要素はほとんど削除され、モチーフが限定されることによって静謐な画面が生まれている。これは、三連画において、飢饉を示すモチーフがいくつも描かれ、パリの群衆が画面中央に向かって集結する動的な画面が構成されている点と極めて対照的である。

パンテオン装飾計画書では、これらすべての壁画において、飢饉に陥る戦時下のパリを救う聖ジュヌヴィエーヴを描くことが予定されていたのにもかかわらず、ピュヴィは、飢饉に陥るパリを三連画に描く一方、計画書には指示のない《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》という主題を生み、聖女が一人静かに佇んで眼下の街を見つめる姿を表したのである。また、このような三連画との対照は、ピュヴィが1870年代に同じくパンテオンのために描いた別の壁画連作においても見出せる特徴であることを示し、ピュヴィの構想の源泉を挙げる。

更には、《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》における説明的モチーフの削除という手法が、《マグダラのマリア》などのイーゼル画においてピュヴィがしばしば試みてきた手法の延長線上にあることを指摘する。これらのイーゼル画は、説明的要素の限定によって、描かれた人物像の内面を描こうとするものであり、とりわけ孤独や喪失感といった感情に焦点が当てられていた。

《眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ》においてもピュヴィは、このような人間的感情を表現しようとしたものと考えられる。ピュヴィは、本作と三連画との間に造形的対照性を生むことによって、パリ救済に尽力する果敢な聖人としての聖ジュヌヴィエーヴを描く反面、過酷な状況下に置かれた彼女の人間的な悲哀や孤独を表し、聖女の持つ二面性を表現したのである。

「留守模様」としての歴史画――川村清雄《建国》をめぐって

村上 敬(静岡県立美術館)

オルセー美術館所蔵の絵画《建国》(1929、絹本油彩)。日本近代洋画草創期の画家・川村清雄(1852-1934)が天石屋戸神話を絵画化した本作は、「装飾性」を武器として「日本的歴史画」の実現に挑んだ果敢な実験であり、川村の画業の一到達点といえる。

先行研究においても《建国》は、例えば「本来人間を中心に構成されるべき歴史画から人物像を取り去って、しかも歴史画の理念とモニュメンタリティーは西洋の観客にも十分にわかるように表現し、さらに「日本の趣味」を十分に発揮する絵画」(高階絵里加)と評価されてきた。

さて、現在《建国》については、その「構想文」とされる川村自筆文書、そしてその「図案」とされる水彩画の存在が知られている(いずれも制作年不詳、東京都江戸東京博物館蔵)。

「構想文」は天石屋戸神話の絵画化についてのテクストであり、そこに示唆されているのは天照大神が天石屋戸から姿を顕した後の神々のうちくつろいだ様子をテーマに据えた群像表現による絵画である。

また、水彩による「図案」は複数の人物が配された構図を持つ。天石屋戸の前で神々が楽器を打ち鳴らし天照大神がその光輝く姿をあらわす、まさにその瞬間が描かれる。

先行研究において、この「構想文」と「図案」は主として群像表現という共通点によって、互いに合致するものとみなされてきた。

これに対し、《建国》はこれらと大きく異なる構図を持つ。鶏を画面中央に大きくあしらい、人物(神々)は描かれていない。そのため、《建国》は「構想文」「図案」と主題をともにしつつ、構図においてはそれらを破棄した全く新たな構想のもとに制作された作品とされてきた。

だが、本当にそうであろうか。

今回、ある美術コレクターを通じ、「図案」と酷似した構図を持つ未知の川村清雄作品が雑誌口絵として出版されているとの情報を得た(『日本一』2巻1号=1916年1月号所収)。

本発表ではこの発見をうけ、今まで考えられてきた「構想文」「図案」《建国》の三者の関係を見直し、「構想文」と《建国》とを密接に関連づけ、「図案」は全く別の機会(すなわち雑誌口絵執筆準備)のために描かれたという説を提起したい。この説は下記諸点によって補強される。

1)「構想文」は天石屋戸神話の「事件後」、穏やかに憩う神々のありさまを描いたものであるのに対し、「図案」は事件の決定的瞬間を描いたもの。描かれた神話上の時点が違う。

2)「桜木」「高器」といった「構想文」の主要モチーフは「図案」には描かれていないが、《建国》には描かれている。

一方、《建国》には、「構想文」に示唆される神々の群像が描かれていないが、これはいわば一種の「留守模様」であると解釈し得る。

先行研究の示すように、《建国》は日本的歴史画創造の試みである。ここではさらに一歩を進め、それが「留守模様」という日本的絵画作法によって試みられていることを示し、その意義を考えたい。

式場隆三郎試論――山下清の神話を越えて

古舘 遼(東京大学)

アール・ブリュットは、フランスの芸術家デュビュッフェ(1901-1985)が1945年頃に提唱した概念で、日本語では「生(き)の芸術」と訳される。当初は、主に精神病患者や幻視者の創作物を指し、既成の美術概念を打ち破る特異な表現として注目された。ところが近年の日本では、とりわけ知的障害者の創作に光を当てる概念として関心を集めている。ミュージアムで作品が展示される機会が増し、専門のギャラリーも各地に設立されている。それと並行し、障害者の自立および尊厳の確立、あるいは地域振興の手段として地方行政が積極的に関わるようになったことも、特筆すべきであろう。

ところで、日本の障害者アートを考えるとき、山下清(1922-1971)の存在を無視することはできない。1938年の「特異児童作品展」を機に早くから注目され、後年には「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれるようになり、天才としての評価が確立している。一方で、その紹介者として知られる精神科医・式場隆三郎(1898-1965)とともに、美術の領域からは次第に等閑視されていった。山下の死後、「芸術と素朴」展(世田谷美術館、1986/96年)などにおいて検証されることもあったが、著述や研究の大半は紹介の域を越えず、再評価につながるような蓄積は十分でない。知的障害者の作品を積極的に評価する動きが高まってきた現在こそ、山下や式場の足跡を総体的に見直すべきではないだろうか。

本発表では、式場による著述や普及活動のうち、主に山下清を始めとする知的障害者と、その作品に関連するものを、丹念に読み解くことで、その功罪を検証する。そこから、山下の作品を美術の文脈で再評価する端緒を作ることを目指す。

美術批評において、山下が敬遠されることとなった一因とされるのは、天才という評価が一人歩きし、あまりに大衆化してしまったことである。また、式場がファン・ゴッホ(1853-1890)の研究者でもあったことから、「日本のゴッホ」という言説の根拠を式場に帰する立場も少なくないが、これはメディアによって敷衍されたものに過ぎず、式場が山下とゴッホを結びつけることはほとんどなかったという事実は見過ごされがちだ。この他にも、誤った事実が後年にわたり引用され続けるという重大な問題がある。式場の著述をひとつ一つひも解けば、山下を天才として大衆に売り込もうとする意図がなかったこと、さらに、彼の関心が知的障害者の創作に止まらず、民芸や琉球美術などにまで及んでいたことが分かる。

以上の検証を通じて、幅広い芸術分野に理解を示し、評価しようとした批評家・活動家としての式場隆三郎の実像を浮かび上がらせる。そして、山下清をめぐる「神話」を修正し、「画家」・山下清が美術の文脈において、より評価されるべき対象であることを提起したい。そうすることで、「障害者アート」に代わって注目が高まっている「日本のアール・ブリュット」の評価も、新たな地平に向かうものと考える。

詩作の二つの原因――『詩学』における「類」と「種」の分節

三浦 洋(北海道情報大学)

アリストテレスは『詩学』第四章冒頭で、「思うに、総じて詩作は二つの原因によって発生したのであり、それらは自然的な原因である」(1448b4-5)と述べているが、その後の論述では「二つの原因」に当たる部分を明確には指示していないことから、従来、大別して二通りの解釈が提起されてきた。それぞれの立場を代表するバイウォーターとエルスの頭文字を付して「B解釈」、「E解釈」と呼び分けると、B解釈は「人間の自然本性である模倣」と「模倣の快」、E解釈は「人間の自然本性である模倣」と「音階とリズム(韻律)」を原因とし、第二の原因に関して両解釈は対立する。

近年の解釈の動向は、ハリウェルやヤンコの論考及び英訳に見られるように、B解釈が優勢になっている印象がある(殊に従来の各種日本語訳では、その傾向が支配的である)。しかし、B解釈には二つの深刻な問題がある。第一に、「模倣」の原因が二つ挙げられていることになり、肝心の「詩作」の原因が不明となる。第二に、人間の自然本性に即した活動(例えば模倣)が快を生じさせるという、アリストテレス哲学に広く根を張る快楽説(hedonism)を分割して二つの原因を立てていることから、原因を「二つ」と見なすのは不合理である。このようなB解釈の問題点に目を向ける限り、E解釈を採るべき必然性は疑いえないものの、E解釈には、エルス自らが指摘する難点がある。それは、第一の原因の説明(1448b5-19)に比べ、第二の原因の説明(1448b20-24)が短く、不均衡だというものである。説明の長短を問題にするのは非本質的な指摘にも見えるが、この難点が、E解釈を受け容れにくくし、B解釈支持者を増す一要因になってきたことは否定できない。実際、B解釈支持者の中には、「音階とリズム」に関する説明が短いゆえに、二つの原因に添加された付随的要因と見なす論者が存在する。

そこで本発表では、エルスの指摘する難点が、第四章の論述構造に対する伝統的な誤解に基づくことを明らかにし、E解釈の正当性を示したい。単にE解釈が「無難」だという消極的な理由によってではなく、E解釈によって認められる二つの原因が詩作の類的原因と種的原因に当たる点を指摘し、『詩学』全体の基調をなす「類」と「種」の分節に基づくことを示すのが狙いである。この論点によってこそ、アリストテレスが原因の数を「二つ」と明示した理由も明瞭になるであろう。

プラトン『国家』篇第10巻における絵画製作と模倣術の類比について

田中 一孝(京都大学)

プラトンは『国家』篇第10巻のいわゆる「詩人追放論」において、模倣術を規定するために絵画製作を類比的に用いている。すなわち、プラトンは寝椅子を例にとり、神が製作する寝椅子のイデア、大工がそれを見て製作する実際の寝椅子、そして画家が実物を模倣して生み出す寝椅子の絵画という3区分の存在論を提出し、ここでの絵画製作の理解にもとづいて模倣術全体を理解する。画家は「あるもの」を「ある」がままでなく、「現れるもの」を「現れる」がままに模倣すれば十分であり、模倣する対象についての知は不要である。むしろ模倣したいものに「ほんのわずかに」触れるだけで絵画という「像」を生み出し、あたかもそれが真実であると鑑賞者を欺くことができる。こうした絵画製作についての理解は模倣術全体に拡張され、模倣家は「像」を見せて観衆を騙すまじない師であると言われる(596a-598d)。

絵画製作を通じて模倣術を規定することは、多くの研究者たちによって問題とされてきた。第一に、プラトンの絵画製作についての理解が挙げられる。いうまでもなく、画家は文字通りの「実物」をモデルとして見なくとも、絵画を製作することができる。第二に、詩の批判的吟味という議論の文脈との関連が問題となる。すなわちプラトンは、類としての模倣術についての議論を詩作術という種に適用しているが、詩もまた絵画のように「実物」を見て描写する必要はないし、その詩は絵画のような意味では何らかの「像」ではない。このような詩作と絵画製作の間の差異は、両者を模倣術として同列に扱うことの困難さを示しており、「詩人追放論」が悪名高い一つの原因となっている。本発表の目的は、以上のような問題を念頭に置きながら、絵画製作と模倣術の類比の妥当性を検証することである。

発表ではまず、画家や模倣家たちの「あるもの」についての認識のあり方を明らかにする。寝椅子の例もあって、しばしば「あるもの」は実際にある「実物」として理解されるが、そうした理解は困難であることを示す。

次に、プラトンが画家の営みを説明するために用いる「鏡の比喩」を論じる。画家はあたかも鏡をまわして像を写すように、「あるもの」ではなく「現れ」を生み出すと言われている(596c-596e)。しばしばこの議論は、模倣術あるいは模倣の産物としての「像」の低劣さを、プラトンが挑戦的に強調するためにあえて導出したのだと考えられている。対して、発表者はむしろ、プラトンの絵画理解が端的に現れている議論であると考える。

最後に、絵画製作によって生み出される「像」と、詩作における「像」を相互に比較することにより、プラトンが絵画製作にもとづいて模倣術、さらには詩作術を議論した理由を明らかにしたい。

『マネ』における「遊戯」と「沈黙」――ジョルジュ・バタイユのインファンティアの芸術論

井岡 詩子(京都大学)

本発表は、ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の『マネ』(1955)における「遊戯」と「沈黙」を「インファンティア(幼年期/言語以前の段階)」という概念を通して検討し、バタイユが芸術をどのように捉えていたのかを明らかにすることを目的とする。

「無神学大全」(1943-1945)を完成させたのち、バタイユの思想は変化を見せる。文化人類学に根ざしたある種の人類史とともに独自の理論を展開する作品を多く著すようになるなかで、それまで彼の中心的な関心であった供儀や祝祭、神秘体験といった「違反」が過去の事象として扱われるようになるのである。その代わりにバタイユは、「現代」(彼が生きた時代)にも存続する「違反」として芸術を挙げる。「現代」の芸術と供儀、祝祭の違いとはなんであったのか。このような問いに応えるために「インファンティア」という概念を参照することが有効だと考えられる。「インファンティア」とは、ジョルジョ・アガンベンやジャン=フランソワ・リオタールによる概念で、言語以前の段階としての幼年期を指し、言語活動の不安定さを軸に人間の幼年期(あるいはその性格をもつ作品や人物)を論じる際に用いられる。本発表では『マネ』において「近代絵画の祖」であるマネとその絵画にバタイユが託した性格が、そのような「インファンティア」に属する性格と等しいものであることを明らかにし、バタイユにとっての「現代」の芸術を探る手がかりとする。

『マネ』を通じてバタイユの芸術観に迫る近年の試みでは「操作」という概念が重視されている(江澤健一郎、2005)。「操作」とは、絵画の主題を破壊するマネの表現技法を指してバタイユが用いた言葉である。先行研究ではこの「操作」が芸術における「違反」だとみなされているが、同時期に執筆された『宗教の理論』(1976、没後出版)では、同じ「操作」が祝祭を企図する際の理性的な働きを表す言葉として用いられており、「操作」は供儀や祝祭が過去のものとみなされる原因のひとつであることが伺える。そこで発表者は『マネ』において「操作」の在り方が「遊戯」という言葉で表現されていることに着目し、「現代」の芸術における「違反」の様相を「遊戯」として解釈する。これによって、供儀や祝祭と芸術の違いが明らかになる。加えて、そのような「遊戯」がマネの絵画に呼び起こすという「沈黙」と、バタイユが近代以前の絵画に用いる「雄弁」という言葉の対比に着目し、バタイユが絵画を言語構造に照らして解釈し、言語機能の不全に重きを置いていることを示す。祝祭に対する「遊戯」、言語機能の不全といった要素は、アガンベンやリオタールが「インファンティア」にあてがったものにほかならない。

以上のことから、バタイユが「現代」に存続する違反行為だとみなす芸術が「インファンティア」の性格をもつものであったことを明らかにし、バタイユの芸術論をインファンティアの芸術論として新たに定位する。

ヤン・フートのキュレーションにおける「地域」と「芸術」の関係――ルネ・マグリットを参照点として

利根川 由奈(京都大学)

ベルギー出身のキュレーター、ヤン・フートは、1980年代後半から先駆的なテーマの展覧会を数多くキュレーションしてきた。中でも、彼の問題意識の一つである「地域」というテーマは、ベルギー北部地方の都市・ゲントで開催された「友達の部屋(chambre d'ami)」展(1986年)に表れている。「友達の部屋」展は地域住民の家々に芸術家が作品を展示し、鑑賞者はその家々を回る形式の展覧会であった。そのため、ゲントに多くの観光客を呼ぶことに成功し、地域住民による現代芸術への理解も得られたという。このように、ゲントという特定の「地域」で展覧会を行った背景には、フートがゲント市立現代美術館の館長だったことの他に、ベルギーの特殊な社会背景が関係すると考えられる。というのも、ベルギーは連邦化して3つの地域(北部、南部、首都・ブリュッセル)に分裂したため芸術政策が各地方によって大きく異なるが、ゲントを擁する北部地方の政府は、現代美術の制作を奨励していたためだ。

従来「友達の部屋」展を巡る議論は、ポール・オニールの『キュレーティングの文化、文化のキュレーティング』(2012年)で示されているように、日常生活に芸術が介入する可能性を提示した展覧会という見方が主流であった。しかし、上記のベルギーの状況と、フートが「フラマン(ベルギー北部地方)とオランダの絵画」展(1993年)において、歴史的・文化的背景を共有するオランダと北部地方の芸術の親縁性を示したことを鑑みれば、フートの関心は北部という「地域」にあったという解釈が可能になる。

フートの「地域」への考えを知る手がかりとなるのは、彼によるルネ・マグリットの扱いである。なぜなら、フートは彼を「ワロン人(ベルギーの南部地方出身者)」と名指しているにもかかわらず、彼を北部地方の芸術の継承者として捉えているからだ。マグリットがワロン生まれであること、活動はほとんど首都・ブリュッセルで行ったこと、作風も北部地方を想起させるものではないことを考慮するなら、マグリットと北部地方を結び付けることは困難だと言えよう。だがフートは、上記の「フラマンとオランダの絵画」展で、マグリットの作品を展示していた。さらに、ベルギーの現代芸術家の作品を集めた「視覚の裏側」展(1991年)では、北部地方と縁のある作家とともに、マグリットも加えられていた。一見ご都合主義的にも見えるフートのこのようなマグリットの扱いからは、彼が北部地方の芸術を権威づけるためにマグリットを利用した可能性が浮かび上がる。

よって本発表では、フートのキュレーションにおける「地域」と「芸術」の関係の内実を、フートによるゲントの扱いと、彼のマグリットへの言及と作品の使用法を参照点として明らかにすることを目指す。

人形浄瑠璃文楽における襲名の芸術学的意義について

細田 明宏(帝京大学)

襲名とは先人の名前を受け継ぐことをいい、かつての日本において幅広くみられた慣行であった。こんにちでも人形浄瑠璃や歌舞伎をはじめとする伝統芸能において、師匠などの芸名を受け継ぐことはしばしばおこなわれている。なお人形浄瑠璃や歌舞伎において芸名は、「大きい/小さい」と形容されるように、ランクを表すものとされることも多い。そして芸名を受け継ぐ場合、新たな芸名はそれまでの名前よりも高いランクであることがほとんどである。

さて人形浄瑠璃文楽においては、とりわけ芸名が重要視される。文楽座の舞台に立つためには中堅以上の座員に入門し、芸名をつけてもらう必要がある。つまり芸名は文楽座の舞台に立つための条件の一つなのである。また、ほとんど全ての技芸員は、技芸が未熟なうちに師匠に入門するが、初めての芸名は低いランクの名前(「子ども名前」など)が与えられる。そして技芸が向上すると、座員仲間や興行主、贔屓などの許しを得てより高いランクの芸名を名乗ることができるようになるのである。なお襲名とは、一定以上のランクの芸名を受け継ぐ場合にのみいう。襲名に際しては、公演で披露がなされることがあり、しばしば観客の注目を集めることとなる。

人形浄瑠璃における襲名については、あこがれに近い素朴な注目を集める一方で、評論家などからは、実力が伴っていない襲名は単なる話題作りにすぎないなどと、厳しい視線も投げかけられてきた。また、技芸さえ良ければ名前などどうだってよいと、襲名の意義すら否定する主張もなされている。

確かに襲名は、純粋に技芸のよしあしを考慮してなされるものではない。では文楽において、襲名した当人に芸術上の影響はないのだろうか。本発表ではこのような、襲名の芸術学的意義について考察する。

これまで、襲名の芸術学的意義については、芸名が守るべき「型」としてはたらくという服部幸雄の説などが提出されている。それらは芸名そのものが何らかの力を持つという考え方に立つといえる。しかしそのような考え方は、芸名を受け継いだ演者が芸風を変えるといった事態をうまく説明することができない。

そこで注目すべきなのは、文楽において入門は加入式の意味合いを強く持っていることであろう。さらに襲名に際しては、必ず先人の業績や芸談を再認識することになる。そのことにより、襲名後の芸術活動の指針を得ることができるはずである。つまり襲名が一つの契機となることにより、芸術内容に変化が生じる可能性があるといえるだろう。

三島由紀夫――文体の美学

井上 聡(京都大学)

三島由紀夫(1925-1970)の思想的側面については、行動的肉体論、またはそれと結びついた日本主義的政治思想に言及されることが多い。しかし、彼の思想の核心には「文体」という美的概念を中心とした文学観があり、その独特の文学観の延長上に行動論や政治論が出てきたのではないか、というのが本発表の主張である。

本発表の意義は三つある。一つは、三島研究において、文学研究と思想研究は、別個になされる傾向にあり、それらをつなぐ観点の開拓が必要だが、「文体」を中心に据えれば、そのような視点の開発が可能であること。二つ目としては、三島の考えた「文体」を中心にした文学観はどのようなものだったかを、他の作家の文学観や、いくつかの文学理論と対照させて明確にすれば、文学理論の分野にも貢献出来ること。三つ目は、「文体」に注目して、三島の、文学と政治思想をつなぐ回路を見出すことにより、「文学と政治」あるいは「美と政治」という問題の考察に寄与しうるという点にある。

三島の思想の柱には「文体」があるという根拠は二つある。一つ目は、思想面で言及されることの多い行動論と政治論を、本格的に三島が展開した文章は、晩年に集中している(『太陽と鉄』1965-1968年、『文化防衛論』1968年)が、それに対して、「文体」は、初期の『批評家に小説がわかるか』(1951年)の「文体において言葉は行為となる」や、『文章読本』(1959年)の「文体による現象の克服こそが文章の最後の理想」を経て、晩年の『日本文学小史』(1969-1970年)などに至るまで、一貫して論じ続けられたこと。二つ目は、政治思想である晩年の『太陽と鉄』にも、『文化防衛論』にも、「文体」またはそれに類した表現(形、フォルム)が出てくるということである。例えば、『太陽と鉄』には「私の中でひそかに芸術と生活、文体と行動倫理との統一が企てられはじめていた」とある。以上、二つの理由から、三島の思想を考える際には、「文体」を中心にして、行動論や政治思想を解明することが適当であると思う。

発表では、まず、先行研究で、三島文学研究と三島の政治思想研究が乖離しがちであることを指摘する。次に、三島の仕事を考察する上で、「文体」を中心に考えてみれば、彼の文学と政治思想をともに評価しうる観点が得られるという考えを提示する。その後、三島の言う「文体」とはどのようなものだったかを、谷崎潤一郎や吉行淳之介など近代日本の複数の作家の「文体」観や、西洋の文学理論、日本の古典文芸論と対比させながら、明確にする。最後に、そのような三島「文体」観と、彼の肉体論や政治論がどのように結びつくのかをあらためて論ずる。

中西夏之の絵画場の研究――土方巽との協働からの影響を中心に

小田原 のどか(筑波大学)

本発表は、土方巽(1928-1986)の舞踏との関わりから生じたと考えられる中西夏之(1935-)の絵画論と絵画制作方法の転換について考察することで、中西の画業をつらぬく絵画場の思想の着想と展開の端緒を示すものである。

画家・中西夏之(1935-)は現在までの50年におよぶ作家活動を通して、様々なメディアによる表現に携わってきたが、ある時期から絵画の制作に集中している。発表者は、中西が絵画に集中し独自の絵画論を構築するきっかけとして、画業の最初期からおよそ10年にわたって舞踏家・土方巽の舞踏公演の舞台美術を手がけていたことに着目し、2人の協働の具体的な調査をおこなった。

 

土方の舞台に中西が提供した美術作品や装置の概要、同時期にもっていた制作のアイデア等は[舞台美術メモ]として中西によって記録されており、本発表では、慶応義塾大学アート・センターの土方巽アーカイブにて保管されている[舞台美術メモ]の調査結果を手がかりに、土方が中西との濃密な恊働関係を築くきっかけとなった〈バラ色ダンス――A LA MAISON DE M. CIVECAWA(渋澤さんの家の方へ)〉と、1960年代の土方の舞踏の真骨頂と評され、2人の恊働が最高潮で結実した〈土方巽と日本人-肉体の叛乱〉の2公演における2人の恊働に光をあてた。

1965年に発表された〈バラ色ダンス〉では、フォンテーヌ・ブロー派『ガブリエル・デストレとその姉妹』をもとに制作された中西の油彩画『ピンクと緑の習作』(1964年)が土方に提示されたことがきっかけとなり、それまで色彩的な要素が乏しかった土方の舞台にピンク色と緑色の2つの色彩が導入された。本公演において中西が果たした役割は小さなものではなく、〈バラ色ダンス〉以後の土方の舞踏に欠くことが出来ない存在となったと言われている。

〈バラ色ダンス〉から3年後の1968年に発表された〈肉体の叛乱〉では、中西が手がけた舞台装置は、土方の独舞公演であった本公演において共演者に値する存在として扱われている。公演後、中西は〈肉体の叛乱〉の舞台美術に使用した6枚の真鍮板の佇まいを「絵画の様式」として検討することで、カンヴァスを天井から吊り下げた状態で制作する方法を編み出している。また、舞踏という外部の視座から絵画を眺めることで、舞踏における舞台(場)とダンサーの身体の関係性を、自身の制作におけるキャンバスと画家の身体と関連付けて考えるようになっていく。

〈肉体の叛乱〉翌年より中西は10点の油彩作品と3点の油彩エスキースからなる『山頂の石蹴り』の制作を開始する。『山頂の石蹴り』は絵画の制作から離れていた中西が絵画に復帰し、系統的に展開した最初の絵画群である。土方との協働を経て、舞踏を絵画の対抗軸として捉えるようになった中西は、舞踏との対比のなかで「最も素朴で最も知的な、絵」に正面から取り組んでいくことになる。

初期メディアアートにみる生命体表現の拡大についての考察

長谷川 紫穂(埼玉大学)

本発表では、1980年代後半以降ひとつのジャンルとして顕著に現われたメディアアート、なかでもその重要なトピックとして90年代に盛んに議論され作品がつくられた人工生命体への芸術的アプローチについて、生命や生体に関わる科学技術と芸術表現の関係の発展期として考察する。

生命体としての人間あるいは生命そのものを題材とすることは芸術の本質的問いのひとつであるともいえるが、科学技術あるいは科学的思想の導入により、特に視覚芸術においては既存生物の表象的模倣や空想動物の形態的想像に留まらず、動的時間を有した自律的存在つまり他者としての生命体表現が可能となった。情報科学、生物学、ロボット工学などの関連領域を統合する形でクリストファー・ラングトン(Christopher Langton, 1949-)によって「人工生命(Artificial Life)」理論が提唱されたのは1987年のことであったが、以降、哲学や社会学的知見を含んで発生、進化あるいは知能についての議論が活発になされた。芸術領域からの関心も強く90年代にはメディアアートの文脈において、Ars Electronica、SHIGGRAPH、Inter Communication Centerといった場を中心にA-Lifeを題材とした多くの作品が発表されたが、CGアニメーションやロボット、インタラクティブ・インスタレーションの形をとった当時の作品を分析していくと技術の発展に伴い、作家たちは独自のシステムを有した新たな生命体をつくることに成功し、またそれらの感覚器官、人工生命体の知覚をも拡大してきたといえ、さらにこうした作品は人間とは何たるかという命題を提起する存在として芸術的役割を果たしてきたと考えられる。

こうした90年代における人工生命や知能を表現媒体(メディア)あるいは主題としたアーティフィシャル・ライフアートやロボット・アートにみられる表現のあり方は、大別して「CGによる表現」(software)、「ロボティクスによる表現」(hardware)、「生命体自体を媒体とする表現」(wetware)の3つに分類されるが、作品にまつわる言説とその社会的背景から分析するとさらに「進化と自己増殖」、「人工生命体とのインタラクション」、「身体の拡張、情報化・データ化」、「表現媒体(メディア)としての生命」といったアプローチにより人工生命体、あるいは生命体としての人間自体を取りこんだ作品の展開を考察することが可能であり、造形思想と技術による新しい表現の関係性がみえてくる。

以上の観点により、本発表では技術の導入によって可能になった重要な表現の方法論として、物理的・時間的な動き、変容、自律性、フィードバックといった要素の総合体である他者=人工生命体としての作品について、その芸術的可能性を考察する。そしてそうした作品が自然生命体の形態的模倣に終らず、動的なシステムをもち自律的に展開していく新たな生命体を生みだし、さらに人間や他の生物との関わり方へと拡大する様相を、同時代的な新しい美学のあり方として分析することを試みる。

マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンス作品における「女性性」について――《Dragon Heads》を手がかりに

井阪 美里(京都市立芸術大学)

旧ユーゴスラヴィア出身のパフォーマンス・アーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチ(Marina Abramović, 1946-)は、そのキャリアの極めて早い時期から、自らの裸体を何らかの暴力性にさらした作品を発表してきた。彼女はときに性器を露出した、ショッキングなパフォーマンスも行う。そのためアブラモヴィッチのパフォーマンス作品は、ジェンダーの問題と密接に語られ、フェミニズム・アートであるか否かという、二元論の中での話題として度々取り上げられてきた。

しかしアブラモヴィッチ芸術における「女性性」については、具体的に検討されたことはほとんどなく、また十分であるとは言えない。このため、彼女をめぐる評価の再考を試みる必要があるように思われる。本論では、長時間に及ぶパフォーマンスにおける肉体の限界が、人間を動物化(理性の欠如)させ、逆説的に精神的な抵抗へ向かわせるという変容を指摘し、アブラモヴィッチ自身も否定しているように、作品にみられる「女性性」が必ずしもジェンダーに対する言及であるとは捉えず、広い意味における社会通念やステレオタイプに対する抵抗と考えたい。彼女の作品における「女性性」は、先述した過激なパフォーマンスだけではなく、「キッチン」や「売春婦」、「家」、「蛇」といった女性の象徴的なモチーフにも見出すことができる。本論では、それらの中でも、長期に渡って繰り返し作品に登場する「蛇」を軸に考察したい。

分析の対象として、アブラモヴィッチ特有の動物を用いた数あるパフォーマンス作品の中から、もっとも初期に制作され、いまなお参照可能な《Dragon Heads》を例として挙げたい。アブラモヴィッチ本人の身体に、数匹のニシキヘビを這わせながら、椅子に1時間以上も座り続けたというそれは、1990年から1994年のあいだ、ときにメデューサのごとく頭部に蛇をのせたり、一連のビデオ・インスタレーションにしたりすることで、形態や場所を変えつつ断続的に行われた。2000年代に入ってからもアブラモヴィッチの蛇に対する強い関心は、《The Biography Remix (Snakes)》において示されている。本論では、まず動物を用いるときに生じる予測不可能性、偶然性に留意しながら、《Dragon Heads》の図像学的解釈を述べたあと、アブラモヴィッチ自身のジェンダーに対する問題意識を確認し、多くのパフォーマンスにみられる「女性性」についてその全体像を捉えたい。

マリーナ・アブラモヴィッチ研究――アブラモヴィッチの立体作品制作、《Transitory Objects》シリーズに関しての考察

髙井 彩(京都市立芸術大学)

本研究はユーゴスラビア出身のパフォーマンス・アーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチ(Marina Abramović, 1946-)に関する研究の一環として、1989-2000年頃を中心に行なわれた、彼女の立体作品制作について言及したものである。

作家としてのキャリアを、1970年代初頭にスタートさせたアブラモヴィッチは、現在美術界において、最も支持を獲得しているパフォーマンス・アーティストのうちの一人としてその存在が知られている。

特に1997年のヴェネツィア・ビエンナーレにおける金獅子賞の受賞や、2010年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された、パフォーマンス・アーティストとしての彼女を回顧した展覧会、「The Artist Is Present」展は、「パフォーマンス・アーティストのマリーナ・アブラモヴィッチ」を人々に強く印象付けることとなった。

彼女の制作活動は大きく3つの時期に分けることができる。まず1970年代初頭から1975年頃まで、故郷ユーゴスラビアにおいて、時に出血や観客の手によるパフォーマンスの中止を伴う過激な身体行為を行なった時期。次に1976年頃からのドイツの写真家ウーヴェ・ライジーペン(Uwe Laysiepen, 1943-)との約13年間に渡る、パフォーマンス作品の共同制作を行った時期。そして彼とのコンビを解消した1989年以降から現在にかけてのソロ活動時期である。

1989年以降の制作の初期において、彼女がパフォーマンス作品やパフォーマンス・ビデオ作品の発表と平行して行なったのが、今回テーマとする立体作品制作である。その制作は2000年頃までの約10年間に集中し、総作品タイトル数は30を超える。

アブラモヴィッチの立体作品はいくつかの傾向に分類することが出来るが、本発表ではこれらのうち、1989年から発表をスタートした《Transitory Objects》シリーズについて扱う。鉱物を素材の中心とした本シリーズは、1989年当初、椅子や寝台、靴の形態を取り入れて、観客が展示会場にて作品を使用することを前提とした制作が行なわれており、観客達はアブラモヴィッチが提示した方法に従って、作品を装置のように使用するという仕組みを持っていた。1991年になるとその造形的特徴を引き継いだまま、今度は観客の使用を必要としない作品が平行して作られるようになる。2000年には立体作品を集めたインスタレーションの発表、制作が一段落した後、2002年にはパフォーマンス作品《The House with Ocean View》に《Transitory Objects》が舞台装置の一部として取り入れられる。

アブラモヴィッチはパフォーマンスをその制作の中心としているが、今回は立体作品に注目する。発表ではタイトルに含まれる「Transitory」の語の解釈を手がかりに、パフォーマンス・アーティストである彼女が立体作品制作にこめた意図ついて言及すること。彼女の立体作品とパフォーマンス作品に見られる、互いへの要素の引用について述べること。そして、アブラモヴィッチが作品に使用する素材を選択する際の傾向から、「引用の作家」としての彼女の作家像について提言を行なう。

ルイス・キャロルの『アリス』作品における価値としてのパラドクス――帽子屋と三月ウサギを例として

角田 あさな(立命館大学)

ルイス・キャロルの2つの『アリス』作品(『不思議の国のアリス』= Alice's Adventures in Wonderland, 1865と『鏡の国のアリス』= Through the Looking-Glass and What Alice Found There, 1871)は、多種多様な解釈の可能な作品である。そのストーリーも、アリスが文字通り不思議な世界に迷い込み、様々なキャラクターと出会うといった以上の物語と呼べる物語のないものである。しかしながら、1865年の出版以来ずっと、多くの人びとに親しまれてきた。またその読者層も、子どもからおとなまで、文学者から数学者まで、多岐に渡っている。こうした多くの人びとを魅了する『アリス』作品の魅力は、多種多様な解釈が可能であるという曖昧性にある。その曖昧性は、『アリス』の中に数多く散りばめられたノンセンス、その中でも物語に内在するパラドクスに由来すると考えられる。『アリス』はノンセンス文学の筆頭として挙げられ、先行研究においても『アリス』の作品性はノンセンスにおいて見出されてきた。ノンセンスは単なる言葉遊び、無‐意味な言葉遊びをも含みうるが、ノンセンスに含まれるパラドクスは決して無‐意味ではない。これまでノンセンスとして『アリス』の中で一括りにされてきたパラドクスは、ドゥルーズによって、「純粋生成のパラドックス」という仕方で掬い出され、『アリス』読解のための重要な概念として表出された。本稿では、『アリス』におけるパラドクスを『アリス』の芸術的価値、すなわち、作品としての価値として提示することを試みたい。

『アリス』は作品のうちにパラドクスを内在することで、思考の中で絶対的なルールとして位置を占めている論理の不完全さや、常識の不条理さを暴きだし、われわれが立っている足元の基盤を突き崩されるかのような不安感を生み出している。ドゥルーズにおいて、パラドクスとは「1回で2方向を肯定すること」と定義されている。そうしたパラドクスの、異なる2方向で揺らぐ常ならぬ感覚としての不安こそが、『アリス』作品の面白さとなっているのだと考えられる。それゆえ本稿では、『アリス』がパラドクスを描きながら、自らをパラドクスとして表現させている作品であり、まさにパラドクスを作品化した作品である、ということを明らかにしようと試みる。

本稿では帽子屋と三月ウサギのパラドクスを対象として取りあげ、その構造を考察する。帽子屋と三月ウサギは、主人公のアリスを除いて唯一、『不思議の国』と『鏡の国』の両作品に登場するキャラクターであり、作中においても「狂気(mad)」と称される特異な存在である。この2者のパラドクスを考察することによって、パラドクスとそれを内在する『アリス』作品のパラドキシカルな構造がその作品性を成り立たせていることを示す。

寺山修司の演劇における虚実の不分離――シェクナーのパフォーマンスとの比較を通じて

西尾 茉以世(慶應義塾大学)

1960年代から70年代にかけて、観客参加型、あるいは劇場以外の場所で行われる演劇など、従来の演劇世界と日常世界との境界を曖昧にする作品が多く作られた。寺山修司もその流れを受けて、虚構された演劇世界とありふれた日常世界とが混在する作品を作ったが、その作劇態度は他の演劇人から一線を画する独自のものであった。彼の創作について、国外の同時代の演劇作品と比較した研究は未だ十分でなく、国際的な影響関係を含めた寺山の作品の見直しが課題とされている。本発表では、当時実際に寺山と交流のあったリチャード・シェクナーのパフォーマンス概念を比較の対象とすることで、寺山の演劇における虚構と現実との独特な関係を明らかにする。

寺山とシェクナーに共通して見られるのは呪術的な儀礼への関心である。シェクナーは、演劇からスポーツまでを含む「パフォーマンス」という語を用いて自らの活動を表現し、その起源は「儀礼」にあると考えていた。シェクナーのパフォーマンス研究は儀礼研究を取り込む中で文化人類学へと接近していった。彼は、アルノルト・ファン・ヘネップの図式に基づいて、パフォーマンスを「境界前(preliminal)・分離」「境界上(liminal)・過渡」「境界後(postliminal)・統合」の三段階に分けて分析した。演劇の上演は過渡にあたる「境界領域」の経験として説明され、そこを通過するものはパフォーマーだけでなく、それに立ち会う観客も一時的または永続的に「変容」させられる。このような儀礼の通過的なプロセスによって、シェクナーは、儀礼を日常生活から切り離された「第二の[二度目の]現実(second reality)」としてとらえていた。

これに対して、日常から切り離された演劇・虚構世界は単なる「社会の補完物」にすぎないと考える寺山は、シェクナーが行った俳優のワークショップを見て「ペストの菌を持ったねずみを外からもちこむことがドラマツルギーであるという認識が欠けている」とのコメントを残している。寺山にとって俳優は、フレーザーの呪術論の影響のもとにアルトーが虚構世界の比喩として語った「ペスト」を観客に感染させる「呪術師」である。寺山は日常世界と虚構世界とは分離不可能であるとし、「市街劇」をはじめとする観客に知られないように両者を意識的に混在させる演劇を試みた。つまり、われわれが日常において虚構世界を必要とし、それを作者と俳優が補完的に作り出すという従来の作劇法ではなく、幻想小説などに見られるような、虚構世界が日常世界を裂いて現れてくる状況を作り出すべきだとする。彼は、虚構と現実との境界を通過させるのではなく、虚実が分離不可能な上演に立ち会わせることによって観客を変容させようとする。これが、寺山があくまで「演劇」にこだわり、「パフォーマンス」という儀礼と演劇をつなぐ概念を用いなかったことの意味である。

東宝におけるアニメーション、特殊撮影、美術の人的・技術的結合について――“造型技術映画”『ムクの木の話』を例に

木村 智哉(日本学術振興会)

本発表では短編映画『ムクの木の話』の分析を通し、本作を存立せしめた東宝教育映画部の人的・技術的な基盤の存立を、東宝のスタジオ史上に位置づけて論ずる。本作については言及自体が少なく、これを映画史上に位置づける試みは、本研究が最初のものとなる。

『ムクの木の話』は1947年に公開された20分の作品である。本作は公開当時、「造型(ママ)技術映画」とも称され、セル・アニメーションと立体造形物の撮影とを一部組み合わせて制作されている。

本作の粗筋は、ムクの老木が立つ野原を「氷魔」という怪物が凍りつかせるが、太陽の光を放つ女神によって平和な春がもたらされる、というものである。劇中、氷魔によって凍らせられた木々が、雪中行軍する兵士の姿や、ナチスの鍵十字の形をとることから、軍国主義やファシズムの時代と、敗戦による解放というテーマを描いたものと思われる。

本作には、海外の様々なアニメーションからの引用を見出せる。導入と最後のカットは、ウォルト・ディズニーの『風車小屋のシンフォニー』を、氷魔が冷たい息を吐く動作は『三匹の子ぶた』の狼を想起させる。劇伴も、ムソルグスキーの「禿山の一夜」に類似した部分がある。これはアレクサンドル・アレクセイエフによるピン・スクリーン・アニメーションや、当時、正式な劇場公開はされていないものの、ディズニーの『ファンタジア』などの影響が考えられる。

また本作には、高山良策や山本常一によるミニチュアの造形物、鷺巣富雄(うしおそうじ)による特殊撮影の技術も用いられた。

このように様々なアイディアと技法により構成された本作の背景には、東宝の前身たるPCLやJOの時代から技術開発を行い、戦時期にも「航空教育資料製作所」にて軍需用の解説映画を動画や特殊撮影によって製作していた、東宝の史的背景が指摘できる。

アニメーターでは、大石郁雄や市野正二などがPCL期から所属している。本作の動画を担当した若林敏郎は大石の弟子筋にあたる。また円谷英二もJO期より各種の技術蓄積と運用を行っていた。本作で特殊撮影を担当した鷺巣は、戦時期に大石らのもとで線画を学ぶとともに、円谷のアシスタントも務めている。

さらに戦中・戦後を問わず、徴兵逃れや生計のため、幾人かの造形美術家の所属が見られる。また、本作の演出をつとめた丸山章治は、弁士からナレーターを経て演出家に転身した経歴を持ち、戦後、日本記録映画作家協会内の論争で松本俊夫の批判を受けた論者の一人でもある。

『ムクの木の話』は、こうした諸分野の表現者・技術者たちの、東宝における戦中・戦後を通じた人的・技術的蓄積の上に成立した作品と考えられる。

本作の関係者のみならず、東宝独自のネットワークと影響関係や、諸分野の結合とその背景について、アニメーションや特撮といった周縁的ジャンル研究、あるいは映画史研究の枠組みからだけでなく、美術分野にも目を配った、更なる調査と分析が求められる。

昭和天皇の「テーブル」の「味わい」――映画『太陽』の社会美学的考察

藤阪 新吾(京都学園大学)

第二次世界大戦降伏前後の昭和天皇ヒロヒトを描いたアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』は2006年に日本で公開された。ヒロヒトの孤独と苦悩、屈辱や決意、愛情をとおしてわたしたちは、『太陽』から「ひとりの人間としての天皇」という主題を読みとることができる。また、歴史のうねりに大きな影響を及ぼした実在の昭和天皇が主人公の映画であることから史実との整合性をめぐる議論もなされている。しかし観念的な解読や検証にくわえて「味わう」ということも大切ではないだろうか。

映画を芸術作品として味わうことはなにも不思議なことではない。それでも社会美学的に「味わう」とき、映画のなかとはいえ人びとの交わりとしての社会に「味わい」をおぼえるとともに、感性的に認識される「社会」の存在にあらためて気づかされる。感性的認識の対象を社会に拡張すると同時に社会認識に感性を導入するのである。

本発表は、映画のなかの「社会を味わう」ことをつうじて『太陽』を社会美学的に考察する。天皇ヒロヒトをとりまく相互行為状況の感性的質、すなわち人びとの交わりの「味わい」がいかなるものかを「テーブル」という観点から分析し、感性的認識によって社会を知ることについて探究する。

「社会を味わう」場合、観念や感情を一旦脇に置いてヒロヒトがいる場そのものとしての「テーブル」の肌ざわりに焦点をあてることが重要である。交わりの場である「テーブル」は、人びとによって織りなされる生まれたての「社会」である。

ゆるやかにすすんでいく『太陽』にはさまざまな「テーブル」が現われる。映画は待避壕の一部屋でヒロヒトが「朝食をとる小さなテーブル」ではじまる。「御前会議のテーブル」、標本のヘイケガニに見入る「研究室のテーブル」、侍従たちとの「チョコレートをめぐるテーブル」や自然科学者との「問答のテーブル」、マッカーサーとの「会見のテーブル」。そして皇后との「再会のテーブル」を最後に幕を閉じる。

ヒロヒトの「テーブル」にはどこか「無邪気な」「滑稽な」「奇妙な」「不思議な」静けさがゆらめいている。これら「テーブル」をおおうように通底するのはかすみのようにただよう「しとやかな味わい」である。

制度的な存在の象徴である天皇は観念的な存在そのものともいいうる。それゆえヒロヒトにたいする観念的な認識は自然なように思える。ところがヒロヒト個人への注目がゆるまり、解読が保留となって強固な既成観念が後退すると反動的に「テーブル」としての「社会」の「味わい」がまざまざと全面化する。そこに直感されるのは客観的な言葉ではいいつくしえない「社会」の存在である。とはいえ「味わい」は名をもつことから客観的ではなくとも一定の普遍性があり、他者と共有しうることにおいても社会的である。ヒロヒトの「テーブル」の「味わい」は、感性的に認識される「社会」のありさまを開示している。

ルカ・シニョレッリ作《フィリッピーニ祭壇画》に関する一解釈――衣服に描かれた文様を手掛りに

森 結(沖縄県立芸術大学)

本発表で取り上げるルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli c.1450-1523)による《フィリッピーニ祭壇画》(1508)とは、マルケ州アルチェヴィアにあるサン・フランチェスコ教会のフィリッピーニ家の礼拝堂に設置されていた祭壇画である。ところが、かつて祭壇画を構成していた板絵は、教会の改装や、ナポレオンによる美術品の接収、フィリッピーニ家の子孫による売却などの結果、散逸してしまい、そのオリジナルの構成は確定しがたい。しかし頭頂(ルネッタ)に《聖母の戴冠と父なる神と二人の奏楽の天使》(サン・ディエゴ美術館)、主祭壇画に《玉座の聖母子と聖ヤコブとシモン、フランチェスコとボナヴェントゥーラ》(ミラノ、ブレラ美術館)が設置されていたことは、研究者の間で意見が一致している。その他の部分に関しては、マリオ・サルミやローレンス・カンターが裾絵(プレデッラ)として「キリストの受難」を描いた5つの板絵(アルテンブルグ、リンデナウ美術館)を推定し、また、カンターが付柱(ピラスター)の候補としてフランチェスコ会の聖人を描いた4つの板絵(リンデナウ美術館)を挙げている他、最近ではデヴィッド・エクサージャンが台座(ゾッコロ)として《聖ヤコブとロタリンギアの二人の巡礼者》(ブダペスト国立西洋美術館)を挙げているが、いずれも推測の域を出ていない。

ところでこの絵に関して特筆すべきこととして、頭頂(ルネッタ)に描かれた父なる神と主祭壇画の聖母の衣服に施された、入念な金の装飾が挙げられる。このような装飾は、16世紀のシニョレッリ作品の特徴の一つではあるが、絵画に金を用いることが最早主流でなくなりつつあった16世紀にあって、単なる職人芸の一環として説明される傾向が強く、現在まであまり積極的な評価は与えられてこなかった。

本発表はとりわけ上述の金による文様について、図像学的解釈を試みる。そしてさらにそれを糸口として、現在まで十分な考察がなされてこなかった《フィリッピーニ祭壇画》の主題にまで踏み込んで考察し、その図像プログラムを解明しようと努めるものである。

この祭壇画の神と聖母の衣服に描かれた、金地のプットーの文様は単なる技術の誇示ではなく、「聖霊」という意味を担っている可能性がある。そのように解した場合、神の衣服に描かれたプットーの文様が聖母の衣服にも描かれることで、聖なる器としての聖母の性格が示されていると考えられる。ところで、主祭壇画の聖人たちが皆書物を手にしているのは、聖母が抱くキリストを「知恵」と解する見方を強調しているように見える。故に、この祭壇画の玉座の聖母は、知恵にして御言葉であるキリストを抱く「知恵の座」として描かれていると見なされよう。そうであれば、先に「聖霊」と解したプットー文様は、霊的な性質の中でも特に「知恵」としての側面を表していると思われ、父なる神と聖母、キリストの三者を繋ぐものとして描かれていると理解されるのである。

ベラスケス作《ラス・イランデーラス(糸を紡ぐ女たち)》に関する一考察

山田 のぞみ(北海道大学)

17世紀スペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケスの晩年の大作、《ラス・イランデーラス(糸を紡ぐ女たち)》は、未だその主題解釈について議論の尽きない作品である。多くの研究者は、本作品の主題をオウィディウスの『変身物語』に記された「アラクネの寓話」と考える点において、一応の意見の一致をみるものの、その作品のもつ寓意的意味については、解釈がわかれている。「アラクネの寓話」は、優れた機織りの技芸を誇る人間の娘アラクネと、その技芸を司る女神ミネルウァとが競作をし、ついには神へ傲慢な態度をとった罰として、女神がアラクネを蜘蛛に変身させてしまうという筋立てである。

この寓話をとりあげたベラスケス以前の画家は、こうした物語の内容に忠実に、アラクネが懲罰を受ける場面や、二人が織物を競ってつくる場面を機織り機とともに描いてきた。ところが《ラス・イランデーラス》には機織り機は描かれず、かわりに糸紡ぎに勤しむ女性たちの姿が、作品の中心的な位置を占めている。先行研究は、個々のモティーフがあらわす意味を16、17世紀のエンブレム集をもとに読み解いたり、さまざまな図像源泉を指摘したりと成果を上げてきたが、作品全体を統べる一貫した寓意的な意味を提示するには至っていない。近年ハビエル・ポルトゥースが、《ラス・イランデーラス》と『変身物語』の注釈書であるペレス・デ・モヤ著『秘密の哲学(Filosofia Secreta)』(Madrid, 1585)との関連性を指摘し、作品の寓意的意味は「時間によって技芸がつけ加えられ発展していく」というものであると結論づけた。この説は、現在もっとも妥当性のある解釈だと思われるが、《ラス・イランデーラス》の最大の特異性である糸を紡ぐ女性たちの図像源泉については、さらなる考察の余地が残されている。

本発表では、この特殊なモティーフの着想源として、以下の2点を指摘する。第一に、ネルウァの公共広場の大理石浮彫(92-97年、ローマ)である。この彫刻では、ベラスケスの作品と同様にアラクネが懲罰を受ける場面と、糸紡ぎをする女性たちが登場し、ベラスケスがローマを訪れた17世紀当時も、この広場の神殿がミネルウァに捧げられたものであることが知られていた。第二に、ペドロ・サンチェス・デ・ビアナ著『オウィディウスの変身物語の15の巻に関する注釈(Anotaciones sobre los quinze libros de las Trasformaciones de Ouidio)』(Valladolid, 1589)に、アラクネが秀でていた技術の一つとして「糸紡ぎ」があげられている点である。

また、ポルトゥースが指摘した『秘密の哲学』との関連性を踏まえて、前景で糸紡ぎに従事している老婆と若い娘の対比もまた、『秘密の哲学』に依拠した表現であることを示す。

以上のことから、《ラス・イランデーラス》にみられる『変身物語』から逸脱した糸紡ぎの表現は、上記二冊の注釈書の記述にもとを辿ることができ、本作品は、教養人としての画家像にふさわしく、数種の書物を独自に組み合わせて構成された絵画として位置づけられる。

レンブラント《ホメロスの胸像に手を置くアリストテレス》における主題の分析――触覚に対する画家の関心

国清 景子(関西学院大学)

《ホメロスの胸像に手を置くアリストテレス》は、レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)が1653年に制作した。この絵はイタリア、メッシーナの貴族であるアントニオ・ルッフォの委託で描かれたものである。当時の記録によると、ルッフォはその際、哲学者の肖像画の制作を指示し、レンブラント自身が、アリストテレスをその肖像画の対象に選び、ホメロスの胸像に手を置く姿として描写した。

画中ではアリストテレスがホメロスの胸像の頭部に右手を置き、左手でアレクサンドロス大王の横顔の彫られたメダルのついた金の鎖に触れている。画面左奥には書物が積み上げられている。胸像と書物のある肖像画は17世紀のフランドルに始まるが、レンブラントの《アリストテレス》は、モチーフや人物のポーズが類似しているにもかかわらず、同時代の胸像のある肖像画とは想定される意味が異なる。従来の肖像画では彫像に触るという行為が肖像画の人物を際立たせることを目的としているのに対し、レンブラント作品では、「胸像を触る」というアリストテレスの行為自体が作品の中心となっている。

レンブラントの《アリストテレス》が、人物と胸像を組み合わせた肖像画や画中の人物に胸像を触らせる肖像画といった、当時の絵画伝統の文脈からは説明しきれないことはすでに指摘されている。ヘルトは1969年に、アリストテレス、ホメロス、アレクサンドロス大王の三者の関係の観点から、主題は内省と世俗の間で葛藤する人物であるとした。またキャロルは1984年に、ホメロスが盲目であることから、目の見える哲学者と盲目の詩人の対峙を描いているという見解を示した。このように、主題分析の試みは三者の関係、ホメロスの盲目性といった様々な視点から行われてきた。そして、アルパースは1988年に、モチーフの視点からではなく主題に注目することから制作時のレンブラントの触覚への関心を指摘し、レンブラントは「画中のアリストテレスとホメロスの関係を触覚の問題に見せている」としている。アルパースの主張を受けて発表者は、アリストテレスの「胸像を触る」行為、ならびに視線を宙に漂わせながら胸像を触る描写に注目し、そこからの主題分析を試みる。レンブラントがアリストテレスを肖像画の対象として選択したことと、このような行為の描写にはどのような関連があるのだろうか。

本作品の制作背景を探るその糸口として、レンブラントと同時代にイタリアで活躍し、ルッフォのパトロネージを受けていたスペイン人画家、ジュゼッペ・デ・リベーラ(1591-1652)の画中の人物が胸像に触れている作品、具体的には「五感の寓意」連作の中のひとつである《触覚》ならびに「哲学者の肖像」連作の中の《カルネアデス》をレンブラントの《アリストテレス》と比較する。画中でアリストレスが胸像に触っている背景ならびに画家の制作動機について、一定の見解を提示したい。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《帽子のあるヴィエル弾き》に関する一考察

谷口 依子(女子美術大学美術館)

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)により制作された《帽子のあるヴィエル弾き》は、当時社会的地位が低かったヴィエル弾きが一人で楽器を演奏している姿が描かれている。画家は単身のヴィエル弾きをモチーフにした作品を4点制作しているが、初期の作品が立像で色調が重く描かれるのに対し、中期以降に制作された作品は座像で色調が軽やかに描かれ、さらに前景に静物画的モチーフが付け加えられるなど、制作時期によって表現方法に大きな違いが見られる。本発表では、フィリップ・コニスビーに代表されるような既存の研究では深く議論されていないこれらの変化に関して、本作を基にその理由を明らかにしたい。

色調やモチーフの変化に関しては、1620年代後半に画家が郷土の文献資料から姿を消す点に着目したい。この時期は初期のパトロンである公爵アンリ2世が世を去り、絵画趣味の異なるシャルル4世が即位したこともあり、画業が暗礁に乗り上げた時期であった。この期間に画家が芸術の新たな源泉を求めて、パリに旅行した可能性は高い。セバスチャン・ストスコップフなどの静物画家が活躍し、イタリアからシモン・ヴィーエが帰国するなど、この時期のパリは活気に満ちており、様々な人物から影響を受ける機会があった。画家の作品は1630年代以降になると色調が明るく、巧みな静物画が描かれ、幅広い購入者層を獲得することに繋がるが、それはこの時期のパリ旅行がもたらした変化と考えられる。

一方、図像の変化に関しては、画家が描いた幾つかの聖ヒエロニムス関連作品、及びピエール・フーリエ司祭の存在に注目したい。本作のヴィエル弾きは、風貌や前景の静物画モチーフの配置から《悔悛する聖ヒエロニムス》としばしば比較され、さらに前景に赤い帽子があることから同聖人との図像的関連性が述べられてきた。画業の中期以降、画家は他にも同聖人の扮装肖像画を幾つか制作したが、それらの中にフーリエ司祭の肖像画が含まれている点は大変興味深い。なぜなら当時流布していた版画に、本作のヴィエル弾きに酷似する司祭の姿を描いた作品が存在するからである。

対宗教改革では清貧な姿をした聖人がキリスト教徒の理想的な姿として数多く絵画化された。こうした時代背景から、貧民を神聖視していた司祭がヴィエル弾きに対して肯定的な思想を持っていた可能性は高い。この点を先に触れた作品の図像的特徴と併せて考えると、本作は司祭が自身のイメージを聖人と盲目のヴィエル弾きに重ね合わせた結果、座像形式になったとものと考えられる。

以上、本発表によって、画業の中で注文主の意向に応え、積極的に自ら図像や様式を変化させていったラ・トゥールの姿が確認できるだろう。本作は、顧客を獲得すべく絵画表現を巧みに変化させた画家の、転換期を象徴する作品と言える。

台湾美術展覧会をめぐるローカル・カラー

外山 悠(同志社大学)

台湾美術展覧会(台展)は、日本統治時代の台湾において開催されていた美術展覧会である。台湾総督府によって創設され、第1回台展は1927年に開催された。その審査の際に最も重要視されていたことは、日本での帝展(中央)に対して、ローカル・カラー(地方色)が感じられることであった。台湾に渡った日本人画家たちは、台湾の自然風景や原住民の様子から受けるオリエンタルな印象を台湾のローカル・カラーとした。それらの表象は素朴で後進的な印象をも与え、そのようなものを描いた作品を評価することで台展は植民地政策の一翼を担っていたと考えられている。陳進は日本画の技法で詳細に台湾の風俗を表現したことで知られている。装飾品を多く身につけた原住民の女性たちを描いた《サンティモン社の女》は、第1回新文展に入選した。それは実際の原住民の姿を理想化したものでもあった。台湾のローカル・カラーが、誇張された形をもって日本画壇に紹介されたのである。またこの作品は日本統治の成果を描いているとも考えられてきた。一方で、第8回台展開催後に台湾人画家たちは「台展で表されている以上のもの」を目標として台陽美術協会を創設した。その中心的人物であった洋画家の陳澄波は、より身近な町並を描くことで、台展で求められていたローカル・カラーとは異なる台湾像を表すことを試みた。《西湖春色》には、町に近い湖の様子がボートに乗る人々や民家と共に描かれている。しかしこの作品も結局は日本による開発の成果を表しているとする見方もある。植民地政策の一環である台展をめぐる作品は、このようにポストコロニアル的な立場から論じられることが多い。本発表では、台展によって生まれた陳進と陳澄波の作品を、その文化表象に着目し別の立場から論じることを試みたい。表象とは、他の様々な事象との関係性をもってある空間において存在するものであり、またそれは事物をイメージ化したものである。イメージに関して、大森荘蔵は、それは過去の事物が想起的に立ち現われたものであるとしている。さらに、松浦寿輝は、マレーによる飛翔する鳥のクロノフォトグラフィを例に挙げ、本来運動しているものが、写真という静止した画像となることで事物とは大きく異なるものになっているという点に着目している。そのときわれわれは不可能なものを見ているのであり、それはその異様な動かなさによって単なる本物の写しを超えたものとなる。松浦はそのようなものをイメージと呼ぶことを提案している。すなわちイメージとは何ものかとの相似によって成立し、相似の強度によって本物を超えてしまった写しのことである。このようにしてクロノグラフィはイメージを持った表象となったのである。そのようなイメージの概念をもって陳進と陳澄波の作品を見るとき、それらは単に植民地支配の成果を称揚するものではなく、異なった文脈におかれるのである。

戦後日本における抽象彫刻の形成――1954年の鉄彫刻の登場から

菊川 亜騎(京都市立芸術大学)

日本において抽象彫刻が確立されるのは、第二次世界大戦後のことである。海外作品の紹介展が増え西洋の影響を受けながら、抽象形態が急速に制作され始めるのは1950年以降を待たなければならない。この時期を担った、戦前から戦後にかけて活躍した彫刻家について、作家個別の先行研究は存在している。しかし敗戦という現実と民主化が謳われる美術界のなか、作家や批評家、美術館の展覧会においてどのような作品像が希求されたのか、横断的な研究は未だ少ない。近年、国内外で進む日本の戦後美術の見直しにともない、今後検証されていくべき課題であると思われる。

戦後、世界大戦に対する反動を背景に、生命的・人間的な有機的抽象形態の探求が目指されるなか、多くの彫刻家によって次なる時代を投影できる素材が模索される。

本発表では1954年に、いち早く新たな彫刻素材として「鉄」が登場する舞台となった第39回二科展をとりあげ、その作者である村岡三郎(1928-2013)と堀内正和(1911-2001)の出品作品に注目する。二科会は当時最大の団体展であったが、村岡三郎の作品《1954年7月》は新人ながら特待を受賞、翌年の第6回秀作美術展にも選ばれるという高い評価を受けた。一方、すでに会員作家である堀内正和の作品《作品E》は、時代を逆行するかのような「冷たい抽象」を思わせる作風と捉えられ、観客を困惑させる。作品への対照的な評価の言説を比較することで、次なる彫刻への問題意識を確認する。新たな素材の導入を一端とし、日本において抽象彫刻にどのような意味を託され確立されていったか、考察を加えることが発表の目的である。

1960年以降、堀内はパブリックアートの普及においても大きな役割を担う。これまでの先行研究では、作品の技術的な完成度の追求を主な理由として、堀内は発注制作を行ったと言われてきた。しかし、前年の第3回野外創作彫刻会に出品したセメント作品との比較により、屋外を想定した上での鉄素材への置き換えを読み取ることができる。したがって、従来の想定よりも早い時期から、野外彫刻へのまなざしが向けられていたと考えられる。

当時の日本では、野外作品の明確な概念さえ確立していなかったが、鉄という素材との出会いによって堀内はその可能性を確信に変えたと思われる。同時に、彼の発注制作に対する困惑と非難は、美術作品が今後どのように実社会と接点を持ち得るか、多くの人々はいまだ具体的に想像できる段階ではなかった、という当時の日本の状況を示すひとつの実例である。

日本において抽象彫刻は1950年から1960年のあいだにかけて最も活発な展開を見せた。偶然同じ場で発表された二つの作品に託された、戦後の新しい作品像を照らし合わせることで、抽象彫刻の形成期における新たな視座を提示したい。

フルクサスにおける生活の中での芸術実践――塩見允枝子の『スペイシャル・ポエム』(1965-1975)を中心に

小野寺 奈津

ジョージ・マチューナス(1931-1978)によって1962年に創始されたフルクサスは、反芸術を志すために生活と芸術の境界を取り払うことを標榜した芸術動向である。しかし、その足跡を概観してみれば、マチューナス自身が掲げた理念と実践活動の間には矛盾が生じていたと考えられる。本発表では、フルクサスの活動の中心に位置付けられ、重要視されてきたパフォーマンスコンサートという形式の問題点を抽出し、これまで注目されてこなかった鑑賞体験に焦点を当てることで、「生活と芸術の境界を取り払う」という意味を捉え直すことを目的とする。

まず、マチューナスはフルクサスの理念を「芸術家は全てが芸術になり、誰でもが実践できるものであることを証明しなければならない」と提起し、芸術の価値変動を試みたことについて確認する。その実現のため、もっとも反芸術的な状況を生活と想定し、鑑賞者は日常行為を簡潔に指示した「スコア」という形式を用いて、生活において作品を実践することが求められていたことについて述べる。これに対し、フルクサスが活動の主力としたパフォーマンスコンサートが孕んでいた問題点について指摘する。それは1)コンサートが既存の芸術鑑賞形式である劇場やギャラリーで行われていた、2)作品は鑑賞者ではなくフルクサスの作家たちによって終始上演されていた、という点である。このような状況でパフォーマンスが行われることは、かえって単にそれが「生活」を主題とした作品に収まってしまっていることを強調していたともいえる。フルクサスは上記の活動を通して、マチューナスが掲げた理念とは異なり、受動的に作品を鑑賞するという印象を観客に与える結果となった。

本発表ではこのコンサート形式に代わって、これまで看過されがちであったフルクサスの作家たちによって制作された既存の芸術という制度から逸脱した作品を、フルクサスの理念を実現していた形式として提示したい。その一例が、塩見允枝子による『スペイシャル・ポエム』(1965-1975)である。塩見は全9回に渡って実施されたこの作品において「何かを意図的に落下させて下さい」といった「インストラクション」を知人に郵送した。受け手は実践の記録を返信することが意図されており、塩見のもとにはそれぞれの観点から日常生活を切り取ったテキストが送り返された。したがって、日常のなかでこの作品の送り手=制作者ともなる鑑賞者は、能動的に参与することで芸術家を鑑賞者へと転化させていたといえる。フルクサスはこのように生活と芸術、しいては鑑賞者と芸術家という既存の二項対立を流動化させることで、最終的に鑑賞者の実生活にまで変化を生じさせることを目的としていたのではないか。

以上の分析から、本発表では鑑賞体験において新たな活路を見いだした作品を取り上げることで、フルクサスが意図した生活と芸術の本来の意味を浮き彫りにすることを目指す。

栗憲庭の「ポスト89」論の恣意性と、その背景としての90年代前半における中国現代美術の市場化・国際化

佐々木 玄太郎(京都大学)

中国の現代美術史は1979年に国内最初の前衛美術グループ「星星画会」の登場によって始まった。現在ではその30年余りの歴史を整理する作業が進められているが、その語りは基本的に高名※〔さんずいに路〕や栗憲庭といった有力な研究者・批評家が80-90年代当時に提示した図式を元に行われているというのが現状である。例えば、高が「‘85美術運動」(1986)で提唱した「‘85美術運動」や、栗が「「後89」芸術中的無聊感和解構意識」(1991)等において「ポスト89」の潮流として提唱した「ポリティカル・ポップ(政治波普)」、「シニカル・リアリズム(玩世写実主義)」など、彼らが時代の潮流として当時提示した言説はいまだに大きな影響力を持ち、これらの論によって彼らが示した見取り図をもとに現在でも中国現代美術史はとらえられているといってよい。しかし、これらの言説ははたして本当に歴史記述に用いられるほど信用に足るものなのだろうか? これらが発表された当時の状況を鑑みれば、その中立性は疑われるべきであるように思われる。

よって発表者はこれらの批評家の言説を批判的な立場から検証することを試みる。本発表では、栗の「ポスト89」論、その中でも特に「ポリティカル・ポップ」論に焦点をあてる。まず栗の論文の読解を通してその言説の分析を行い、そこで例として挙げられている作家を中心に、その制作の実態と栗の論との照合を行う。この検証を通じて、異なる制作背景や意図をもった作家の作品を一元的にとらえる栗の論の問題点が明らかになる。この他、実際には89年以前にも「ポリティカル・ポップ」的な作品は確認できるにも関わらず89年という年を強調しているという点からも栗の論の恣意性を指摘することができる。

ここからさらに、「ポスト89」論をそれが発表された1990年代の中国現代美術の市場化・国際化の流れと関連づけることによって、その言説が当時必要とされた背景、それが当時において果たした役割をそれぞれ説明することを試みる。90年代前半、栗を始めとする中国の批評家たちは中国現代美術の市場化・国際化という目的を果たすため、「後89 中国新芸術」展(1993,香港他)や“Mao Goes Pop: China Post-89”(1993, Sydney)といった海外に対して中国現代美術をアピールする展覧会を仕掛けていった。そしてそのような展覧会で中国現代美術を海外に説明する際に、「ポスト89」論はその理論的支柱として度々参照されている。またこれらの展覧会においては(おそらくは欧米の美術界の関心の方向性を意識して)ポリティカル・ポップやシニカル・リアリズムの政治性が強調してプレゼンテーションされている。このような状況を考慮すれば、「ポスト89」論は、中国現代美術が海外に進出していくにあたりそれをプレゼンテーションするために批評家が強引に図式化を進め半ば恣意的に作り出した「トレードマーク」のようなものであったと位置づけられるのである。

コロー《ナルニの眺め》再考――風景画史上の位置づけをめぐって

鈴木 一生(成城大学)

《ナルニの眺め》(1827年)は、フランス19世紀を代表する風景画家カミーユ・コローが初めてサロンに出品した作品である。にもかかわらず、美術史家たちはむしろその習作である《ナルニの橋》(1826年)に印象派を先どる近代性を見出し、この完成品を「アカデミーの規範に従ったつまらない作品」として、長らく議論の対象にしてこなかった。しかし《ナルニの眺め》においてコローは、様々な伝統を引き継ぎながらも、当時のアカデミーとは異なる視点で自然を見ている。本発表は、18世紀末から19世紀初期における風景画概念の変遷に留意し、《ナルニの眺め》の風景画史上の位置づけを問い直すことを目的とする。

当時のフランス・アカデミーにおいて、高い価値が置かれていた風景画とは、古典古代の物語主題を伴った「歴史風景画paysage historique」であった。この考えは、新古典主義の理想に従ったものであり、ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌの風景画理論書『実践遠近法基礎要素』(1800年)の中で明示され、普及されたものである。1816年の風景画のためのローマ賞の設置が「歴史風景画部門」であったことは、アカデミーにおけるこの風景画ジャンルの地位の高さを象徴している。

しかしこの時代のサロンにおいて、自然や実際の情景を主題とした風景画が、数の上では「歴史風景画」を凌駕しており、それらは必ずしも自然を隷属的に写しだしたものではなかった。1788年に出版された『美術百科事典』でクロード=アンリ・ワトレは、自然を正確に写し取った風景画ジャンルを「眺めvues」として初めて詳述する一方で、自然をもとにしながらも部分的には想像によって構成しなおされた田園風景画を「混合風景画paysages mixtes」あるいは「構成的眺めvues composées」として明確に区別し、芸術的に価値があるものとして論じている。また、ヴァランシエンヌの弟子であるジャン=バティスト・ドゥペルトは、『風景画理論』(1818年)において、自然の趣味を表現し、構成された田園風景画を、歴史風景画に対して必ずしも低い価値にあるものとはしなかった。

コローの《ナルニの眺め》は、古典古代の物語主題を持たず、実際の情景を主題として構成されている。コローは、アカデミーの教育に従い、数多くの戸外油彩習作を描き、それらを参考にしながらアトリエにて「構成風景画paysage composé」としてこの作品を仕上げている。だがここにおけるコローの関心が、自身が体験した同時代のローマ郊外の田園情景に向けられていることに注意すべきである。

1817年から開催されたローマ賞歴史風景画部門は、1861年まで続き、「歴史風景画」という19世紀半ばには時代遅れになるアカデミーの思想をかたくなに守っていく。だが19世紀初頭において、田園や自然を主題にした構成風景画がサロンにおいても風景画の1ジャンルとして形成されており、コローの《ナルニの眺め》は、この新しいジャンルの典型的な例として位置づけることができるのである。

《フォリー=ベルジェールの酒場》の鏡に関する一考察――絵画における自己批判とモダニズムの創始

山口 裕太郎(東北大学)

エドゥアール・マネの作品《フォリー=ベルジェールの酒場》は、正面像と背景にある鏡への投影が適切な関係になく歪んでいるとして、1882年の発表当時から物議を醸してきた。ここに見られる、実像と鏡像の不整合な関係についてはこれまでも多くの考察が加えられてきた。なかでもT・J・クラークの主張[Clark 1984]は、注目に値する。鑑賞者と向き合うバーメイドと、男性客など鏡に映る人物群は同一空間上にではなく別の空間にいるものとして表されており、その理由として多様な階級が混淆する現代都市パリでの階級間の対立が鏡を通じて表象されているからではないかという。クラーク以降、実像と鏡像のズレを根拠として、この作品は階級論争やジェンダー論争の表象として主に解釈されてきた[Collins (ed.) 1996]。

ところが、これらの先行研究でほとんど言及されていないのは、絵画における鏡の伝統的な用いられ方と、他のマネ作品、そして彼以外の手になる作品での鏡の使われ方についてである。そのため、この作品が同時代作品の中で「孤立した」ものとして扱われ、その意義が十分に解明されない恨みが残る。

従来、鏡は美徳や真理、欺瞞など多様な観念を象徴する役割を果たしてきた。17世紀以降は鏡のこうした形而上学的機能は衰退するものの[M. Bonnet 1994=2003]、現実と錯覚とが交錯する場としての性格は決して失われることがなく [Baltrusaïtis 1978=1994]、実と虚、そして鏡の前に立つ自己と鏡の中に映る他者の関係についての反省を、見るものに絶えず促してきた。

だが、視覚の忠実な再現の場としての絵画を追求された19世紀後半の絵画では、あくまで現実を映し出すものとしての側面が強調され、本作のように鏡によって極端なまでに空間が歪められている例は、ドガやカイユボットら同時代の画家の作品においては類例を見ない。また、習作と完成作とを丹念に比較するなら、この三次元空間の破壊は、意図的かつ計画的であったことは明らかだ。さらに、《フォリー=ベルジェールの酒場》に先立つ作品でもマネはしばしば鏡を使用しているものの、そこで対象は、ごく自然に映し出されている。したがって、本作においてマネは現実と錯覚とが接し合う場という鏡の伝統的なあり方を意識しながら、一時は同調していたかに見えた同時代の動きと袂を分かち、あらためて絵画とは何かを問い直すメタ絵画の道を模索したと言える。

本発表では、鏡の問題を中心に据えてマネと他作家の関係に注意しつつ、これまでの研究では本格的に取り上げられてこなかった、《フォリー=ベルジェールの酒場》における絵画の自己批判のあり方に着目したい。そこでの検討を踏まえて、「絶えざる自己批判=モダニズム」をマネが絵画で実現し得た例、つまり彼にモダニズム絵画の創始者としての地位を与えた作品として本作を位置づける。

ハンス・マカルトと劇的なもの

大矢 未来(東京藝術大学)

ハンス・マカルト(1841-1884)は、1870年代のウィーンにおいて一世を風靡した画家である。本発表は、マカルトと演劇的なものあるいは劇場との関係を対象として、その活動の意義を捉えなおすことを目的とする。具体的に言えば、同時代の劇場に影響を受けたマカルトが、作品やパレードのデザインを通して劇的な空間を作り上げることにより、再び劇場へ影響を与えた過程を明らかにする。マカルトは死後、1890年代のウィーン分離派の登場により、乗り越えられるべき過去の時代の画家とみなされ、あまり評価されてこなかった。しかし、劇場における展開をみていくと、その活動には後の時代に受け継がれたものが少なくなく、その存在は決して軽んじられるべきものではない。

マカルトの作品と舞台との近似性、劇場関係者との交友は、これまでしばしば指摘されてきたが、いずれも表面的なものにとどまっていた。しかし、近年の研究では、ブルク劇場と宮廷歌劇場等との交流が具体的に論じられるようになってきた。これらの議論を敷衍し、マカルトの劇場への関与を今回は以下の二点について、当時の批評や舞台画を用いて明らかにする。

第一に、作曲家リヒャルト・ヴァーグナーとの関係である。マカルトが作曲家の楽劇上演に直接携わることはなかったが、両者には影響関係が伺われる。マカルトは修業時代にミュンヘンでヴァーグナーの楽劇を目にしたと考えられ、その後も交友関係を結んでいる。特筆すべきは、ヴァーグナーの《ニーベルンゲンの指環》上演以前から、マカルトも同一の伝説を題材にした作品を描いていたという事実である。その絵画は、一般的な舞台装置とは似ても似つかないため、一見、舞台の影響を受けたようには思われない。しかし、むしろ、当時の舞台技術では実現しえなかったヴァーグナーの理念を画中で表現しえていると考えられる。今回は、演出に関するヴァーグナーの発言とマカルトの作品を比較・分析し、二つの≪指環≫の関係を明らかにする。ほとんど周囲の事物を描かず、独特の色彩によって画中の人物とその動きを強調したマカルトの《指環》は、20世紀に実践された演出の先駆けともみなしうるのである。

第二に、マカルトが手掛けた1879年の皇帝夫妻銀婚式パレードに見られる、劇場外の都市全体を舞台とした演出からの劇場への影響である。神話画に登場するような豪勢な馬車行列や、16世紀の衣装に身を包んだ市民の行進などは、都市自体を劇場のような非日常の空間に変容させるものであった。パレードそのものの印象はいうまでもないが、その前後のおびただしい数の出版物は、マカルトの演出を広く伝えずにはいなかった。今回は、舞台画・衣装デザイン等を用い、同時代に現れた演出との関係を指摘する。この非日常化された日常空間は、後に劇場で新たな形態となり、引き継がれたと考えられる。

ムンクの《病める子》――革新的表現と歴史的文脈

川﨑 辰洋(関西学院大学)

ムンク(Edvard Munch, 1863-1944)の《病める子》(1885-86)は、彼が自然主義からの脱却を試みた最初の作品の一つとして知られている。《病める子》は、ムンクの記憶の中の姉の死を表現するために描かれた作品で、後に数度再制作された。《病める子》はムンクのライフワークでもあった〈生命のフリーズ〉における重要な作品で、彼はこの作品をフリーズの第一の作品であり、主要な作品でもあると述べている。また、これまでにもしばしば指摘されてきたように、《病める子》は、ムンクの師でもあったクローグ(Christian Krohg, 1852-1925)の《病める少女》とのつながりがある。

表現方法の点では、すぐにみてとれるように、《病める子》と《病める少女》は対照的である。クローグは《病める少女》で詳細なディティールまで描き、それを自然主義作品として仕上げている。それに対してムンクは、《病める子》でディティールを大幅に削り、彼自身の言葉を借りれば、その場面の「最初の印象」を描き出すことに執心している。そのために、そこでは、故意に表面へ細く鋭い傷がつけられていたり、上のレイヤーを削り取って下のレイヤーを表出させたりするなどの革新的な手法が用いられている。このような新たな表現に挑戦する姿勢は、後年の《叫び》(1893)や《思春期》(1894-95)における、特徴的なワニスの塗り方にもあらわれている。1886年の展覧会に出品された際に《習作》と題されていたことからも、この作品の性質を推し測れる。

しかし、エッグムが明らかにしているように、ムンクとクローグの作品に共通するモティーフの図像源泉は1850年代の写真作品へと遡ることができる。エッグムは、その一例として、ムンクが病床の少女を題材に描いた《春》が、イングランドの写真家ロビンソンの写真作品《消えゆく》から直接の影響を受けていることを指摘している。

《病める子》での革新的な表現は、一般的には受け入れられなかった。しかし、伝統的な写実的現実描写から感情的な主観表現へと移行してゆく傾向は、ヴァーレンショル(Erik Werenskiold, 1885-1938)をはじめ、同時期の他のノルウェー画家の作品にもみられる。《病める子》の酷評や、1892年のベルリンの展覧会でのスキャンダルなどに加え、その反社会的な生活態度もあいまって、ムンクの作品は絵画史から逸脱したものであるかのように受け取られがちである。しかし、それまでの伝統的な表現手段からの乖離は、必ずしもムンクに限られたことではなかった。その方向性は、同時代の他のノルウェー人画家と同じであり、モティーフも一般的なものだった。ムンクの作品は、同じ時代のコンテクストに基づいて制作されており、革新的要素もその流れに沿って採りいれられたものだったのである。

ゲオルグ・ジンメルの『ベックリンの風景画』への一考察

藤谷 正太(青山学院大学)

生の哲学者であり社会学の創設者としても知られるゲオルグ・ジンメルは様々な事象に哲学的考察を加え、それらの論考を残しているが、特に「芸術」は常にジンメルの関心の中心にあり続けた。

ジンメルにとって芸術作品とは、まずわれわれの生、魂の内部で常に拮抗している様々な二元性を統合する存在である。しかも芸術はただ諸々の二元性の解消ではなく、芸術作品の持つ自己充足性の内部で、二元性がその対抗関係を保ちつつ休らいつつその対抗関係の上に立つとされる。

ジンメルの論考『ベックリンの風景画』で、ベックリンの風景画は何よりもその「無時間性」によってわれわれを救うものであると述べられている。本発表ではジンメルにとって芸術作品が生の内部での二元性を統合するものであるだけでなく、まさにそのことによってわれわれを「救う」ものであるという観点を、論考『ベックリンの風景画』に依拠しつつ検討する。

ベックリンの風景画においては、その作品内では全ての歴史的瞬間と全ての「以前」と「以後」からの解放、つまり未来と過去という対立からの解放である無時間性としての「超時間的な性格」が存在すると同時に「非-空間性」が備わっており、このような時間と空間の強制から自由であることによって、われわれは彼の絵から自由の感情を味わうとジンメルは述べている。ベックリンの絵は、このような自由、解放を通してわれわれの魂を救済する存在であると言われるのである。

ジンメルはベックリンの絵画における救済をこれ以上詳しくは論じていないが、私はこの救済がまさしくジンメルの考える現代的な生の窮状という事態と対応すると考える。ジンメルは著作『貨幣の哲学』において、現代社会の特徴を、生活サイクルの急激な交替や過度な競争によって精神を摩耗させつつ、現代人をあらゆる刺激に対して鈍感にしてしまう節操のなさであるとしている。このような状況が、現代人に特有の倦怠をもたらし、刺激から倦怠、倦怠から刺激というサイクルの中で、刺激自体への欲求が拡大されることになる。ジンメルによればこのような急激なサイクルの交替はわれわれの生の形式自体の頻繁な交替、われわれの生きられた時間の加速を明らかにする。芸術作品としてのベックリンの風景画は、その「無時間性」と「非-空間性」によって現代に特有な時間の交替、生の交替のサイクルに対する圧力からわれわれを解放するものであると言えるのではないだろうか。

このことを明らかにするため、本発表では論考『ベックリンの風景画』に基づきベックリンの絵画における無時間性を考察する。さらに著作『生の直観』と『貨幣の哲学』で論じられるジンメルの時間論と現代社会におけるわれわれの窮状を検討し、ベックリンの絵画がわれわれの特に現代的な生を救済するものである点を明らかにしたいと考える。

九鬼周造における芸術論――日本の美的概念の構築について

平井 瑛子(京都大学)

九鬼周造(1888-1941)は、主著である『偶然性の問題』(1935)や、日本独自の美意識について解釈した『「いき」の構造』(1930)で知られる哲学者である。九鬼は約8年にもわたる欧州留学において、ハイデッガー、ベルクソンなどの哲学者と交流し、西洋思想を学んだ一方で、西洋思想のみならず、東洋思想にも基づいた独自の思想を構築したことで評価されている。

九鬼の思想は、これまで哲学的観点から、偶然性、存在論、時間論などについての多くの考察がなされてきた。一方、『「いき」の構造』に代表されるように、九鬼の思想においては、芸術に関する論考、とりわけ日本の美意識に関する論が多々見受けられる。このような芸術論執筆の背景には、帝室博物館総長であり美術行政を行った人物を父とし、九鬼の人生と深く関わる岡倉天心の存在など、特異な周囲の環境と人生がある。すなわち九鬼は、日本美術の今日的な価値基準を作り上げた人物の影響により、美に対する素養を身につけていた。さらに、留学中に感じた日本に対する偏見や誤解から、日本文化・美術の再評価の必要性を認識するに至り、自らの美意識と美的概念に対する価値観を著す必要性に駆られるようになったという背景もある。

欧州留学中の「日本芸術における「無限」の表現」(仏語 1928)や、帰国後の「風流に関する一考察」(初出1937)は、芸術論を主眼としており、芸術に対する九鬼の視座を読み解くことができる。しかし、多くの先行研究においては、九鬼の芸術論に関する論は『「いき」の構造』が注視されてきたため、他の論文における芸術論に対する十分な考察がなされてこなかった。本発表では、上記2つの論考を、主に論文執筆の時代・社会背景と、九鬼の美的概念の特異性との関係性の観点から明らかにする。特に、九鬼の欧州留学とその後にかけて彼の論文執筆の時期は、近代化から昭和期の日本ナショナリズムへと移行する過渡期にあったことである。そのような時代の潮流の影響をうけながらも、「風流」などの日本の美的概念を、自らの芸術論において九鬼がどのように取り扱ってきたかについて考察を進める。具体的には、九鬼は俳諧、絵画作品、古典芸能等を網羅的に挙げて自らの思想を語っているが、このような個々にあげられる作品・芸術家から見出される特性を分析し検討することで、芸術に対する彼の考えを見出す。すなわち、九鬼が自らの趣向を示しつつ、重要な美的概念に関して理論的な芸術論を構築するだけでなく、現実において芸術を理解し、実践するという視座が見出される。以上から、九鬼における芸術論を通じて、芸術に関する重要な概念について検討していく。さらに、「風流」のような日本における美的概念の問題を導きだし、九鬼がなぜこのような思想を抱くに至ったかを明らかにする。

ジャック・デリダの言語論における一人称代名詞の問題性

樫田 祐一郎(京都大学)

自己、主体、あるいは自伝。これらはいずれもフランスの哲学者ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)の思想において極めて重要な問題関心であったが、一人称代名詞とはまさにこうした一連の主題を現象として構成する最も根本的な要素であると言えるだろう。そして事実この語(je)そのものへの問いはデリダによって、初期から晩年に至るまで絶えず反復され続けていたのである。それはいかなる語であり、一人称で語るとは我々にとっていかなる経験なのだろうか。ここでは最初期の『声と現象』(1967)、および晩年近い『滞留――モーリス・ブランショ』(1998)というふたつのテクストを手がかりとしつつ、一人称代名詞に関するデリダの言語論的思索について考察を試みたい。

前半部では『声と現象』最終章における「ひとはそれ〔一人称代名詞〕を理解するためにも、またその語を発するためであってさえも誰が語っているのかを知る必要はない」(La voix et le phénomène, p.104)というテーゼに着目し、デリダが「私 je」という語の「意味」について提示した特異な主張を検討する。そこで彼が言わんとするのは「私」がを、つまり今まさに語りつつあるこの者を指すという日常的な前提の無根拠性である。こうした主張はデリダの言語論全体の基調をなす「言語の虚構性」という着想に基づいているが、それは決して日常言語をアナーキーな混乱に帰そうというものではない――むしろそのような状況ゆえにこそ、言語と現実の困難な関係性がなおも問われねばならないのである。そこで後半部において我々は、文学作品の虚構的かつ匿名的な「私」という極限的な(しかしその実「範例的」な)ケースを取り上げることで、一人称の言表一般が孕む危うさの本質をあくまでポジティブな観点から捉えることを試みよう。『滞留』においてデリダがモーリス・ブランショの掌編『私の死の瞬間』に施した詳細な読解は、この点に関する問いを非常に鮮烈な仕方で提起している。この物語は証言の外観を纏った文学作品なのか、あるいは虚構を装ったひとつの証言であるのか――決定不可能に留まる二つの読みの可能性のはざまで揺さぶられる「三つの審級/三つの」(著者、語り手、登場人物)とその「共苦」をめぐるデリダの省察を通じて、やがて我々は一人称代名詞の問いが「死」や「他者」といった、ある意味で本稿冒頭に挙げた諸主題の裏面をなすとも言えるもうひとつの問題系にも影を落としているさまを見ることになるだろう。

一人称代名詞への着目は、常に「言語」の問いから発して多方面へと展開されてきたデリダ思想を考察するためのひとつの有効な視座を提供するものである。しかし加えて本発表では、「虚構」や「作品」といった問題を経由することで、とりわけ芸術学的領域における彼の思考の意義についても一定の知見を示したいと考える。

自然の美的鑑賞における〈制限的認知モデル〉の構築に向けて――パトリシア・マシューズの「言語的モデル」と「知覚的モデル」を手がかりに

青田 麻未(東京大学)

本発表では、環境美学における〈制限的認知モデル〉を構築するために、「認知モデル(cognitive model)」を擁護する論者のひとり、パトリシア・マシューズの議論を検討する。認知モデルとは、自然の美的鑑賞において、自然に関する知識が重要な役割を果たすとする立場である。認知モデルの代表的論者アレン・カールソンは、〈正しい自然の美的鑑賞には、常識的/科学的知識が求められる〉と主張する。彼の論をさらに精査すれば、常識的/科学的知識の中でも生態学的知識が最も重要な役割を果たしていることがわかる。この傾向は、その他の認知モデル論者にもおおむね認められる。生態学的知識とは、さしあたり、自然物をそれが属する環境との関係性のうちに位置づけて説明する知識と規定できる。

認知モデルは、その主張を推し進めると「すべての手つかずの自然は美的によい」とする積極美学(positive aesthetics)のテーゼの擁護へと至ってしまう。だが一方で、認知モデルを単純に棄却することもできない。なぜなら生態学的知識は、「自然を自然として」美的に鑑賞すること、およびその美的鑑賞と自然に対する倫理的判断とを架橋することという二点を可能にするものであり、言いかえれば認知モデルは、環境美学の誕生以来、その歴史全体を貫く最も重要な関心と密接に関係してきたからである。そこで発表者は、積極美学の擁護へと至らない形で、認知モデルを正当に制限することを最終的な目的とする。

本発表では、認知モデルが積極美学へと至る道筋の一つである以下の問題を取り上げる。〈生態学的知識に基づいて自然物を美的に鑑賞する際に、美的と言えるのは事物自体なのか、事物を契機として想起される生態学的秩序全体なのか〉。この問題を考えるには、パトリシア・マシューズの議論が手がかりとなる。彼女は、認知モデルに属するものとして「言語的モデル(linguistic model)」と「知覚的モデル(perceptual model)」の二つを提示する。前者に従えば、事物の知覚的特性には還元することのできない進化論的物語が美的に鑑賞されることとなる。この進化論的物語は、生態学的秩序と非常に近い関係にある。それに対し後者の知覚的モデルでは、同じく知識が用いられるが、この場合の知識は知覚的特性に還元することができ、美的知覚に対して直接的な影響を与えうる。この論の妥当性を検討することは、上述の認知モデルの問題を解決することに繋がる。なぜならこの論に依拠することができれば、認知モデルにおける美的対象を (1) 秩序それ自体、(2) 個々の事物や風景に分けることができ、(1)に関する美的判断が必ずしも(2)に関する美的判断と直接的に関係しうるわけではないということが言えて、積極美学へと帰着しない〈制限的認知モデル〉構築の可能性が開かれるからである。

ムノート城の象徴性の検討

梅村 尚幸(北海道大学)

本発表の目的は、スイス・シャフハウゼン市内の小高い丘に建設され、かつてアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471-1528)の『築城論』を参考に設計されたと考えられていたムノート城(Burg Munot)に関して、軍事的・建築技術的側面に限らず、歴史的・思想的側面からその形態に込められた意味を探ることである。

16世紀当時、シャフハウゼンは神聖ローマ帝国のハプスブルク家に対抗するスイス盟約者団の前衛にあり、戦闘に巻き込まれる危険性に晒されていた。そのような状況下、ムノート城はシャフハウゼン市議会の決定に基づき、莫大な資金と市民の労働力を投じて、1564年から1589年の工期にほぼ現在の形態に仕上げられた。対爆性を備えた重厚な円形の主要部分に、高い円塔が付いたこの特徴的な形態については、謎が多い。例えば、このような形態は、建設が決定された1563年時点で既に軍事技術的には時代遅れな上に高コストであった。また、市民の避難要塞として利用するにしても、シャフハウゼンの人口を考えればあまりにも小規模であった。ゆえにムノート城は、軍事施設としての役割を期待して建設されたというよりも、最初からシャフハウゼンの権力、富、防御力の象徴として建設されたのではないかという推測がなされている。

しかし先行研究においては、このことは推測されただけで、具体的な根拠が与えられていないままである。ムノート城の形態は一体何を参考にして設計され、そしてどのような意味が込められているのだろうか。

かつては、ムノート城はデューラーが『築城論』の中で示した円形要塞を参考に建設されたといわれていた。しかしこれを証明する史料は発見されていないうえに、デューラーが描いた図とムノート城とでは寸法が大きく異なっているため、現在ではもはや有力な説とはいえない。とはいえ発表者は、デューラーが『築城論』執筆の際に参考にしたものと、ムノート城が建設される際に参考にされたものには、共通するものがあると考える。すなわちそれは、古代ローマである。

デューラーは古代のウィトルウィウスを参考に、要塞の形態を構想した。ムノート城もまた同様に、古代ローマの業績を参考に建設され、ローマとのつながりを示すものとされたと考えられるのだ。すなわち、神聖ローマ帝国に対抗するシャフハウゼン市は、その独立の正当性を、ローマ帝国の属州であった過去を照らすことで主張したのではないか。本発表ではこの仮説を検証するために、当時市内にどの程度古代への意識があったのかを、シャフハウゼン市の年代記や議会録をはじめとする文書史料の検討や、同時代のモニュメント等(例えば「騎士の館(Ritter)」)の観察を行うことで明らかにする。このように、これまで単なる軍事施設と捉えられがちであった城郭の象徴的役割に光を当てることで、人間の歴史、思想、造形などへの関心がいかなる方向に向いていたのかを、新たに明らかにすることができると考える。

ピクチャレスク美学の受容と批判――ウィリアム・クーム『ドクター・シンタックスの旅、ピクチャレスクを求めて』(1812)を読む

近藤 亮介(東京大学)

18世紀の英国で勃興したピクチャレスクを美と崇高に続く第三の美的範疇として確立したのは、ウィリアム・ギルピン(Rev. William Gilpin, 1724-1804)をはじめとする1790年代の一連の美学言説である。ピクチャレスクはその美学化の過程で、やがて地主階級を中心とする言説主体の意志を反映して男性権威的・政治的性格を急速に強めた結果、道徳性の欠如に対する批判を招いた。その批判の先鋒を担ったのが、1790年代から1810年代に相次いで出版されたピクチャレスクを扱う英文学である。とりわけウィリアム・クーム(William Combe, 1742-1823)の喜劇詩『ドクター・シンタックスの旅、ピクチャレスクを求めて』(1812)は、絶大な人気を博した作品として知られる。本発表は、ピクチャレスク風刺の代表作であるにもかかわらず、これまで美学言説との連関が検討されてこなかった本作の分析を通じて、19世紀初頭のピクチャレスク美学の受容と批判の実態を解明する。

まず、ギルピンをモデルにした主人公シンタックス博士のピクチャレスク旅行者としての側面に焦点を当て、道中で起こる出来事や博士の発言とピクチャレスク美学の言説とを比較検討する。自然の景観や動物に対する博士の主張にはギルピンの理論との共通点が多く見られる一方で、鳥類に関しては両者の理論に相違が認められ、そこには他者が練り上げた言説よりも自己の身体感覚に価値を置く著者クームの思想が垣間見られる。本作に挿入されたトマス・ローランドソン(Thomas Rowlandson, 1756-1827)の風刺画には、ピクチャレスク美学に追従するがあまり災難を招いてしまう博士の滑稽な姿が繰り返し描かれる。これらはピクチャレスク批判の矛先が、ギルピン個人ではなく、ピクチャレスクを巡る一部言説の不合理性・過剰性に向けられていることを例証している。

また、シンタックス博士の聖職者としての発言・行動には、ピクチャレスク批判と道徳との関係性が明示されている。博士と他の登場人物たちの相互的な教化関係は、階級制度を疑問視する当時の平等主義を想起させる。しかし、クームの政治パンフレットや書簡に見られる保守的態度やクエーカーへの共感を加味するならば、暴力を孕む急進的な平等主義は保守的な平和主義よりも下位に置かれていることが分かる。こうした思想の背景にはクームの階級に対する強い意識が窺われる。本作における道徳は、中産/上流階級間の対立を調停する役割を果たしており、本来なら矛盾するはずのピクチャレスク批判と平和主義を同時に支えている。

『ドクター・シンタックスの旅、ピクチャレスクを求めて』には、中産階級と上流階級の狭間で葛藤しながらも理想の道徳を描出しようと試みたクームの思考の揺れが表象されている。それは、道徳的観点から展開されるピクチャレスク批判がピクチャレスク美学の包括的な否定を企図していない事実のみならず、政治思想における上流階級への同調によって無意識的にピクチャレスク美学を承認してしまう可能性を示唆している。

フランク・ロイド・ライトの有機的建築にみられる浮世絵の影響――借用的再現と幾何学的構築

服部 真吏(慶應義塾大学)

本発表は、フランク・ロイド・ライトが熱心なジャポニストであったことに注目し、彼の浮世絵受容の観点から、その建築について考察するものである。モダニズムの建築家として出発したライトは、後にヨーロッパのモダニストたちとは異なる道へと進み、独自の有機的建築を主張したが、その有機的建築が生み出される要因の1つとして、日本の浮世絵からの影響が考えられる。

ライトが、浮世絵収集家として、アメリカの浮世絵コレクションの形成に寄与したことはよく知られている。しかしその一方で、ライトが浮世絵の世界に建築の理想を求めていたことは、ほとんど知られていない。ライトは『自伝』や『日本版画――1つの解釈』(1912年)において、日本の浮世絵版画のモダニズムに対する重要な意義を指摘し、自らの建築にも応用できる原理をそこに見出している。

1890年代末からの、ライトの浮世絵受容は、室内装飾としての実用的な使用、日本文化における自然との親近性への理解、そして広重の構図の自らの透視図への借用等に見られる。ライトは広重の錦絵をトレースし、自ら線を延長したり描き込んだりして、その構図やプロポーションを学んだ。このような構図の研究には、浮世絵の中に描かれているものを読み解こうとする態度から浮世絵の構図や図案を使用する態度への進展が見られ、ライトの関心が、イメージから造形行為へ、浮世絵の中に描かれたものからその描き方へと推移したことが読み取れる。

さらに1912年以降には、「不要な物の排除」としての視点がより強まり、浮世絵を幾何学的に再構成されたものとして捉えるようになる。それを端的に示すのが、ライトが描いた浮世絵展のポスターであり、これは自ら入手した美人画を原型に、それを図案化したものである。この時期には、彼の建築装飾にも同様の幾何学的な構成への関心が認められる。この背景には、北斎の『略画早指南』からの影響が指摘されている。その中で北斎は、建築家ライトがT字定規とコンパスを使って図面を描くのと同様に、定規とコンパスで絵を描くことを指南している。

ライトが浮世絵にもっとも熱中し、生涯7度の来日のうちの6度も来日した1910年から1935年の時期は、従来は「不作の時代」と見なされていた。しかし、実際にはライトが建築活動においてさまざまなアイデアを実験し、第一次黄金期から第二次黄金期へと飛躍する過渡期に当たる。この時期にライトは、正方形や長方形以外の幾何学形態を基本形とし、直角以外の鋭角や鈍角、六角形、八角形、円形、そして円弧という新たな建築言語を獲得し、有機的建築のための独自の方法を開発していた。このような建築スタイルの変化の背景には、ライトが晩年に至るまで常に自分の手元に置き眺めていた浮世絵からの影響が認められ、それは、以上で検討したような、借用的再現という直接的な影響と幾何学的構築という間接的な影響の二点において、彼の建築に反映されている。

問題解決としての作品制作――K. R. ポパーの科学方法論とE. H. ゴンブリッチの美術史記述を手がかりとして

加藤 康郎(慶應義塾大学)

K. R. ポパーは“Objective Knowledge(客観的知識)”(1972年)において、「問題解決 problem-solving」をすべての生命がその環境に対して行なう適応のシステムと規定する。いかなる生命もそれぞれの環境からさまざまな刺激を受けるが、その刺激を一種の問題と見做すならば、これに解決策を与えるかたちで一定の反応が形成される。このような問題解決としての反応が適切でなければ、その生命は衰退し、場合によっては絶滅することになる。その他の生命とは異なり、人間は、知性と言語とを通じて、物理的な自然環境とは異なる精神的・文化的な環境、知識の世界を構築してきた。人間は知的活動の所産からも刺激を受け、これに対して問題解決的に反応する。

本発表で注目するのは、この知的活動としての問題解決であるが、ポパーによれば、これには芸術的活動も含まれ、作品の制作も人間の知的活動として問題解決の一つのパターンとみなすことができる。「私は、問題および問題状況に対する私の答えが科学的理論をはるかに越えて適用できることを示唆した。われわれは、少なくともある場合には、それを芸術作品にさえ適用できる。われわれは芸術家の問題が何であったか推測でき、またこの推測を独立した証拠によって裏づけることができるであろう。」(“Objective Knowledge”, pp.179-180)

ポパーは、芸術作品の制作を問題解決として捉えている事例として、E. H .ゴンブリッチの研究を挙げている。実際、ゴンブリッチは、“Norm and Form(規範と形式)”(1966年)においてギベルティのフィレンツェ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂『天国の門』について分析しているが、そこでは主として芸術家の作品・作風を理解するために問題解決の視点が援用されている。他に、“Kunst und Fortschritt(芸術と進歩)”(1978年)、“Means and Ends(手段と目的)”(1976年)などにも同様の記述が見られる。さらに、“The Story of Art(美術の物語)”(1950年)では、様式の歴史が問題解決の展開として記述されている。

一般に、芸術家の作品制作を問題解決として捉えるとき、以下の三つの面から分析が可能である。すなわち、①創造的な制作手法の発見としての問題解決、②作家個人による個々の作品・作風の生成としての問題解決、③様式の歴史を問題の変遷あるいは解決の展開として捉える歴史記述としての問題解決、である。本発表では、ポパーの科学理論に即した思考的探究の方法としての問題解決とゴンブリッチの美術作品に即した作品の制作と理解ならびに歴史記述としての問題解決との比較を通じて、科学理論と芸術作品、両者の共通点と相違点について考察し、芸術作品の制作を問題解決として捉えることの有効性を明らかにする。

大会実行委員会事務局

ポスターPDF(6.7MB)