受賞記念講演(日本語訳)
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「民族音楽学を通して大学と地域社会の関係を拡大する」

バーバラ・バーナード・スミス(ハワイ大学マーノア校名誉教授)

翻訳・代読:山口修(大阪大学名誉教授)
東京 2010年5月27日


   私は小泉文夫音楽賞を受賞することを深く名誉なことだと思っています。学者として、教師として、また人間として心から敬愛してやまない人の名を冠したものですから。私が小泉氏の講演を最初に聞いたのは、ここ東京で1963年に開かれたISMEすなわち国際教育学会の第5回東京大会のときでした。講演のテーマは「民俗音楽と芸術音楽の過去と現在−東洋の場合」というものでした。分科会ではなく、全員が出席するセッションのなかの目立つ部分にあてられていました。その講演のなかの二つのポイントが私のハワイでの活動にとって示唆的でした。一つは、多くのアジアの民俗音楽がもつ特徴的な性質は西洋音楽の観点から正しく理解することはできないということ、そしてもう一つは、現在と未来のためには何が価値あるもので、発展のためには何を捨てなければならないのかについてのお考えでした。

   大学と地域社会の関係について私が暖めてきた観点は、ハワイ大学に勤務した経験に大きく依存しています。そして、いくつかの大学を比較したとき、大きく捉えれば共通していると見えていたとしても、実際に具体的に検証すれば違いがあるのだということも認識しています。なぜかと言いますと、一つ一つの大学はそれぞれ異なる地域社会に囲まれているからです。他方では、地域的な違いを強調しすぎると、すべての大学が標準的な目標を設定すべきであるとしばしば論議されていることに反発することになってしまいかねないことも認識しています。それでも私は、二つの見解のあいだに効率的かつ生産的な均衡を獲得することは不可能ではないと考えています。

   ハワイ大学の音楽学科は1947年に創設されました。当時ハワイは合衆国の州ではなく属州Territoryにすぎませんでしたから、音楽学科が創立されたときの目的は、本土の州にまで留学することのできないローカルな学生たちが属州内の高校で教員となるための単位がとれるように授業やレッスンを提供することでした。私は1949年にピアノと音楽理論を担当する教官として赴任しました。私の学生たちはハワイ人でした。もっと正確に言えば、ハワイ系の混血の人たちで、ハワイ系の女性が外国生まれの男性と結婚して生まれた人たちで、白人系やアジア系の血が混じった例もありました。ヨーロッパや合衆国からやってきた初期の植民者たちが始めた砂糖やパイナップルの農園で労働するという契約で移住してきた男性たちを男親にもつ学生もいました。契約労働者の出身地は中国、ポルトガル属領のアゾレス諸島、日本、朝鮮半島、当時日本の一部ではなかった沖縄、そしてフィリピンで、彼らは契約終了後も故国へは帰らず島に定住することを選んだのです。

   彼らと過ごす時間がたつにつれ、私が驚いたのはカレッジで音楽を専攻するにしては不適格としか言いようがない音楽的背景しか持ち合わせていなかっただけでなく、ワイキキの観光客向けの西洋化されたハワイアンやフラを除けば、彼ら自身の祖先の伝統については否定的な態度を示したことでした。私よりも1、2年前にハワイに赴任していた同僚たちは、気にしなさんな、学生たちはアメリカ風の生活を徹底的に取り入れようとしている属州ハワイの未来のために熱心にやっているのだから、と言うだけでした。1953年にあるきっかけで、私の学生たちの否定的な考え方のもっと大切な理由が私の考えていたことにつながっているのだと気づきました。ベルギーで開かれたユネスコ会議に出席していたときのことです。会議の展示コーナーで小学校の音楽教育に使われる歌を集めた本に目を通しました。わかったことは、ヨーロッパ諸国で使われている歌の本の場合はそれぞれの国にゆかりの音楽ばかりが収録されていたのとは対照的に、合衆国の本の場合は、ヨーロッパ諸国の歌がたくさん収められていたのです。しかし、私の学生たちの出自であるハワイやアジア諸国の歌は一曲も載っていませんでした。

   ハワイにもどって間もなく、私は何人かの学生たちが交わす会話を聞くとはなしに聞いてしまいました。彼らは悩みを打ち明けあっていました。大学で勉強すれば、結局「ココナッツやバナナ」になっちまうんじゃないだろうかと。この表現は、心は白人、肌は茶色や黄色といった意味合いの侮蔑的なものです。音楽の授業について言っていたわけではありませんが、私はとっさに理解しました。私が彼らに教えていたことが彼ら自身を見下すことに力を貸していただけなのだと。そしてカリキュラムにハワイやアジアの音楽を取り込むことこそが必要なのだと。問題は、何をどのように誰の手でそれができるのかでした。周囲の人たちは関心を寄せるどころか、私たちのプログラムをアメリカの水準にもってゆこうとすること以上に何かをやってみようなどという考えに対する強烈な抵抗に直面したのが現実でした。私は自分で可能性を探るしかないと実感しました。

   ところで、教えること、そして通常は地域社会へのアウトリーチとみなされる奉仕活動だけが演奏や研究の教師として大切なのですが、民族音楽学プログラムを発展させようと努力するにつれ、私の体験していることが実は三つの過程を含みこんでいることに気づきました。第一に地域社会からのインプット、第二に教え、研究し、発展させること、そして第三にアウトリーチをローカルな地域社会だけでなく地理的な境界線を越えたところにある他の地域社会へともってゆくことです。もっとも、私が地域社会からのインプットとして経験していたことが、その地域社会に属する多くの人びとからすればこちらからのアウトリーチであったとも言えます。

   さて、図書館には役に立つものは何も見つかりませんでした。私の西洋音楽学習がピアノを習うことから始まったことと考え合わせた結果、アジアの楽器をひとつ習うことから始めようと決心しました。幸運なことに、ケイ・ミカミ(本名カズエ・ミカミ)という人にたどり着くことができました。彼女は日系の女の子や女性たちに自分の家で箏を教えていましたので、彼女に手ほどきをしてもらうことにしました。私はまた、ハワイの伝統的な歌や踊りをきちんと伝承している人たちとも相談しました。ミカミ先生は私のために宮城道雄から直接指導を受けることを含めたアジア旅行をアレンジしてくださいました。旅行先では図書館に収めるべき本やレコードを買い求めました。旅行から帰ってきた私は、大学のサマースクールでの連続講義や地域内の団体のための講義も始めました。

   けれども音楽実践を受講生に体験させるだけの能力は私にはありませんでしたので、適切な人材にあたりをつける必要に迫られました。ところが、こうした伝統芸能の優れた演奏家や師匠たちは、大学雇用の資格基準を満たしていませんでしたので、基準を新たに設定しなおさなければなりませんでした。箏を教えるミカミ先生の場合、大師範という称号を持っておられましたので、それが修士号に代わるものと認められました。これと類似したやり方で、ハワイ伝統歌謡を教えるカウペナ・ウォン先生やアジア舞踊を担当できる地元の師匠たちの問題も解決しました。彼らが首尾よく雇用されたことは、大学で始まりつつあった民族音楽学プログラムへと地域社会がインリーチする突破口となったのです。

   ユネスコ会議の展示場で見た歌の本のことを思い出しつつ、ハワイやアジアの音楽を扱ったコースを始める必要もあると考え、大学で研修生となっている小学校の教員たち、また、ハワイ属州の小学校で教鞭をとるべく勉強しているカレッジ在籍の上級学生たちを対象にして開始しました。このコースでは、受講生たちが小学校の教職にもどるなり新たにそこに就職したときにすぐさま小さな子どもたちに歌や踊りを教えられるようにするという目的で、ハワイやアジアの歌と踊りの実践を課したのです。どのように選曲するかという問題については私は充分な考えを持ち合わせていませんでしたから、アジア系移民社会のしかるべき人たちの意見をきくことにしました。彼らが持ち合わせている伝統のわらべうたや踊りを選んでもらって、すべての民族集団をカバーしたかたちで子供たちと楽しみを共有できるように考えてもらいました。そして、それぞれの民族集団から教えることのできる人を招待しました。このコースが実行にうつされた結果、数年もたたないうちに、これらの歌や踊りは5、6千人もの学童たちが身につけることになりました。加えて、このコースとその後継プログラムに関わっていた人が、隣の学校の人を招待してさらに別の歌や踊りを教えるといった広がりを見せました。

   すでに触れましたように、ハワイ大学とそのローカルな地域社会が繰り広げたいくつかのプロジェクトは他の地域社会へと拡大してゆきました。その一つは、太平洋諸島の人たちを対象にして東西センターで実施された短期訓練プログラムで、後にアジア諸国をも視野に入れるようになりました。それらは、民族音楽学の背景をもたない人たちを対象にして民族音楽学の方法を組み込んだものでした。その前身となっていたのは、地域の演奏家によるプログラムを展開するというアウトリーチ活動だったのです。アジアの音楽や舞踊の伝統を大学のキャンパスのなかで通常の期間やサマースクールの場を借りてやっていましたし、キャンパスを離れてホノルル芸術院ほかの場所でもやっていました。このアウトリーチ活動で意図していたのは、ハワイに新たにやってきた人びとおよび地域の住民たちのために、彼らに馴染みのない伝統に親しんでもらうこと、そしてすでに馴染んでいる人たちにはさらにその鑑賞を継続してもらうことでした。これに加えて、私自身が1963年に実施したミクロネシアのカロリン群島とマーシャル群島をサーヴェイする調査をさらに深める目的で、当時東西センターの奨学金によりハワイ大学で修士号取得を目指していた山口修に、彼自身のフィールドワークの対象としてパラオ諸島を選んではどうかともちかけました。結局その仕事は後々まで続けられ、彼はパラオ音楽研究に大きな貢献をしましたし、彼の教え子たちの何人かが太平洋諸島研究に業績を積み重ねつつあります。山口はまた、東西センターでの訓練プログラムの初期の講師をも勤めました。

   最後の例として雅楽についてお話します。私たちは、地域に住むエキスパートにその専門領域のことを教えていただくという方針をとっていましたから、雅楽も選ぶことになりました。きっかけは、優秀な大学院生が舞楽を扱った修士論文に取り組むために日本へ出かける前に雅楽を勉強させたかったことです。ところが、日本伝統音楽のひとつである雅楽はハワイ日系人にとって重要な部分ではありませんでしたから、当初は2学期間だけのつもりでいました。けれども、ハワイにやってきたばかりだった社本正登司師は類稀なる熱意を示してくださり、地域社会にある天理教教会のなかでの雅楽の役割を高める貢献をされたのです。そのおかげで雅楽はその後も継続的に実践されています。大学の方では、社本師と初期の学生たちがハワイ雅楽研究会を結束して毎週音楽学科に集まり、自分たちの楽しみのためだけでなく、大学内外の美しい場所を選んで月見のコンサートほかをしばしば実施してきました。社本師の力による記憶すべき活動や体験は多数ありますが、その一つは1972年に日本を訪れ宮内庁楽部の楽師の方々からご指導をいただいたこと、さらに回を重ねて日本を訪れ日本雅楽会の方々との修練や演奏をしましたし、日本雅楽会の方々をハワイにお呼びして特訓を受けレパートリの拡大をはかり、私たちのグループと共演するコンサートもおこないました。それだけではなく、1996年にはワシントンDCにも行き、スミスソーニアン研究所のアメリカフォークライフ祭で演奏する機会にも恵まれました。1998年にはドイツのケルン大学ローベルト・ギュンター博士を客員教授としてお迎えしました。日本がご専門でしたから、ハワイ滞在中に社本先生から雅楽の手ほどきを受けられ、ドイツに帰国後、ケルン大学に雅楽研究会を発足なさいました。2000年から毎年夏の季節に社本先生が指導なさった結果、ヨーロッパで最初にしていまなお唯一の雅楽団体となったのです。ハワイで雅楽を教えてこられた50年のうち48年はハワイ大学民族音楽学プログラムにも力を注いでくださり、地域社会へのアウトリーチだけでなく、国内外の共同体の音楽愛好家のためにも大きく貢献なさいました。この業績を称える旭日双光章の勲章を授かりました。これは彼自身の名誉であるばかりか、ハワイ大学民族音楽学プログラムおよび大学全体にとっても威信をもたらすものであります。

   ハワイの雅楽の経緯は、すでにお話しした三つの過程を包み込んでいます。第一に地域社会からのインプット、第二に大学の側の研究、教育、発展、そして第三に地域社会だけでなく地理的境界線を越えてのアウトリーチです。このことは、民族音楽学にとって意義のあるそして適切であると私が信じる責任感を維持する過程なのです。

ありがとうございました。



このページは、2010.6.6 にアップデートされました。
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