「小泉文夫先生年譜(小柴はるみ作成)」(『諸民族の音』)、「小泉文夫先生略年譜(小泉文夫先生を偲ぶ会作成)」(『回想の小泉文夫先生』)、「小泉文夫略年譜(岡田真紀作成)」(『世界を聴いた男』)をもとに作成。
1927年
(昭和2年)
0歳 3月29日、東京府下荏原郡大井村字下蛇窪(荏原区神明町、のちの品川区二葉町)に生まれる。ただし4月4日誕生と届け出。小泉直澄、わかの三男。兄2人・姉1人の末っ子。
1934年
(昭和9年)
7歳 4月、杜松尋常小学校入学、のち大間窪尋常小学校、原尋常小学校に転校。
ヴァイオリン、水泳に熱中する。
1940年
(昭和15年)
13歳 4月、府立四中(現都立戸山高校)に入学。
安部幸明と出会う。
乗馬、水泳に熱中。背泳の選手で新記録も作った。
1944年
(昭和19年)
17歳 4月、旧制第一高等学校(現東京大学教養学部)理科乙類入学。
音楽班に入る。
岡見温彦氏にヴァイオリンを,高田三郎氏に合唱の指導を,また宅孝二氏のピアノにも接する機会を得る。
1945年
(昭和20年)
18歳 8月、山形県上の山温泉で陸軍軍医学校に勤労動員中に敗戦を迎える。
1946年
(昭和21年)
19歳 世田谷の池の上教会に通い、賛美歌を楽しむ。
1947年
(昭和22年)
20歳 洗礼を受ける。
宗教音楽研究会に通う。
声楽家加古三枝子と出会う。
1948年
(昭和23年)
21歳 4月、東京大学文学部に入学。
上野警察、築地警察で通訳のアルバイトをする。
1949年
(昭和24年)
22歳 4月、美学美術史学科に進む。
9月、加古三枝子と結婚。
1950年
(昭和25年)
23歳 吉川英史の日本音楽史の講義で地歌「ままの川」の実演を聴き、衝撃を受ける。
1951年
(昭和26年)
24歳 3月、近代標題音楽に関する卒論で東大を卒業。
4月、東京大学大学院に進学。
町田佳聲の『日本民謡大観』の採譜を手伝う。
1952年
(昭和27年)
25歳 N響機関誌『フィルハーモニー』編集委員となる(~1970年まで)。
NHKラジオ放送「婦人の時間」などで民族音楽の解説を始め、世界の民族音楽に関心をもつようになる。
一人娘抄子誕生。
1953年
(昭和28年)
26歳 平凡社嘱託となり『音楽事典』の編集に携わり、比較音楽学の先行研究を学ぶ。
1954年
(昭和29年)
27歳 平凡社社員(編集部勤務)となる。
文化放送で「世界の民謡」を週1回放送(~1956年)。
『フィルハーモニー』に「日本伝統音楽研究に関する方法論と基礎的諸問題」を発表し始める。
東洋音楽学会例会でインドのベンガル民謡等を聴く。
1956年
(昭和31年)
29歳 2月、音楽公演「世界の民謡」(新音楽運動協会主催)の企画、司会を行う。
3月、東京大学大学院5年課程修了。提出論文「日本伝統音楽の研究に開する方法論と基礎的諸問題」(後の『日本伝統音楽の研究1』になる)。
5月、インド政府給費留学生試験に合格。
1957年
(昭和32年)
30歳 6月、香港、ビルマ等を経由してインドに向かう。
7月、マドラスの州立カルナータカ中央音楽院に入学。南インドの古典音楽と民俗音楽の調査を行なう。
1958年
(昭和33年)
31歳 2月、北インド、ラクナウのウッタル・プラデーシュ州立バートカンデー・ヒンドゥスターニー音楽院に入学。
『日本伝統音楽の研究1』(音楽之友社)刊行。
年末に帰国。
1959年
(昭和34年)
32歳 平凡社『アジア歴史事典』編集部に勤務。
東洋音楽学会例会などでインド音楽を講ずる。NETテレビ「世界の音楽」(~1961年)等の企画に携わり、テレピ出演も始める。
9月、東京芸術大学音楽学部非常勤講師となり東洋音楽史特殊講義を担当。
1960年
(昭和35年)
33歳 3月、平凡社退職。
4月、東京芸術大学音楽学部専任講師となる。
桐朋学園大学非常勤講師。
1961年
(昭和36年)
34歳 4月、イランのテヘランで開催された国際民俗音楽協議会(IFMC)の会議に出席、ペルシア音楽に触れる。
芸大の楽理科専攻科の演習で東京のわらべうたの調査を行なう。
1962年
(昭和37年)
35歳 5月より「日本のリズム」を「音楽芸術」誌に連載(没後、この論文を中心として『日本伝統音楽の研究2』がまとめられる)。
NHK‐FM実験放送で「世界の民俗音楽」が放送されるようになる。
日本音楽舞踊会議発起人となる。
1963年
(昭和38年)
36歳 4~5月、「芸大民俗音楽ゼミナール」を結成し、沖縄本島、宮古諸島、八重山諸島の音楽調査を行なう。
7月、東洋音楽学会メンバーとして、九学会連合による「下北半島総合調査」に参加。
1964年
(昭和39年)
37歳 1月、エジプトで開催された「第1回カイロ国際民俗芸能祭」に参加。
引き続き4月まで、エジプトの研究者と一緒にナイル河上流の民俗音楽調査。コプト教典礼音楽の古式を発見。その成果はレコード集『ナイルの歌』(日本ビクタ一)として翌々年刊行され、芸術祭奨励賞を受賞。
引き続き、西アジア(トルコ、イラク、イラン)、南欧(スペイン)、東欧(ブルガリア、ハンガリー)の音楽調査を行なう。
10月に帰国。
1965年
(昭和40年)
38歳 4月11日~,NHK-FM放送「世界の民俗音楽」が週1回放送される。これは1972年に「世界の民族音楽」と改題され1983年5月まで続く。
レコード集『世界の民族音楽 第1集 民族音楽の解明』(プリンスレコード)を作成。
東洋音楽学会大会にて「下北半鳥の音楽調査」研究発表。
1966年
(昭和41年)
39歳 4月、東京芸術大学助教授となる。
8月、東洋音楽学会の北海道・渡島半島民俗音楽調査に参加。
(~1968年9月)東京学芸大学非常勤講師。
お茶の水女子大学文教育学部,早稲田大学国際部非常勤講師。
1967年
(昭和42年)
40歳 3月、芸大民俗音楽ゼミナールを率いて中野区、新宿区のわらべうた集中調査。
4月(~1975年)、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員。
九学会連合「利根川流域総合調査」に参加。
7月、ハワイ、中南米の音楽調査。
7月(~1983年)、国立劇場専門委員。
8月、ミシガン大学の国際会議出席。
8~9月、カナダのエスキモー音楽調査。
9月~(1968年1月)、米国コネティカット州ウェスリアン大学にて、客員準教授として日本音楽の講義。
12月、モホーク・インディアンの調査。
1968年
(昭和43年)
41歳 1月、アラスカのエスキモー音楽調査。
2月、帰国。
歌謡曲の音楽分析を始める。
5月、日本ユネスコ国内委員会の日本文化研究会議準備委員会委員。
芸大民俗音楽ゼミナールを率いて岐阜県郡上八幡盆踊り調査。
8月、東洋音楽学会による土佐民俗音楽調査に参加。
1969年
(昭和44年)
42歳 3月、小泉文夫・栗山明憲編「新義真言声明集成 楽譜篇第1巻」(新義真言声明集成刊行会)刊行。
8月、東洋音楽学会の鹿児島県薩摩半島民俗音楽調査に参加。
9月、小泉文夫編『わらべうたの研究(楽譜編・研究編)』刊行。
芸大紛争が起こり、学生と教官の間に立とうと努力する。
お茶の水女子大学文教育学部、早稲田大学国際部非常勤講師。
1970年
(昭和45年)
43歳 日本万国博覧会協会の委嘱により、「アフリカのまつり」(6月)、「アジアのまつり」(8月)の制作、演出を行なう。
8月、東洋音楽学会による岐阜県の飛騨高山民俗音楽調査に参加。
秋、外務省の委嘱によりフィルム〈lnvitation to Japanese Music〉(サクラ映画社)の製作。
2月、愛媛大学教育学部集中講義。
4月(~1975年)、北梅道大学教育学部非常勤講師。
10月(~1973年、1976年~77年)、島根大学教育学部非常勤講師。
1971年
(昭和46年)
44歳 1月、アフリカ諸国(エチオピア、ケニア、タンザニア、ナイジェリア、セネガル)の音楽調査。
2~5月、米国ウェスリアン大学で客員教授として日本音楽の講義。コネティカット州トゥルーヴァイン黒人教会の礼拝を録音。
6月、地中海沿岸地域(ポルトガル、モロッコ、チュニジア、イタリア、)の音楽調査。
7月、インドの少数民族トダ、スリランカのヴェッダの音楽調査。
7~9月、東南アジア諸国(ビルマ、タイ、ベトナム、インドネシア、フィリピン)の音楽調査。インドネシアでは、中央ジャワのガムラン(スレンドロ)セットを員う。また、後に(1973年)芸大で購入することになった中央ジャワの王宮のガムランを見る。
11月、私宅でガムラン・スタデイ・グルーブを結成。以後1974年頃まで,毎週水曜日の夜に定期的に練習を続ける。
1972年
(昭和47年)
45歳 5月、下中財団の依頼により、ドイツのエンサイクロペディア・シネマトグラフィカのために舞楽の映画を5本製作。
7月、韓国の音楽調査。この録音調査は翌年、ビクターレコードより『アリランの歌』(SJL-25~26)として出版された。
8月、インドネシアの音楽調査。この時の調査研究の様子は日本のテレビで放映される。以後、民放のテレビ番組とタイアップしての調査旅行や取材が行なわれるようになる。
8~9月、フィジー島、ヤップ島の音楽調査。
8月、ラビ・シャンカル著/小泉文夫訳『わが人生・わが音楽』(音楽之友社)を出版。
12月、研究論文「音階と旋法」(『吉川英史先生還暦記念論文集』)を発表。
1973年
(昭和48年)
46歳 1月、ハトの会の演奏会でバリ島のケチャ初公演。解説および浄めの役で出演。
7~8月、台湾の音楽調査。
9月、バルカン半島の音楽調査。
10~11月、アジア・ユネスコ文化センター(ACCU)主催のフィリピンでの国際セミナーに出席。
12月~翌年1月、芸大民俗音楽ゼミナールを率いて10年ぶりに沖縄、宮古諸島の音楽調査。この時の調査から後に沖縄民謡採譜集I(国頭編)、II(宮古編)の資料集を作成。
『おたまじゃくし無用論』(いんなあとりっぷ社)刊行(80年に青土社より追補再版)。
東京大学文学部非常勤講師。
1974年
(昭和49年)
47歳 3月、インド、アフガニスタンの音楽調査。
4月、東京芸術大学音楽学部教授となる。
7月(~1983年)、文化財保護審議会臨時専門委員(第4,第5専門調査会)。
9月、マレーシアの音楽調査。ユネスコのオーストリアでの国際会議に出席。
12月~翌年1月、芸大民俗音楽ゼミナールを率いて沖縄県八重山諸島の音楽調査。この時の調査から後に沖縄民謡採譜集III(八重山編)の資料集を作成。
東京外語大学アジア・アフリカ研究所の共同研究員。
1975年
(昭和50年)
48歳 2月、ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)主催「音楽教材専門家国際会議」に出席、その中心となって82年までアジアの子どもたちのための教材作りに関わる。
2月(~1983年)、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所運営委員会委員。
4月(~1983年)、東京大学文学部非常勤講師。
11月、イラクの音楽調査。ラオスで調査。
1976年
(昭和51年)
49歳 3~4月、第1回「アジア伝統芸能の交流」プロジェクト(国際交流基金)を監修者として推進、参加。このセミナーの成果として、翌年に報告書「Asian Musics in an Asian Perspective」(Japan Foundation)、ビクターよりレコード集『日本音楽の源流を訪ねて』、映画『竹の響き』その他数本の記録フィルム(ミツプロ)が作成された。
4月、日中文化交流協会による日本音楽家代表団の一員として中国訪問。
1977年
(昭和52年)
50歳 4月、歌謡曲を巡るシンポジウム「今日の大衆と音楽」(渡辺文化フォーラム)の企画に携わる(82年まで)。
4~5月、イラン、イラク、トルコの音楽調査(「日本民謡まつり」〈文化庁〉の事前調査)。
7~8月、第1次民音シルクロード音楽舞踊調査団団長としてモンゴル、ソ連、アフガニスタン、パキスタン、ネパール、インド等の調査。
9月、「日本民謡まつり」でアジアの音楽の企画・解説。
12月、『日本の音』(青土社)刊行。
12月~翌年1月、イラン、インド、ネパール、ビルマの音楽調査(第2回「アジア伝統芸能の交流」の事前調査)。
1978年
(昭和53年)
51歳 3~4月、韓国の音楽調査(「日本民謡まつり」の事前調査)。
4~5月、モンゴル音楽調査(「アジア伝統芸能の交流」事前調査)。
4月~9月、NHK教育テレビで月1回テレビ・コラムに出演。
5月、インドのシタール奏者ラビ・シャンカルと日本の音楽家との共演によるレコード『アジアの出逢い』を企画・製作。『エスキモーの歌』(青土社)刊行。
6月、国立劇場公演「日本音楽の流れ 唱歌」の企画・解説(以降82年までこのシリーズを担当)。
7月、皇太子夫妻に「東欧の民族音楽」進講。
7~8月、芸大民俗音楽ゼミナールを率いて沖縄県八重山諸島の音楽調査。
9月、「日本民謡まつり」でアジアの参加国(トルコと韓国)の歌の解説に出演。『空想音楽大学』(青土社)刊行。
9月~、ユネスコ東アジア文化研究センターによる日本の芸術文化をさぐる専門委員会の座長。
11月、「中東音楽の三極」(『中東ハンドプック』講談社)。
11~12月、第2回「アジア伝統芸能の交流」を監修者として推進、参加。このセミナーの記録として,後に報告書『Musical Voices of Asia.1978』(Japan Foundation)、レコード集『アジアの歌』(ビクター)、映画『アジアの歌』(ミツプロ)などが製作された。
NHK国際局審議会委員。
1979年
(昭和54年)
52歳 2月、インド音楽調査(民音コンサートの事前調査)。
3月、『民族音楽研究ノート』(青土社)刊行。
4月、スリランカ、インドネシア音楽調査(「日本民謡まつり」の事前調査〉。
7月、民音「シルクロード音楽の旅 遥かなる歌の道」全国公演の企画・解説・司会。
8月、インドネシアのバリ島音楽調査。
10月、国立劇場公演「日本音楽の流れ リズム」の監修・解説。
12月、マドラスにて南インドの舞踊バーラタ・ナーティヤムを取材。テレビ番組「音楽の旅はるか」で放映。日本レコード大賞審査員。
琉球大学教育学部非常勤講師(集中)。
1980年
(昭和55年)
53歳 NHKより『日本民謡大観(沖縄・奄美篇)』参画の依頼。
2月、南米(ペルー、ボリビア、アルゼンチン)の音楽調査。この時の様子は,テレビ番組「もうひとつの旅」で放映。
3~4月、マレーシア、パキスタン、インド音楽調査(「日本民謡まつり」の事前調査)。
5月、ソ連の民俗音楽調査(ソ連対外友好文化交流団体連合会、ソ日協会の招待)。
7~8月、第2次民音シルクロード音楽舞踊考察団団長として、中国、パキスタンの民俗音楽調査。
9月、民音シルクロード音楽会「トルコ民謡と黛ジュン 遠き旅人たちの歌とロマン」公演の企画・解説。
10月「中国少数民族文芸会演会」見学のため訪中。
11月、サントリー学芸賞(芸術・文化部門)受賞。
1981年
(昭和56年)
54歳 2月、ルーマニアの音楽調査。これはテレビ番組「もうひとつの旅」で放映。
3月、キング・レコードより『民族音楽大集成』(50枚組みレコードと解説書)を出す。これは、それまでのフィールド・ワークの主な録音を含む。
4月、国立民族学博物館共同研究員。
6月、第3回「アジア伝統芸能の交流」セミナーに出席。のちに、報告書『Dance and Music in South Asian Drama』(Japan Foundation,1983)、レコード集など監修。
7~8月、民音「シルクロード音楽の旅 楽人たちの道」企画・解説・司会。
8月、ブルガリア音楽調査。テレビ番組「音楽の旅はるか」で放映。
9月、芸大民族音楽ゼミナールを率いて鹿児島県奄美大島の民俗音楽調査。
10月、国立劇場公演「日本音楽の流れ 笛の音楽(管楽器のいろいろ)」の監修・解説。
12月~翌年1月、インド、ネパール音楽調査。テレビ番組「音楽の旅はるか」で放映。
1982年
(昭和57年)
55歳 4月、モンゴルの音楽調査(「日本民謡まつり」の事前調査)。
4月(~1983年)、国立劇場専門委員。
6月、(財)国際科学博覧会協会催事懇談会委員。
7月初旬,トルコの音楽調査。テレビ番組「音楽の旅はるか」で放映。文化庁文化財保護審議会委員。
7~8月、第3次民音シルクロード音楽舞踊考察団団長としてトルコ、インド、中国の音楽調査。
10月、国立劇場公演「日本音楽の流れ 打楽器」の監修・解説。
12月~翌年1月、芸大民族音楽ゼミナールを率いて鹿児島県奄美諸島音楽調査。
文化庁芸術祭執行委員。
1983年
(昭和58年)
56歳 2月、キプロス、ギリシアの音楽調査。テレピ番組「音楽の旅はるか」で放映。
3月、NHK教育テレビのジュニア大百科「これが日本音楽のルーツだ」(5回シリーズ)に出演。
3~4月、ビルマの音楽調査(「日本民謡まつり」の事前調査〉。
5月、『呼吸する民族音楽』(青土社)刊行。このころ体調すぐれず,夜中に激痛に悩まされる。
6月4日~5日、沖縄県那覇市で「沖縄シンポジウム」(沖縄タイムス)に出席。
6月6日、東京大学医学部附属病院分院にて検査。
6月15日、同入院。
7月18日、東京慈恵会医科大学病院にて膵臓癌摘出手術。
8月20日午前8時34分、肝不全のため死去。

8月31日、東京千日谷会堂にて告別式。戒名、浄笛院摂授日文居士。勲三等瑞宝章授与。
NHK‐FM放送「世界の民族音楽」、テレピ朝日「題名のない音楽会」などで追悼番組放送。

10月20日、研究資料すべて東京芸術大学音楽学部に寄贈。
1985年
(昭和60年)
6月、東京芸術大学音楽学部に小泉文夫記念資科室が開室される。小泉三枝子夫人より寄贈の600を超える楽器を始め、書籍、レコード、採集テープ、写真その他膨大な資科が収められ、保存、整理、研究がなされている。
7~8月、「小泉文夫と世界の民族音楽展」(西武アートフォーラム)、レクチヤーコンサート(スタジオ200)開催。
1990年
(平成2年)
4月、第1回小泉文夫音楽賞の授与。小泉三枝子夫人が寄付した小泉文夫記念民族音楽基金を基に、運営委員によって毎年、民族音楽学の分野で優れた研究、活動をした個人または団体が選ばれ、その業績が顕彰される。初代運営委員長柴田南雄、現運営委員長海老澤敏。
1994年
(平成6年)
10月、小泉文夫記念音楽会「アジアの響き」が、小泉文夫記念音楽会実行委員会(委員長柘植元一)によって、ゆうぽうと簡易保険ホールにて開催される。
〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8 東京藝術大学未来創造継承センター 小泉文夫記念資料室