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「東京藝術大学カレンダー・2014 所蔵名品絵画 近代編」販売のご案内

2013年10月07日 | 全て, 大学全般

「東京藝術大学 所蔵品カレンダー 所蔵名品絵画 近代編」を以下のとおり、藝大アートプラザで販売しております。
  本学の所蔵する貴重な絵画を源泉してご紹介していますので、この藝大オリジナルのカレンダーをぜひ手にとってお確かめください。

A COLLECTION OF PICUTURE INSTRUMENTS 所蔵名品絵画 近代編

東京藝術大学大学美術館の所蔵品のなかでも、近代の絵画は名品を数多く揃えている。前身である東京美術学校の卒業生や教員たちの代表作を収蔵できたことがその背景となっているが、直接本学とは関係しない作家の名品も収蔵されている。また、それらは大規模な展覧会に出品された作品もあれば、卒業制作やデッサンの類までバラエティに富んでいる。ここに採録した作品は、文化勲章を受章した作家たちの名品を選りすぐったものである。(古田亮)

仕様 壁掛け型、縦73cm × 横51.5cm、8枚(表紙、作品解説を含む
価格 1,500円(税込)
頒布時期 制作部数終了時まで
販売場所 藝大アートプラザ(上野キャンパス)
  >> 藝大アートプラザ
問い合わせ 藝大アートプラザ TEL:050-5525-2102

◆月別絵柄一覧

【表紙】安井曾太郎《裸婦》1907年~10年

【表紙】 安井曾太郎《裸婦》1907年~10年

 安井曾太郎(1888-1955)は、京都の木綿問屋に五男として生まれた。明治37年(1904)、16歳の時に浅井忠の聖護院洋画研究所(後に関西美術院に統合)に入門、その二年後にはパリに留学してアカデミー・ジュリアンに入学する。「絵画で第一に大切なことはデッサンです」と後年語ったとおり、画業の修練として常にデッサンを重視し、熱心に学んだ。本作はパリに留学中に描かれたもので、本学には同時期の裸体デッサンがほかに14点収蔵されている。教室でポーズをとるモデルと、モデルの姿を写す学生の姿が、的確な明暗の表現によって象られ、後に肖像画に多くの佳品を残すことになる安井の、基礎的な技術力の高さを示す作例となっている。(岡本明子)

 

【1・2月】 小林古径≪不動≫1940年

【1・2月】 小林古径≪不動≫1940年

 小林古径(1883-1957)は現在の新潟県上越市に生まれ、上京して梶田半古に師事し、その後岡倉天心に注目された。安田靫彦らが結成した紅児会に速水御舟、前田青邨らとともに参加、また大正3年(1914)から始まる再興日本美術院展で活躍し、大正から昭和初期にかけての日本美術院を牽引した。昭和19年(1944)から8年間、東京美術学校及びその後身となる東京藝術大学で教授を務め、同25年には文化勲章を受章している。本作は東京美術学校で教鞭をとる以前の作で、五大明王の一つである不動明王が描かれている。目を見開き、剣を垂直に握りしめて座す不動は余分な線を排除した輪郭線のみで表され、複雑に展開する炎を背に一層際立つ。紀元二千六百年奉祝展に出品された意欲作。(下東佳那)

 

【3・4月】 横山大観≪四季の雨≫1897年

【3・4月】 横山大観≪四季の雨≫1897年

 横山大観(1868-1958)は水戸に生まれ、明治22年(1889)に東京美術学校の第一期生として入学、岡倉天心や橋本雅邦らの指導を受けた。同29年には東京美術学校図案科助教授の職に就いたが、二年後には天心に従って辞職し、日本美術院の創設に参加している。日本画の新たな発展のため、明治30年代には線描を画面から排除するいわゆる朦朧体を菱田春草と共に試みた。本作は竹藪に降り注ぐ雨を四季折々の様相で描いた四幅対の内、夏の図である。雨に活力を得た筍が勢いよく生え、この季節特有の湿潤な気候が色彩のぼかしで表現されている。大観は昭和12年(1937)に第一回の文化勲章を受章し、戦後も画壇の中心的な存在として活動した。(下東佳那)

 

【5・6月】 和田英作《渡頭の夕暮》(学生制作品1180) 1897年

【5・6月】 和田英作《渡頭の夕暮》(学生制作品1180) 1897年

 和田英作(1874-1959)は、東京美術学校西洋画科の開設時に助教授として迎えられたが、のちに辞し、敢えて学生として同科に編入した。本作は明治30年(1897)に卒業制作として提出されたものであり、和田は同科最初の卒業生となった。矢口の渡しの一景を描いたこの画は、対岸に小さく配された渡し船を見つめる農民の姿を群像として描き出している。黒田清輝は歴史画に見られる群像描写の分析を西洋画科の教育の一環として行っており、本作はその影響を受けている。一方で、歴史などの抽象的な概念ではなく、郊外農村に見られる風俗の描出に、よりいっそうの関心が置かれているといえるだろう。(亀海史明)

 

【7・8月】 藤島武二《池畔納涼》1898年

【7・8月】 藤島武二《池畔納涼》1898年

 夏の夕暮れ時池の畔で語らう2人の若い着物姿の女性。本作は藤島武二(1867-1943)が白馬会第3回展に出品した作品である。藤島は初め日本画を学ぶが、その後当初から志望していた洋画に転向する。明治29年(1896)に黒田清輝を中心に結成された白馬会に参加、また同年藤島の才能を見込んだ黒田により東京美術学校新設の西洋画科助教授に推挙され、就任した。この時期に藤島は黒田の明るい外光画風に多大な影響を受ける。白馬会第2回展には複数の人物を描いた大下絵を出品したが、構図の悪さを指摘した当時の厳しい評価のためか、この完成作では女性2人に焦点を絞った構図に変更した。薫陶を受けた黒田の影響が画面構成や明るい色彩の画風に色濃く反映されている。(松下倫子)

 

【9・10月】 川合玉堂≪雑木山≫1913年

【9・10月】 川合玉堂≪雑木山≫1913年

 川合玉堂(1873-1957)は現在の愛知県木曽川町に生まれ、岐阜県岐阜市に育った。明治20年(1887)、13歳の時に京都の望月玉泉に入門、同23年には早くも第三回内国勧業博覧会で入選している。同年幸野楳嶺門に移り、円山四条派を学んだ。明治29年、東京に移って橋本雅邦に入門、この頃から、晩年を過ごすことになる奥多摩の風景を描き始めている。本作は大正2年(1913)の第七回文展に出品された作品で、秋の山の木々と、山道をゆく人物を描く。近景から遠景に向かうにつれ樹幹を表す線は徐々に柔らかさを増し、葉を表す点は細かく淡くなっていく。画面中央向かってやや左に描かれた馬を引く人物は、柔らかい線と淡彩で構成される画面を引き締め、秋の寂寥感すら感じさせる効果的な点景描写となっている。(岡本明子)

【11・12月】 岡田三郎助《ムードンの夕暮》1899年

【11・12月】 岡田三郎助《ムードンの夕暮》1899年

 岡田三郎助(1869-1939)は、優美かつ色鮮やかな画風で文展や帝展など画壇の中心的存在として活躍する一方、教育者として東京美術学校や本郷洋画研究所で後進の指導にあたり、優れた洋画家を多数育成した。明治30年(1897)、岡田は初の文部省外国留学生として渡仏し、画家ラファエル・コランの元で学ぶ。本作はそのフランス留学時代に制作された作品である。薄紫色の夕闇の中、2人の人物が木々の間の道を行く光景が丹念な筆触で描かれ、日没前の微妙な色彩の変化を捉えている。ここに描かれたムードンは音楽家リヒャルト・ワーグナーや彫刻家オーギュスト・ロダンが住んだパリ南西部にある郊外の町で、岡田はこの地の森を好んでよく描いた。(松下倫子)