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音楽 東京芸術大学音楽学部1998年
新しい奏楽堂の完成

『東京音楽学校一覧 明治32年至明治33年』に掲載された「敷地建物図」

2代目奏楽堂の竣工記念式典におけるテープカットのシーン
(三笠宮殿下、妃殿下をお迎えして)

開館記念演奏会のプログラム。表紙デザイン&キャッチコピー:日比野克彦
 一九九八(平成十)年四月二十三日、「奏楽堂竣工記念式典」が行われた。これは二代目の奏楽堂である。

 一八九〇(明治二十三)年、東京音楽学校の新校舎に講堂として付設されたのが、初代の奏楽堂であった。校舎全体を、ふたつの翼を目一杯に広げた鳥にたとえるならば、初代奏楽堂はその頭部と胸のあたりに相当しようが、当時、ここは日本で唯一のコンサートホールとして、わが国の洋楽草創期の華麗な中心的舞台となった。寺田寅彦に誘われてここにしばしば足を運んだ夏目漱石も、その感想を小説『野分』の作中人物の一人に、「楽堂の入口を這入ると、霞に酔ふた人の様にぼうつとした。空を隠す茂みのなかを通り抜けて頂に攀じ登った時、思いも寄らぬ、眼の下に百里の眺めが展開する時の感じは是である」と、いささか誇張気味に語らせている。

 一八九九年に作成された「東京音楽学校敷地建物図」を見ると、二階建ての両翼に教室、練習室が櫛比しているなか、一階に「男教員和室」、二階に「女教員室」とそれぞれ分かれていて、その頃のモラルの反映として興味深い。東京音楽学校は当時日本で唯一の男女共学の学校であったが、男子学生と女子学生がみだりに話をすることは禁じられていた。そうした倫理観が教員室を別々にすることにも表れていたのである。奏楽堂は二階部分にあって、その奏楽堂を挟んで校長室と「女教員室」があった。

 一九七二(昭和四十七)年になると、老朽化が激しくなった奏楽堂を巡って、これを明治村へ移築して、新しい奏楽堂を建てる計画が具体化した。ところが、明治村への移築が決定して、実際に作業に入ろうとしていた矢先の一九七九(昭和五十四)年十月、日本建築学会と音楽家のグループがその移築案に猛烈な勢いで反対した。彼らは奏楽堂の現地保存の要望書を文部省と東京芸術大学学長に提出したのである。こうして新奏楽堂の建設計画はストップせざるを得なくなり、初代の奏楽堂をどこに移築するかという問題で、その後幾年もの間、激しい議論が交わされることになった。結局、台東区に移管され、上野公園内で一九八七年三月、初代奏楽堂は修復と移築を完了。こうして新しい命を得たのは大いに慶賀すべきことであった。

 とはいえ、一度頓挫した新しい奏楽堂の建築計画はその後二十年近くも中断され、夢は夢で終わるかに見えた。ところが二十一世紀を目前にした一九九八年、大学の悲願は実った。二代目の奏楽堂が初代のあった場所に落成したのである。「奏楽堂竣工記念式典」に続いて、四月二十八日から六月六日まで全十一回にわたって、開館を祝う特別コンサートが盛大に行われた。当時の文部大臣の町村信孝はプログラムに寄せた祝辞のなかで、「日本における西洋音楽の歴史は東京音楽学校の奏楽堂から始まった」と言えるが、「新しい奏楽堂は二十一世紀に向けて新たなる芸術文化の創造と発信拠点」となるだろう、と述べている。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


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