舞囃子[まいばやし]「融[とおる]



    ◆あらすじ
    [たび]の僧[そう]が、京都[きょうと] 六条河原[ろくじょうがわら]の荒[あ]れ果[は]てた所[ところ]を歩[ある]いていたら、汐汲[しおく]みのお爺[じい]さんと出会[であ]いました。
    [そう]は「こんな町[まち]の中[なか]で不思議[ふしぎ]だな…」と思[おも]い、お爺[じい]さんに声[こえ]を掛[か]けます。すると、「ここは昔[むかし]、源融[みなもととおる]という身分[みぶん]の高[たか]い人[ひと]が住[す]んでいた場所[ばしょ]です。お家[うち]は立派[りっぱ]で大[おお]きく、お庭[にわ]は「陸奥[むつ]の塩竃[しおがま]」とそっくりにするため、毎日[まいにち]海水[かいすい]を運[はこ]んで塩[しお]を焼[や]いていました。」と、話してくれました。
     お爺[じい]さんから融[とおる]の話[はなし]を沢山[たくさん][き]いた僧[そう]は、在[あ]りし日[ひ]の融[とおる]を思[おも]い弔[とむら]います。
     すると、美[うつく]しい姿[すがた]の融[とおる]が僧[そう]の前[まえ]に現[あらわ]れます。
    [とおる]は、豪華[ごうか]で優雅[ゆうが]だった様子[ようす]を僧[そう]に見[み]せますが、夜[よ]が明[あ]けると融[とおる]の姿[すがた]はみえなくなってしまいました。 

    * このサイトでは、融[とおる]が昔[むかし]の栄華[えいが]を思[おも]い起[おこ]す場面[ばめん]をご覧[らん]いただきます。
    * 源融[みなもととおる](822~895)第[だい]52代[だい] 嵯峨天皇[さがてんのう]の十二皇子[じゅうにおうじ]
      住居[じゅうきょ]が六条河原[ろくじょうがわら]にあったことから、百人一首[ひゅくにんいっしゅ]では、河原左大臣[かわらのさだいじん]の名[な]で登場[とうじょう]
     『源氏物語[げんじものがたり]』の主人公[しゅじんこう]・光源氏[ひかるげんじ]のモデルの一人[ひとり]とも言[い]われています。
    * 『伊勢物語[いせものがたり]』81段[だん]「塩竈[しおがま]」にも融[とおる]の栄華[えいが]が記[しる]されています。

◆謡[うたい]のことば
シテ[して] 千重[ちえ]ふるや。雪[ゆき]を廻[めぐ]らす雲[くも]の袖[そで]
地謡[じうたい] さすやかつらの枝々[えだえだ]
シテ[して][ひかり]を花[はな]と。ちらすよそほひ[い]
地謡[じうたい] ここにも名[な]に立[た]つ白河[しらかわ]の浪[なみ]の。あら面白[おもしろ]や曲水[きょくすい]の盃[さかづき]
うけたりうけたり遊[いう][ぶ]の袖(早舞)
あら面白の遊楽[いうがく]や。
そも明月[めいげつ]の其中に。まだ初[はつ][づき]の宵[よい][よい]に。
[かげ]も姿[すがた]もすくなきは  いかなる謂[いわれ]なるらん
シテ[して] それは西[さい][しう]に。入[いり][ひ]の未[いま]だ近[ちか]ければ。其[その][かげ]にかくさるゝ。
たとへ[え]ば月[つき]のある夜[よる]は星[ほし]の薄[うす]きが如[ごと]くなり
地謡[じうたい][せい][よう]の春[はる]の始[はじ]めには
シテ[して][かす]む夕[いう]べの遠[とお][やま]
地謡[じうたい][まゆずみ]の色に三[み][か][づき]
シテ[して][かげ]を舟[ふね]にも譬[たと][え]たり
地謡[じうたい][また]水中[すいちう]の遊魚[いうぎょ]
シテ[して] 釣針[つりばり]と疑ひ[い]
地謡[じうたい] 雲上[うんしょお]の飛[ひ][ちょう]
シテ[して][ゆみ]の影[かげ]とも驚[おどろ]
地謡[じうたい] 一輪[いちりん]も降[くだ]らず
シテ[して] 萬水[ばんすい]も上[のぼ]らず
地謡[じうたい][とり]は池辺[ちへん]の樹[き]に宿[しゅく]
シテ[して][うお]は。月下[げえか]の波[なみ]に臥[ふ]
地謡[じうたい][き]くともあかじ秋[あき]の夜[よ]
シテ[して][とり]も鳴[な]
地謡[じうたい][かね]も聞[き]えて
シテ[して][つき]もはや
地謡[じうたい][かげ]かたむきて明方[あけがた]の。雲[くも]となり雨[あめ]となる
[この]光陰[こういん]に誘[さそ][わ]れて。月[つき]の都[みやこ]に入[い]り給[たも][う][よそお][い]
あら名残[なごり]をしの面影[おもかげ]や名残[なごり]をしのおもかげ