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イベント

Ⅲ.公開講座

公開講座「今日のミュージック・メイキング」――菅野美絵子先生を迎えて

中田 朱美

2011年度末、音楽研究科リサーチセンターでは、研究と演奏実践をつなぐ活動を国際的に展開している菅野美絵子先生(ヴァイオリニスト、ダラム大学Durham University 准教授)をお招きし、公開講座をおこなった。

公開講座

日時:
2012年2月16日(木) 13:30~16:00
場所:
東京藝術大学音楽学部 H412室
講演者:
菅野美絵子

菅野美絵子

◎菅野美絵子 Mieko KANNO

イギリスのダラム大学音楽学部准教授。ヴァイオリニスト。ヨーク大学でヴァイオリン専攻の修士号・博士号取得。19才の時にギルドホール音楽演劇学校のYfrah Neaman に招かれて渡英。1994年ダルムシュタット夏季現代音楽講習会でKranichsteiner Musicpreis を受賞。以後、ヨーロッパの数多くの作曲家の委嘱や初演を手がけ、現代音楽のエキスパートとしての地位を確立する。

2008~2010年にはオルフェウス・インスティテュートに研究員として所属。現代音楽を専門とし、演奏と音楽研究を結びつけた活動を展開している。特にジョン・ケージの《Freeman Etudes》、電子楽器を用いた音楽に関する論考が多い。論文:‘Input Gesture,Output Sound: Violin and Electronics’, special issue ‘Dynamics of Constraints’. The Collected Writings of the Orpheus Institute (2009) 19-31.; ‘Prescriptive Notation: Limits and Challenges’. Contemporary Music Review 26(2) (2007) 231-254. ほか。

当日のレクチャーでは、電子ヴァイオリンの実演つきで、演奏実践と研究との関わりを考える上で避けて通ることのできない「音楽作品」「音楽行為」に関する哲学的な問いに始まり、最先端のテクノロジーを応用した現代音楽の可能性や意義について、親しみやすい口調でお話いただいた。以下はその概要である。

§1.音楽研究の対象

この20年位の間に、音楽学ではNicholas Cookの“Music as Performance”(1994)を始め、楽譜に留まらず、研究対象として演奏や映像も扱うようになってきた。さらにMartin Clayton は「音楽学は譜面だけではなく、音だけでもなく、人間の音楽体験を勉強するものだ」と言い、さらに広い研究領域を指摘している。

1970年代から1990年代初頭にかけて、真正性authenticity、Werktreueつまり楽譜への忠実さという用語がよく語られてきた。しかし楽譜や歴史書、作曲家の伝記から知ることができることにも限界があり、やはり私たちの想像力が大切になってくる。こうした状況に対して、たとえばAlfred Brendel は、自分がやっている仕事はWerktreue ではなくText-treueで、テキストの中から読める所だけを読み、それ以上は自分の創造性であるというスタンスを取っている。

またPeter Kivy 曰く、私たち演奏家・聴衆は、自分たちが「きっと作曲家はこういうふうに考えたのだろう」と思っていることを、作曲家が考えたものとして見なす、いわば幻想を持って生きているという。作曲家の意図として考えることによって、私たちの心が慰められるのだという。ポピュラー音楽を専門とする音楽学者のStan Godlovitch は、「作曲家がどんなにたくさん指示記号を譜面に認めても、作品というものはいつも未決定で確立しない。ちゃんと表せないのが作曲の面白みである」と語っている。物語で例えれば、筋ではなく語り手の技術によって、話の面白みはいかようにも変わるのである。

解釈という概念も重要である。ストラヴィンスキーに始まり、20世紀中盤のシュトックハウゼン、ブーレーズといった作曲家たちが「解釈されること」を嫌ったのに対し、同時代のロジャー・セッションズは、「私の作品の独自性は、いろんな演奏を全部集めたところにある。だからどんな演奏でも私の作品とは言えない」と語る。彼の面白いところは、1つ2つの演奏ではなく、あらゆる可能性を演奏家の人たちが色々と模索したところの遭遇性に自分の作品を認めるといった考え方をしている点である。

そして次の問題として、やはり独自性の問題が出てくる。独自性の創作、つまり作曲が音楽作品となるためには、それぞれの作品に個性を植え付ける必要がある。音楽作品というのは、作曲によって構成要素が全部込められているが、演奏家や学者や聴衆が色々働きかけた末に、音楽作品というものは出来上がるのである。すなわち、作曲から音楽作品への移行は、そんなに自動的なものではない。現代音楽の場合はとくに大切な観念で、前例が少ない分、演奏・作品がどのようになるのかやはり実験してみないと分からないということになり、これがそのまま研究になるのである。

§2.演奏と研究

演奏における研究とは、自然科学や社会学にみられるように、実験としての思考錯誤の過程がそのまま研究になると言えるだろう。たとえば弦楽器の場合、過去に作られた奏法を現代の新しい楽器で試みるという行為は、実践と思考の連続である。すなわち演奏家の研究は、その一部が実験そのものとなる。さらにその際、思いがけない発見を導くのは、遊びの感覚、臨機応変な姿勢、面白い発想力である。そうした遊戯性の機能をうまく取り入れるのも、研究の一つの技術と言える。

§3.音楽行為と「作者」の意識改革

以前の音楽学では、音楽作品と演奏行為、作曲家と演奏家の間の境界線は当たり前のものとして捉えられてきた。しかしLydia GoehrがThe Imaginary Museum of Musical Works(1992)の中で指摘したように、作曲家が作品を創造し、演奏家がそれを楽譜から学んで演奏するという伝統は比較的新しく、せいぜいこの200年位のものである。それ以前には作曲家と演奏家の線引きはなく、モーツァルトでも演奏時に楽器を変えたり、編曲したりすることが頻繁にあった。現代音楽においてこの境界線はずっと柔らかくなる。作曲家が健在だと、柔軟になりやすいのである。この境界線はもはや動かない壁ではなく、作曲家、演奏家双方のコミュニケーションによって、壁の厚さ・薄さ・形・高さなどが簡単に変わりうるものとなる。創造性とは、作曲家の側にだけあるのではなく、みんなで持つもの、創るものといった意識が現代音楽にはある。この意識は、現代音楽だけではなく、過去の音楽にもあてはまるものであり、演奏家にとってはとても大切である。

このコミュニケーションによってミュージック・メイキングは成立する。ミュージック・メイキング、すなわち音楽行為には、ただ作曲して演奏するというだけではなく、もっと広い意味で「創る」「プロデュースする」「演出する」といった意味がある。作曲家が楽譜の専門家、演奏家が楽器の専門家という中で、いかに反対の側の物をうまく解釈できるか、作曲家なら楽器をいかに理解して潜在性を導き出すかといった反対の側へのアクセサビリティが、コラボレーションの成功を左右する鍵となる。そして音楽作品というのは、作曲行為でも作曲されたものでもなく、「共有された作者性」によって生まれるものであり、それを創った人たちは全員が作者となる。

§4.現代音楽を演奏する意義と可能性

クラシック音楽というと、過去の音楽が多いのは当然だが、どんなに古い音楽でも、その当時は現代音楽であったという意識が大切である。それぞれの時代の音楽は、当時の人々の「生きる」を反映し、それぞれの時代の挑戦を表わしているという意識である。現代音楽とは、そういった昔からの現代音楽の積み重ねの先端にあるもので、音楽を創る伝統が今日まで繋がってきたという意識でクラシック音楽を捉えると、現代音楽の必要性が浮かび上がってくる。

以上の概要は、内容の充実したレクチャーから、実技系博士課程のあり方を模索する上でより切実なテーマに焦点を絞ってまとめたものである。当日は続いて実演を交えながら、菅野先生の研究分野である、電子ヴァイオリンを用いて作曲家ないしライブ・コンピューターとコラボレーションする試みの目的や、音楽的な相互作用に関する問題意識についてお話いただいた。専門的な研究でありつつ、現代性、文化研究、人間工学といった幅広い学際的なテーマと呼応させながら演奏研究を行っている様子を魅力的に示していただいたレクチャーだった。

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