リサーチ活動

Ⅱ.各国報告

3.ロシア調査報告

中田 朱美

海外調査の一環として、2010~2011年度にロシア調査を行い、モスクワ音楽院、モスクワ大学芸術学部への訪問調査を行った1。以下は両報告をまとめ直したものである。

§1.教育システム

ロシアでは近年、教育システムが大きく見直されつつある。現在は、旧ソ連時代から続く教育システムから、ボローニャ・プロセスを受けて第三段階からなる新システムへの移行期にあたり、両システムが併存している状況である。

ロシアの大学高等教育は17歳から始まる。旧ソ連時代から続く教育システムでは、専門性や機関によって修了年数が異なり、音楽の場合は学部5年、大学院3年というところが多い。最初の5年で取得する学位は「マギストル magistr」(英master)、その後の3年での取得学位は「カンジダート・ナウク kandidat nauk」(英訳するとPh.D.、日本語では「博士号」や「準博士号」などと訳される)である。すなわち学士bachelor にあたる学位がない。当然のことながら、こうした状況はヨーロッパやアメリカの標準学位と対照する際、常に混乱を生じてきた。この上にはさらに3年以上からなる高等後教育の最高課程「ドクトラントゥーラ doktorantura」があり、ここで取得する学位が「ドクトルdoktor」である。日本の状況と対照すると、少なくとも数年前までは、「カンジダート・ナウク」を課程博士、「ドクトル」を論文博士に該当するものとして捉えることができたといえよう。

またロシアの教育システムの特徴として、6歳から任意で通わせる専門的な補充教育機関が充実している。音楽においても、学生は遅くとも中等教育の最後の2年間を音楽専門学校で学んでから、音楽専門の高等教育機関に入学する場合がほとんどである。

§2.ボローニャ・プロセスへの対応

ロシアは2003年にボローニャ・プロセスに加盟し、現在、国をあげて教育システムの改正を進めている。この動きを受けて、現在、音楽系大学ではすでに新システムに移行した機関と、従来のシステムを踏襲している機関の両方が併存している。しかしながら、2010年9月26~28日にサンクト・ペテルブルグ音楽院で開催された、第4回国際学会「ロシア、旧ソ連諸国、ヨーロッパにおける音楽高等教育の現代化とボローニャ・プロセス規則の実現」2で発表されたモスクワ音楽院Konstantin Zenkin教授の報告によると、2013年に向けて教育科学省とモスクワ音楽院が教育法改正の作業が進められている3。目下、国の方針と音楽院の従来の教育システムとの妥協点が模索されている状況といえよう。

§3.調査結果

今のところロシア国内において、演奏・作曲・指揮の専攻で三段階システムが取られている機関は見当たらない。従来、専門音楽家を育成する音楽院や、音楽教師を養成する音楽アカデミーにおいて、音楽実技専攻の学生が取得するのは学位ではなく、ディプロムであった。現在でも旧システムを踏襲するモスクワ音楽院などでは、入学して最初の5年の課程を修了した際に授与されるのが「専門家卒業資格 diplom spetsialista」、その後3年の大学院を経て授与されるのが「大学院修了資格 diplom aspiranta」である。音楽実技の学生が学位を取得するためには、さらに1年以上在籍し、論文を執筆することで「カンジダート・ナウク」が授与される。しかし現在の教育法では音楽実技を専攻とするカンジダート論文は認められておらず、たとえ内容的には演奏などの実践的な考察に傾いていたとしても、芸術学専攻の論文として音楽学的な方法論や体裁が求められる。

現在、モスクワにある音楽実技系大学院をもつ機関のうち、教育システムの点で対照的なのが、訪問調査を行ったモスクワ音楽院とモスクワ大学芸術学部である。モスクワ音楽院では国内最高水準の専門音楽家養成機関としての自負のもと、これまでの伝統で培われた個人教育、教授法を尊重し、ボローニャ・プロセスの提唱する学位授与プロセスに追随しないという姿勢が取られている。一方のモスクワ大学芸術学部音楽科では、大学全体がボローニャ・プロセスに協調しており、三段階システムが取られている。ただし音楽科は2003年に新設されたばかりということもあり、2011年12月に調査訪問した時点で、実技出身者で博士課程に入学した者はいなかった。

ロシア国内に比べ、旧ソ連圏の一部における教育改革の動きは活発である。たとえばエストニア音楽演劇アカデミーでは実技系博士課程(Ph.D.)を含む三段階システムが設置され、エラスムス・プロジェクトの下、EUを中心とする116の大学機関との提携を結んでいる。ロシア国内でこうした三段階システムが徹底されるまでには相当の時間がかかることが予想され、またどの程度徹底されるかについても未知数だが、今後、音楽高等教育機関も新システムに向かう流れにあることは間違いないと言えるだろう。

モスクワ大学芸術学部 Московский государственный университет имени М. В. Ломоносова, факультет искусств[http://www.arts.msu.ru/
4-2-3の三段階システム(カンジダート[芸術学])
モスクワ音楽院 Московская государственная консерватория имени П. И. Чайковского[http://www.mosconsv.ru/
5-3の従来システム(実技は+1年以上でカンジダート[芸術学])
エストニア音楽演劇アカデミー Eesti Muusika- ja Teatriakadeemia[http://www.ema.edu.ee/?lang=eng
3-2-4の三段階システム(Ph.D.[音楽学、演奏、演劇])
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  • 1:「モスクワ音楽院のボローニャ・プロセスへの対応:マルガリータ・カラトゥイギナ先生を訪ねて」、『東京藝術大学大学院音楽研究科リサーチセンター平成22年度活動報告』50~56頁、「モスクワ大学芸術学部の博士課程:モスクワ訪問調査」、『東京藝術大学大学院音 楽研究科リサーチセンター平成22年度活動報告』98~106頁。
  • 2:プログラム内容は右記ウェブサイトを参照。[http://www.conservatory.ru/conference
  • 3:講演の模様は右記ウェブサイトで公開されている。[www.mosconsv.ru/ru/video.aspx?id=125525