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音楽 東京音楽学校1901年秋
瀧廉太郎の留学

東京音楽学校編纂『中学唱歌』明治34年3月出版(東京芸術大学附属図書館所蔵)より表紙、《荒城の月》
 今から百年前の1901年(明治34年)10月1日、瀧廉太郎がライプツィヒ音楽院の入学試験に合格した。このニュースに、東京音楽学校関係者たちの喜びは並々ではなかった。我が国初めての男子留学生が、ヨーロッパの名門校にめでたく入学を許されたからである。ちょうど、女の子ばかり生まれて、ああ次は嫡子の男の子であって欲しい、と願っている家庭に、ついに待望の男子が誕生したようであった。

 島崎藤村も音楽畑のみ女性が目立って元気に活躍することに、ある種の奇異を感じていた1人である。当時、洋楽は「近代」の象徴ともみなされていたので、藤村は好奇心も手伝って、1897年秋から1年間、選科生として東京音楽学校に在籍し、ヴァイオリンやピアノなどを学んだ。有名な『若菜集』を出版したばかりで、新進の詩人として世の注目を浴びていた頃である。彼のピアノの先生には竹柏会の歌人として知られた25歳の助教授、橘糸重がいた。さらにこの時27歳の留学帰りの教授、幸田延が元気溌剌、いわばスター的に活躍していた。選科生の藤村は新聞の音楽批評において優雅な文章で、「西の國の文學も、繪畫も宗教も、哲學も、多くは皆な男子の手によりて傳へられたるに、ひとり音樂のみは女性によりて傳られたるは竒ならずや」と書いている。

 幸田露伴の妹、幸田延が留学するに至ったのには、御雇外国人教師ルードルフ・ディットリヒの意見が大きく作用していた。1888年、ウィーンからやってきた音楽家ディットリヒは高い識見をもっていて、文部大臣の森有礼や音楽学校関係者に対して、これからは外国人を招くだけでなく、優秀な日本人を本場へ留学させるべきだと進言した。これが容れられて、1889年春、幸田延は官費による初の音楽留学生として欧米に出発した。

 だが、彼女の6年半におよぶ不在中、音楽学校は存続か廃止かの論争が帝国議会で起こるほど、国の教育方針は揺らいだ。1893年秋、「高等師範學校附属」という、いわば格下げを余儀なくされ、その時代が5年半ほど続いた。もちろん、留学生の派遣どころではない。ところが、「国民の道徳を維持し品位を高める為」、高い音楽教育を施す上で東京音楽学校は必要とされて、1899年春、再び独立を勝ち得た。そして、10年ぶりの2人目の留学生として延の妹、幸田幸が選ばれた。しかし、ジャーナリズムはこの選考に延の介入があったと非難した。幸田幸のヴァイオリンの卓越した実力を認めながらも、男子留学生を期待する人々が多かったからである。

 こうして3人目の留学生に瀧廉太郎が決定し、彼はバッハやメンデルスゾーンゆかりの町ライプツィヒへと旅立った。瀧にはピアノの腕を磨くだけでなく、高度な作曲の勉強も期待された。彼はすでに『中学唱歌』で大きな功績を挙げていて、いつか彼こそ、西洋の大作曲家に伍するような、洋楽の本格的「作曲家」になれるのではないか――そんなメルヘン的な夢を、音楽関係者に抱かせていた。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


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