芸大Topへ藝大通信Topへ

タイムカプセルに乗った芸大

タイムカプセルtop美術1920年代へ
前の10年へ

次の10年へ

音楽 東京音楽学校1924年
ベートーヴェン「第九」の本邦初演

小宮豊隆宛の1924年11月18日付けの絵葉書

寺田寅彦(1920年頃の自画像)

クローン指揮の東京音楽学校管弦楽団と合唱団
 近年は年末になると、「第九」公演が日本各地で年中行事のように行われている。そのベートーヴェンの交響曲第九番全4楽章が日本で初めて演奏されたのは、1924年(大正13)11月29日と30日である。東京音楽学校第48回定期演奏会においてであった。両日とも大盛況で、1週間後の12月6日には追加公演の運びとなった。これまた満員であった。指揮はドイツ人のグスタフ・クローン。お雇い外国人教師としての12年間の在職中に、彼はベートーヴェンの9つある交響曲のうち、6曲の本邦初演を手がけた。「第九」初演は、クローンの日本における総仕上げ的仕事であった。

 初日の11月29日の聴衆の中には、物理学者の寺田寅彦(1878ー1935)もいた。彼こそ、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』に出てくる洋楽好きの理学士、水島寒月のモデルである。寅彦はいろいろな楽器を嗜んだ。なかでも高校時代に始めたヴァイオリンは、東京帝大の物理学教授となった後も独学で続け、44歳からは、《叱られて》や《靴が鳴る》の作曲者として有名な音楽学校教授、弘田竜太郎(1892―1952)に師事して基礎から学び直すほどの徹底ぶりであった。「第九」の記念碑的な初演にあたっても、寅彦は事前にスコアを買い込み、レコードに合わせて「タクトを振りながら」念入りに予習した。SP盤で10数枚になる「第九」は、蓄音機で聴くだけでも大仕事である。

 夏目漱石は英国留学から帰った明治30年代後半、洋楽フリークの寅彦に連れられてしばしば奏楽堂に通っていた。その漱石も大正5年に他界して8年後の大正13年11月8日、寅彦は自分と同じ漱石門下の親友、小宮豊隆を「第九シンホニーへ行く気はありませんか」と、まず葉書で誘った。その数日後にはチケットを同封して、「椅子の番号がH1920というように並びになつて居るから、別々に行っても一処になれます。併し何なら1時に地震学教室迄御誘ひ被下ばそれから上野迄一処にあるいても結構と存じます」と、手紙を送っている。さらに演奏会前日の28日にも、小宮に宛て、「娘の嫁入も大事だがおやぢの内部生活も大事だから万障繰合せ、昼食位は棄権しても第九ジュンホニーだけは出席致度存じます」と、一筆したためている。実は、寺田家では30日に長女貞子の結婚式を控えていて、その準備に何かと忙しかったのだが、寅彦は自分自身の「内部生活」を優先させたのである。

 クローン指揮のライヴ公演を見て、寅彦はひとかたならず感動したようだ。彼の興奮は1カ月以上経っても醒めなかった。日記によると、大晦日には朝から、新しく買った指揮棒を振りながら、またも「第九」のレコードをかけている。そしてその使い勝手として、「棒が長いだけに、expressionのamplitudeが大きい」と記しているのは、いかにも物理学者らしい。

 東京音楽学校では1924年4月の新学期早々、教官と学生が総出で「第九」の猛練習を始めた。彼ら演奏家たちは7カ月以上にわたって努力に努力を重ねたが、寺田寅彦の例にみるように、それに見合うだけの周到な予習と復習をして出掛けた聴衆もいたのである。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


前の10年へ

次の10年へ
タイムカプセルtop美術1920年代へ