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音楽 東京音楽学校1932年
プリングスハイムと作曲部の創設

プリングスハイム(在職 1931年〜1937年)



《管弦楽のための協奏曲》作品32出版譜の扉(上)と自筆譜の冒頭部
 1889(明治22)年、幸田露伴は妹の幸田延がいよいよボストンに向けて発つとき、「励め作曲者、励め作曲者、君の地位高まらずんば明治の新音楽起るべからず。励め作曲者、励め作曲者、君の権利伸びずんば明治の新音楽起るべからず」、と励ました。この文章からは初の官費音楽留学生として旅立つ妹に、演奏家になるだけでなく、将来は作曲家としても仕事をしてくれるよう、願っているように思える。

 「西洋文化は受入れるだけでなく、受容した文化を土台として創作する側に立て!」というのは、受容がはじまった時から日本人の熱い願望であった。しかし音楽学校に、作曲家を生み出す制度が整ったのは、1932年(昭和7)4月のことであった。それまでは本科には声楽部と器楽部しかなかったが、ついに作曲部が誕生したのである。

 その7ヵ月前の1931年9月、プリングスハイムが来日した。東京朝日新聞には、「ドイツ楽壇に名を有するクラウス・プリングスハイム氏は去る8日上野東京音楽学校教師として就任した(……)。氏は48歳の老成した音楽家で、音楽理論、指揮の他作曲はマーラーに師事し、すこぶる造詣深く、又オペラにも精通し」ている、とある。これまでにない大型の音楽家が来たという記事であった。

 プリングスハイムは、たとえば指揮者では金子登、山田一雄、歌手では柴田陸陸、長門美保、作曲家では安部幸明、平井康三郎など、日本の次代を担う人材をたくさん育てた。

 ヨーロッパからすると、世界の東端にぽつんとある日本に来て、プリングスハイムは作曲専攻の学生に何を教えるべきかという問題に直面し、いわば作曲の本家から来た人間として、まずは古典的な和声法を最重要課題にした。さらに、彼は同時代のR・シュトラウスやマーラーに至るまで、和声法のすべてを説明することができ、安部や平井などはこもごも、先生の授業は「画期的」だったと語っている。

 赴任4年後の1935年、プリングスハイムが発表した《管弦楽のための協奏曲》は、音楽学校の学生たちに大きな刺激を与えた。その演奏は日比谷公会堂からラジオで実況中継された。しかし、彼が初演と同時に出版された楽譜の序文で、「日本音楽の直感と伝統と又西欧音楽の形式と表現との正当なる且つ未来ある総合化を目的とした」と高言したことが、物議を醸し出した。東洋風のとペンタトニックと「バッハ的精神」とが木で竹を接いだように繋げられている、と批判する記事が相次いだ。

 そこには誤解もあったようだが、その後もプリングスハイムは誤解を拡大するようなことをし続けた。原因は彼の性格にあった。トーマス・マンの妻になったカチャは双子の妹で、彼女によれば、兄クラウスは礼儀正しく、物腰が柔らかだというが、実際はたいへんな癇癪持ちであった。彼は指揮をしているときも、下手な演奏をすると、徹底的にこきおろし、「ブタ!」と罵ることなど日常茶飯事だったという。

 とはいえ、プリングスハイムの音楽への愛、教育への情熱は掛け値のないものだった。この点で彼は、日本で初めてギリシャ・ラテンの根本から教えたラファエル・フォン・ケーベルに似ている。2人とも長い滞日中に、全く日本語を学ぼうとしなかったが、それでいて学生の教育には、ほかの一切を忘れて没頭した。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


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