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美術 東京芸術大学美術学部1951年
自由と平和

第1回の女子卒業生 1951年(『婦人の友』掲載、『東京美術学校百年史 第三巻』より)

戦後第1回入学生(平出敏子氏提供、『東京美術学校百年史 第三巻』)

配給物資を運ぶ学生たち(1946年7月の高山夏季研修会、『東京美術学校百年史 第三巻』)
 1951年3月23日、61回目をかぞえた卒業式は、華やかな卒業式になった。はじめて本学から女子学生が卒業したのである。すでに2年前、東京美術学校は新制の東京芸術大学美術学部となっていた。この年、美術学部を卒業した女子学生は25名。男女同権、自由と平和の時代を告げる彼女たちの旅立ちは、雑誌でも取り上げられて話題になった。『婦人の友』にのった8人の卒業生(1)は、油画の安井曽太郎と梅原龍三郎、彫刻の石井鶴三研究室の人たちらしい。石膏室で撮ったのだろう。うしろにミロのヴィーナスと、ミケランジェロのモーゼの彫像が見える。とても芸大っぽい景色のひとつだ。

 彼女たちが入学したのは、終戦翌年の春だった。本学では戦前にも、男女共学の実施を何度か申請していたらしい。それが敗戦を経て、GHQの教育改革によって実現したのである。この写真が輝いているぶんだけ、戦争に散った学生がここまで生きていたらと思ってしまう。というのも前号での久保克彦も、同じこの石膏室で写真をとっていたからである(芸大通信5)。彼らにとってこの場所は、芸術と自由のシンボルだったのかもしれない。

 彼女たちが入学した年の入試は、志願者689名中、女性が100名をこえていたという。合格者は185名で、そのうち37名が女性。ちょうど5分の1が女性だったことになる。ただこの年の入試は、終戦直後の混乱期のためやや変則的なものだったようだ。受験者が年齢も美術の経験度もバラバラだったため、とりあえず多数を合格として、予科の1年間で「適正」を見たうえで、学年末試験で厳しい成績判定をしたらしい。そのためこの学年の学生数は、卒業時点で約3分の2に減っている。女子学生が、入学時の37名から、卒業時に約25名に減っているのも、こうした事情による。比率としてはほぼ同じ。ただ成績は、一体に努力家の多かった女性のほうがよかったらしい。ある学科では、トップから上位すべてが女子学生だったという。この傾向は、少なからず現在にも続いている。また詳しい経緯はわからないが、この学年の女子学生のなかで鳩山(渡辺)信子が、実は1人だけ前年の春に卒業している。正確には彼女が、女子卒業生の第1号ということになる。

 規律の厳しい女学校から入学して来た女子学生にとっては、野放図なまでに自由な校風が、まず衝撃だったらしい。入学したのはいいが、女子の控室もなければトイレも共用。復員したての学生もいた。初めは緊張の毎日だったらしい。学校は男女交際には一切関知せず、問題を起こしたら即刻退学の方針をとった。実際そうなった例もあったようだが、逆に女性で親切にしてもらうことが多かったと回想する人もいた。男子学生にとっては、たぶん "うれしはずかし" が本音だったろう。男女3人でとった写真(2)は、そんな彼らの気持ちが初々しいぎこちなさによく表れた、とてもいい写真だ。研修旅行で配給物資を運ぶ彼らの表情も、明るく力強い(3)。最低限の貧しさのなかで、すき通るような希望が輝いている。芸術は、やっと自由と平和の時代を手にしたのだった。

(さとう・どうしん/美術学部芸術学科助教授)


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