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美術 東京美術学校1944年
戦争

習志野での教練(前列中央が久保。『久保克彦遺作画集』より)

美校石膏室の久保(遺作画集より)

無言館(窪島誠一郎『無言館ノオト』集英社新書2001年より)

久保克彦 「正午あるいは真夏」145.0×234.5p
(卒業制作「図案対象」5点中の中央画面)1942年 東京芸術大学大学美術館蔵
 湖北省の山稜に、1発の銃声が響いた。狙撃の弾は、最後尾を歩いていた若い見習士官の側頭部をうちぬいた。久保克彦、24歳。美校工芸科図案部卒業。1944年(昭和19年)7月18日、彼が大陸に転属となってわずか3ヵ月、3度目の交戦のときだった。

 太平洋戦争が始まった1941年12月、修業年限を3ヵ月短縮した卒業式が行われた。翌42年9月には、さらに6ヵ月を短縮した卒業式が行われる。久保は、その時の卒業生の1人だった。卒業と同時に即召集、彼らには10日後の入営が待っていた。いま教室にならんでいる学生さんたちと同じ顔の若者たちが、戦争へとかり出されていったのだ。いまの就職難とも、あまりに意味が違う。他国まで行って、なぜ他国の人を殺すのか。なぜ人は殺しあうのか。そしてなぜ自分は死ななければならないのか……。敵機が火をふいて落ちていく彼の卒業制作には、背後に人力飛行機やヨット、鶴、昆虫、輸送船、スクリューなどが、ごちゃまぜにシュールに描かれている。おろかな文明、人間。進歩の果ての破滅。彼が描いたのは、ささやかな抵抗か、それとも諦観か。

 卒業式の夜、同級生10余人は、別れの会を開いた。各人最後の一言で、久保は「俺は一兵として死ぬ」と言う。しかし、入営直前の姉への手紙は違った。会うたびに小さくなる母が、お前の仕事を見たかったと言う。でもそれは酷だと、美術への断ちきれぬ思いをつづる。そして大陸出発直前の手紙では、ふと見た姉の日記の「生き抜いて、7度生まれて絵を描いて呉れ」という一言に、「枯れていた筈の涙」があふれ出たと告白する。物静かな性格の彼は、戦地では口数少なく、ときどき手帳に風景をスケッチしていた。上官を「殿」づけでよぶ軍隊のなかで、年配の補充兵は、彼を「見習士官さん」と慕ったという。(『久保克彦遺作画集』2002年)。美校卒業生の戦没者は、わかっただけで167名という。

 長野県上田市に、戦没画学生の遺品を集めた美術館、「無言館」がある。作品は、幼なく未熟なものもある。それがなおさら、彼らの若くして断たれた思いを強くする。来館者は年配の人が多かった。画学生の兄弟姉妹に近い世代の人たちだろう。すすり泣きの聞こえる美術館を、私も初めて見た。でも世代をこえて、彼らの青春は、見る人の心といまを、鋭く問いえぐる。

 戦時中の美校は、それでも自由を伝えていた。不条理にどなり、なぐりつける軍事教練の教官に、学生はときおりキレた。教官をなぐり返し、刀を抜いた教官に追い回されたり、逆に刀を奪いとって追い回したり。軽い処分ですんだのが不思議なくらいの逸話が残る。また友の出征を見送る上野駅で、裸踊りをして憲兵に追いかけられ、上野駅への美校生の立ち入りが禁止されたり。乱暴だが、どういう顔をして友を送ったらいいのかわからなかった、彼らの不器用なナイーブさが伝わる。 "非国民" スレスレの無軌道ぶり。でもそれが、自由や平和を望み、戦争や人を殺すのはイヤだという、不器用な意志表示なら、むしろそうあってほしいとても貴重なものに思える。国民である前に人間であり、そのための美術であるなら、この戦時期とその人々を、忘れてはならないだろう。

(さとう・どうしん/美術学部芸術学科助教授)


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