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音楽 東京芸術大学音楽学部1985年
民族音楽学・楽器学の「宝庫」

―小泉文夫記念資料室の開設

エスキモーを取材したおりの小泉文夫

「シルクロード・コンサート」のリハーサルの合間に

民族楽器「チカーラー」
 1985年、故小泉文夫教授(1927―1983)のご遺族から、傑出した民族音楽学者であった故人の膨大な量の楽器コレクションだけでなく、録音テープなどの研究資料が本学に一括して寄贈された。これらを保管整理して、将来の民族音楽学、楽器学の研究にあてるべく設立されたのが、「小泉文夫記念資料室」である。2年後の1987年、東京芸術大学創立百周年記念の年にはこの資料室の展示会が行われ、同時に「所蔵楽器目録」が作製された。彼は享年56歳で病魔に倒れ、
現役のさなか突然、冥界に拉致されたような感じであった。逝去されてもう21年になる。

 世界各地の楽器コレクションの多様さは目録を見ても驚くが、蒐集のありさまは「わが家変じて楽器の『倉庫』」とエッセイにあるほどである。

 いま資料室に収められている品々を、目録を手にしながら眺めて廻るというのは、得難い経験になるだろう。しかしこれらコレクションは、彼の著作に接すると、俄然多くのことを語り始める。たとえばサーランギ、ルバーブ、チカーラーについては「インドのサーランギ」(『民族音楽紀行』所収)というエッセイが絶好の資料である。39本の弦で「異様な音」を出すサーランギなる弦楽器と、彼がいかにして出合ってその楽器の演奏方法を習ったか。またその系統的に近い楽器のチカーラーを地元の楽器屋からどういう経緯で手にされたか。テンポのいい文章でそれら楽器の話を読むと、楽器はとても具体性を帯びてくる。あるいは別なエッセイ「執念のサントゥール」でもいい。ユーモラスな話しぶりのなかで、歴史の重みのようなものを感じて粛然としてくる。現在、彼の著作選集は5巻も出ている。

 小泉文夫は戦争中も一高の学生として、比較的のんきな学生生活を送っていたようである。彼にとっては個人の転換期と時代の転換期とが重なったので、振幅の広い生き方になったのだろう。敗戦によって軍国主義が崩壊すると、ほかの青年たちと同じようにひどい虚無感に襲われたが、やがてヴァイオリンをかかえて進駐軍むけのタンゴバンドに加わったり、警察庁の通訳をして生活は確保しながら、民族音楽研究という生涯の仕事に向かい始めた。大学卒業後、1956年から2年間インドの音楽大学に留学し、これが小泉文夫にとって決定的な経験になった。『なつかしいインド、大嫌いなインド』というエッセイには彼の愛憎半ばする気持ちがよく出ている。以後、南アジアの首狩り族、イヌイット、エジプト奥地をはじめ、50余カ国を経めぐったのは、彼のトレードマークにすらなった。

 来し方を振り返った晩年、このように民族音楽研究に邁進していた日々ですら、小泉文夫は「何時でも服飾デザイナーや小説家に転身する可能性を考えていた」と回想しているから面白い。この民族音楽学のパイオニアには教師臭いところがなく、軽快なスマートさが印象に残っている。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


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