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美術 東京芸術大学美術学部1983年
敦煌学術調査─国際化の進展

敦煌石窟入口の門(1982年)

石窟上より南側石窟群を望む(1983年)

敦煌(1982年)
(3点とも撮影提供=田口榮一)
 1983年9月、砂漠の中に千年にわたって造営された敦煌石窟に、本学の第1次学術調査団が到着した。シルクロードから遠く日本の法隆寺にまでいたる、壮大なスケールの東西文化交流の調査が始まった。調査団は、平山郁夫を団長に、日本画(福井爽人、下田義寛)、建築(茂木計一郎)、美術史(水野敬三郎、田口榮一ほか)からなる、美術学部の合同チーム。前年の予備調査から87年の第3次調査まで、日本の仏教美術の源流ともいうべき敦煌の、密度の高い学術調査が行われた。

 当時、敦煌は急速に変わりつつあった。中国の開放政策を背景に、観光客がふえ、宿泊施設が整い、空港も新たにつくられた。第1次調査団は、砂ぼこりのなかを延々とバスにのって敦煌についたらしいが、85年の第2次調査団は、できたばかりの敦煌空港に空路で行っている。敦煌研究所も、研究「院」と名前を変えて拡充しつつあった。

 こうした状況のなかで、ちょうど日中国交回復10周年の時期に始まったこの調査は、中国側の全面協力をえて進められた。調査団が北京についた時には、毎回要人が歓迎してくれるVIP待遇だったらしい。まさに日中友好の文化交流事業だったことがわかる。中国側の敦煌の遺跡保存にかける熱意と姿勢は、強く厳しいものだった。ここでの調査と研究交流が、のちに本学に文化財保存学の講座が新設される、重要な伏線となる。またいまでも、敦煌文物研究院から研究者が毎年来学しており、交流が続いている。

 合同チームによるこうした学術調査の海外派遣は、この時が初めてではなかった。それ以前にも2回あった。最初は、発見されてまもないトルコ・カッパドキアの岩窟修道院を中心とする、中世オリエント遺跡学術調査団(66年、68年、70年)。2回目は、イタリア・アッシジの聖フランチェスコ修道院などを中心とする、イタリア初期ルネサンス壁画学術調査団(73年、76年)。これらの2回の調査も、それぞれ大きな成果をあげたらしい。ただ敦煌の調査が、前2回の調査と大きく違っていたのは、同じ学術調査でも、それが国あるいは政府レベルに近い文化事業として行われたことだった。これは、本学の活動の国際化と、その後の進展からみても、大きな画期となる出来事だった。

 この敦煌の学術調査をはじめ、その後の相次ぐ海外の芸術大学との交流提携、ごく最近ではアフガニスタンの戦後復興支援に至るまで、この20年間に本学の活動は、国際化が大きく進められてきた。国際貢献を目指したその国際化を一貫してリードしてきたのが、現学長平山郁夫の強いリーダーシップだった。いまや交流提携大学も、世界中の大学20校近くになっている。

 1980年代なかばから、円が1ドル240円から100円ちょっとにまで強くなったことで、日本から海外への旅行や留学は、ずいぶん楽になった。日本への留学には、逆にハードルになったが、それでも本学への留学生は増え続けている。オアシスに東西の人々が行き交った敦煌のように、世界中の人々が集う日も遠くないかもしれない。

(さとう・どうしん/美術学部芸術学科助教授)


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