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美術 東京芸術大学美術学部1968年
法隆寺金堂壁画の再現

『金堂壁画再現記念法隆寺展』カタログ 東京国立博物館 1968年

金堂火災の鎮火後、十号壁の前にたたずむ佐伯定胤 1949年

6号壁の再現制作中の安田靫彦1968年

鈴木空如の模写を広げる前田青邨班。
 1968年5月21日、東京国立博物館で「金堂壁画再現記念法隆寺展」が開幕した。悪夢の火災から19年、金堂壁画が再現模写としてよみがえった瞬間だった。日本の文化財保護史上、その焼損は一大痛恨事だったが、それゆえにまた再現事業も最大のものとなった。この歴史的事業に、本学の日本画陣は総力をあげてとりくんだ。

 悪夢は、1949年1月26日の朝におこった。金堂から出火した炎は、わずかの間に内陣と壁画を焼く。茫然自失の人々の中、管主佐伯定胤は、炎に包まれた内陣にとびこもうとして抱きとめられた。焼けただれた十号壁の前にたたずむ佐伯。合掌瞑目ののち、彼は「形あるものは滅す」とつぶやいたという。その絶望は想像に余りある。それは、足かけ十年におよぶ模写作業をしてきた人々も、同じだった。保存のための作業が、結果、壁画を失ってしまった自責、世間の激しい非難。残った模写と資料からの再現が、ここから悲願となった。残ったのは、1940年からの模写事業で、完成間近だった模写8面。壁画12面を、分割撮影した写真原版374枚。幸運にも4色分解でひそかに撮影されていた、12面全景の原色原版。そして明治時代の桜井香雲、大正・昭和の鈴木空如の模写などだった。

 それから17年たった1966年、ついに再現事業が決定する。新たに安田靫彦、前田青邨、橋本明治、吉岡堅二を主任に、4班14人の体制がくまれた。安田、前田は、すでに本学を退官し、名誉教授。現役教官から教授吉岡堅二、助教授岩橋英遠、講師吉田善彦・稗田一穂、平山郁夫が参加した。

 綿密な打ち合わせを経て、模写は、制作当初への "復元" 模写ではなく、焼損時への "再現" 模写とすること。再現は、金堂の白壁に直接描くのではなく、和紙に描いて木枠に貼ったものを壁面にはめること。和紙には、まず写真原版を薄く印刷し、それに描きこんでいくこと、といった基本方針が決定された。

 作業は、翌67年春から各班いっせいに始まった。しかし最大の難関は、実は完成までわずか1年という、制作時間だった。ここから、各班はときに不眠不休の1年が始まる。14人以外にも、多くの助手が参加した制作スタッフは、総勢約50人。各アトリエの熱気に満ちた1年間は、まさに一大事業というにふさわしいものだった。試算によれば、制作ののべ時間は、じつに12万時間だったという。13年4カ月にあたる。各壁ほぼ共同制作だったが、三号壁の観音だけは、当時まだ37歳の若さだった平山郁夫現学長が、単独で仕上げたという。

 東博で記念展が開催された1968年は、文化財保護委員会が、文化庁となった年だ。この再現模写は、威信をかけた事業だったはずだ。一方、1913年に没した岡倉天心が、最後に出席した古社寺保存会の会議で建議したのも、実は「法隆寺金堂壁画の保存」だった。満場一致の可決を見届け、自宅にもどってすぐ、天心は最期の床につく。焼損はたしかに悲劇だったが、廃仏毀釈や戦争などで、幾多の文化財の悲劇を見てきた天心であればこそ、再現の努力も正しく理解したかもしれない。

(さとう・どうしん/美術学部芸術学科助教授)


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