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タイムカプセルに乗った芸大

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音楽 東京芸術大学音楽学部1969年
ステューデント・パワーと「芸術祭」

1969年度芸祭のポスター「訴えかける手、手、手……」

2003年度芸祭のポスター(美術学部デザイン科2年 三浦遊)

2003年度芸祭「マルイシティ上野」における「野郎クラリネットカルテット」
 1960年代後半、いわゆるステューデント・パワーの嵐が欧米諸国で吹き荒れ、少し遅れてそれが日本にも伝播してきた。

 アメリカでは黒人問題に絡んだ大学の諸問題や大学運営に対する「学生参加」などがすでに社会問題化しており、イギリスでは学生数の急増に伴って大学にマスプロの教育の問題が山積して、もう爆発寸前にあった。フランスでは学生たちは大学の主体は自分たちがなるべきだとか、哲学者サルトルも加わって、百花繚乱の議論が始まり、「5月革命」(1968)に至った。イタリアでもドイツでも封建的・官僚的・父権的社会をくつがえし、「自由な解放された社会を!」という運動が高まった。こうして大学紛争は、欧米を一大渾沌(カオス)の坩堝に投げ込んだのである。

 日本の大学も多くの問題を抱えていたし、今よりはるかに政治運動も盛んであった。1968年頃からステューデント・パワーは激しさを増し、多くの大学で学生たちは大学当局と対立。バリケード封鎖や機動隊導入などが毎日の新聞を賑わせることになった。そのもっとも象徴的な出来事は、学生による東京大学安田講堂占拠と1969年1月の機動隊導入による「落城」であろう。8月になると自民党の強行採決で、「大学の運営に関する臨時措置法」が成立、1年以上紛争を続ける大学は廃校にされることになった。それでもいくつかの「紛争重症校」では、秋になっても学年試験の妨害や教室封鎖などが続いたが、この法律によって、各大学の紛争は1応おさまる方向に向かった。しかし、紛争中に提起された問題はほとんど未解決のままになってしまったようである。

 東京芸大は、こうした波にさほど呑み込まれずにすんだ。1969年9月の「芸術祭」は例年どおり行われた。当時の福井直俊学長はパンフレットの冒頭の挨拶で、「今年もまた恒例の芸術祭が若き学生諸君によって催されることは、正常な授業さえできない多くの紛争大学のあることを思えば、誠に喜ばしいことである。このような大学をめぐり色々と激動する中で、やヽもすると我が足もとを見失いがちである」が、そうしたなかに、芸術祭を実現させた学生の努力に敬意を表したい、と語っている。一方、企画に携わった学生代表の文章を見ると、「天翔る反動の黒雲の下に、日本の独立・平和・民主主義を闘いとろう」とする運動が今起こりつつあり、これこそ「人間性回復の努力の具体的な姿」と、元気よく宣言している。学生たちは、前年度の統一テーマ「現代―この虚像と実像のなかで、我々はどこへ行こうとするのか」を深めたいとも高らかに叫んでいる。彼らは芸術家の卵として、自分たちの根本的な立場について立ち止まって考えたことであろう。とはいえ、パンフレットを見る限りでは、残念ながら観念的なスローガンの羅列のみで具体的な提案は見られない。

 それから30年以上を経た昨今、「芸術祭」は、上野の地域社会や商店街の皆さんと手をつなぎ、楽しい「祭」となっている。やはり現実は、観念的な想像を軽々と越えて、着実に進行しゆくものなのだ、としみじみ考えさせられる。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


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