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音楽 東京音楽学校1949年
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矢代秋雄作曲《ピアノ三重奏曲》スケッチ日本近代音楽館蔵



同作品の自筆スコア日本近代音楽館蔵。なお、卒業演奏会における写真は、『東京芸術大学百年史 演奏会篇第二巻』797頁に掲載されている。

黛敏郎の卒業作品は1950年に日比谷公会堂で再演された。フルート:森正、オーボエ:鈴木清三、クラリネット:北爪利世、ファゴット:中田一次、トランペット:中山富士雄、コントラバス:窪田基の以上6氏は、卒業演奏会のときと同じメンバーだった。写真提供 故中山富士雄氏夫人/中山洋子氏
 1949年(昭和24年)は、音楽取調掛設置から起算して東京音楽学校の創立70年にあたり、それは音楽教育創始70年ということで、記念式典と演奏会が1年早く、1948年秋に行われた。「70」という数字は節目としてはいくらか中途半端に思われるが、学校側には区切りをつけたい大きな理由があった。学校制度の改革により、1949年5月になると音楽学校は美術学校と合併して、東京芸術大学に昇格することがすでに決定されていたからである。音楽学校の最後の校長は夏目漱石の高弟、小宮豊隆であった。彼は技術優先の音楽家が生まれること、つまり「内部を欠いた外部」がはびこることを恐れ、この学制改革を奇貨として、「一般教養」によってバランスをとるべきだと主張した。しかし歴史のサイクルは一巡りして、近年、戦後の「一般教養」体制は大学の重点化と共に崩壊した。作曲家の矢代秋雄は40年前、学生たちを早くもこう諭していた。「音楽家も、よき社会人であるためには、音楽以外の教養をもつべきであると言うけど、ジョウダン言っちゃいけない。これはゼンゼン話が逆である。私なら、よき社会人になるためには、まず、よき音楽家になりなさいと言いたいところである。(中略)毎日、毎日、コツコツと時計屋みたいに仕事をしなきゃ」。矢代は大好きな時計職人の喩えを持ち出して、付け焼き刃の「サア、教養つけまショ」主義を軽蔑した。

 1949年2月に行われた音楽学校最後の卒業演奏会は、歴史の節目として意義深い。戦後の作曲界をリードした矢代秋雄と黛敏郎がこの年に卒業、それぞれ卒業作品を発表した。もちろん、この頃学窓を巣立って活躍を始めた作曲家は彼らだけではないが、2人の出発は、明治から日本洋楽界の中心となってきた音楽学校の未来を暗示するような出来事であった。

 矢代は《ピアノ三重奏曲》、黛は《十の独奏楽器のためのディヴェルティメント》を、どちらも作曲者自身がピアノニストとして参加しながら発表した。作曲家の石桁真礼生は当時まだ学生だったが、2人の先輩の作品から鮮烈な印象を受けた。のちに石桁は矢代にこう語ったという。「黛作品は『かぼちゃ畑に鰯が跳ねる』なら、君の作品は『かぼちゃ畑にかぼちゃがごろごろ』だよ」、と。石桁のこの言葉は、黛のジャズ風の奇抜な曲に対する、矢代のアカデミズム本流の書法を言い得て妙である。

 ところで、批評家の山根銀二によると、この少し前から音楽学校の卒業演奏会には多くの聴衆が押し掛けるようになっていた。この年も、6時間かかる演奏会の立ち見を辞さぬ人々で、立錐の余地もないありさまだった。重要な音楽関係者のほとんどすべてが来ていたという。終戦直後、岩波書店から出される難しい哲学の本などが飛ぶように売れたのと同じく、戦争で遮断されていた洋楽に接する機会を求めて、いわば飢えを満たすように人々はやって来たのである。

 焼土から再建しつつあった戦後日本にとって、音楽学校の卒業演奏会は、文化的空白を埋める1からの出発点であった。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


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