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音楽 東京芸術大学音楽学部1956年
芸大オペラ第1回公演

リハーサル風景。ルッチ指揮芸大音楽学部学生オーケストラ



歌手たちの立稽古

芸大オペラ公演第1回プログラム表紙
 今からちょうど100年前の1903年(明治36)7月23日、日本人初のオペラ公演として、グルックの《オルフェオ》が奏楽堂でおこなわれた。このとき、東京帝大で哲学を講じ東京音楽学校ではピアノを教えていたラファエル・フォン・ケーベルが、ピアノ伴奏者として参加した。この公演は学生の発意によるもので、音楽学校からは奏楽堂を貸す以外に何の支援もなかった。ケーベルは根っからの絶対音楽の信奉者であったので、オペラには興味を持っていなかったが、学生たちの逸はやる熱意にほだされてつきあったのであろう。フランス人講師ノエル・ペリが指揮者として音楽の全体をまとめ、資金は学生のひとりの兄が出した。エウリディーチェ役を歌った三浦環によれば、上演は大成功だったが、「一部の知識階級の間での文化運動に終わり、社会的に反響を及ぼさずに終わったことは残念だった」という。切符の一般売りはなく、父兄と関係者が招待された。今ではこの《オルフェオ》初演は、日本の洋学史に残る快挙として高く評価されている。

 1939年(昭和14)に来日して藤原歌劇団の指揮などをしたマンフレート・グルリットが東京音楽学校でも授業をおこない、《アイーダ》の三重唱や二重唱などを柴田睦睦(むつむ)や川崎静子たち学生に歌わせた。オペラの楽しさを知った学生たちは何とか衣装を着けメーキャップもして舞台で歌いたいと願ったが、まだ情勢は相変わらず不利であった。

 学校側がイニシアティヴをとる本格的なオペラ公演が実現したのは、1956年のことである。《オルフェオ》初演から半世紀以上も経っていた。4月18、19日の両日、日比谷公会堂にて、演目はヴェルディの《椿姫》。イタリア人ニコラ・ルッチの全面的指導を得て、日本人側では歌唱については柴田睦睦、舞台については俳優座出身の長沼広光が責任者としてあたった。ルッチはイタリアをはじめ世界各地で活躍していた職人的オペラ指揮者であった。独唱は4年生、合唱は3年生、管弦楽も学生によった。資金的には外部団体の助けを借りて、ともかく第1歩を踏み出したのである。

 だが、「上野の生徒に白粉をつけさせぬ」とオペラ出演を禁止したかつての乗杉校長の言葉が、呪いのように生きていて、このときも演奏会形式で十分だとする意見も学校内部から出て、推進グループの足を引っ張った。公演パンフレットに柴田睦睦は、憤懣やる方ない口吻で、「少なくとも歌劇に関する限り、封建的で無智な因習の犠牲でしかあり得なかった音楽学校時代はさておき、芸術大学と名のつく時代になっても、音楽学部の中に歌劇の正常な発展が望めなかったのは一体何の罪だろう?」と、書いている。主役のヴィオレッタは7人、アルフレッドは2人が交替で歌った。新聞各紙は「予想以上の出来」に賛辞を惜しまなかった。しかし、「清潔な歌いぶり《椿姫》」という『毎日新聞』の見出しは、当時の風潮をよくあらわしている。オペラの熱い愛情表現よりも、清楚に歌うことを世間も求めていたからである。柴田のいう「封建的で無智な因習」を乗り越えるのは、前途多難であったのだ。

(たきい・けいこ/演奏芸術センター助手)


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