Ⅱ.プログラムの概要と基本理念

1.対象

本芸術実践領域博士プログラムの対象は、作品制作や音楽演奏等を主とする専攻や領域である。具体的には、本学大学院美術研究科の美術専攻(日本画、油画、彫刻、工芸、デザイン、建築、先端芸術表現)及び文化財保存学専攻、音楽研究科の音楽専攻(作曲、声楽、鍵盤楽器、弦・管・打楽器、室内楽、古楽、指揮、邦楽)、映像研究科の映像メディア学専攻を対象とする。博士研究の成果を原則として論文主体で提示する美術研究科美術専攻の芸術学(美学、美術史、美術教育、美術解剖学を含む)、建築理論、文化財保存学専攻保存科学等の領域、音楽研究科音楽文化学専攻の各領域(音楽学、音楽教育、ソルフェージュ、応用音楽学、音楽文芸、音楽音響創造、芸術環境創造)は対象外である。以下では、作品や演奏等を主とする専攻や領域を総称的に「芸術実践領域(実技系)」と呼ぶ。

2.基本方針

芸術実践領域博士プログラムでは、博士学位申請のために発表された作品や演奏等と、その創造プロセスで実施された研究について記述した論文(つまり博士論文)の両方を博士研究の成果として捉え、それらを一体的に評価する。したがって、本プログラムにおける博士研究とは、芸術的な創造実践を支えるものであり、芸術的表現を深めるものである。その一方で、芸術的な実践は、博士研究における問いを生み出す土壌であり、芸術作品・演奏等は、その問いを具現化する究極的な答えである。

3.目的

芸術実践領域博士プログラムは、グローバル化や情報化など21世紀に入って大きく変化した社会状況の中で活躍できる、新時代にふさわしいアーティストを輩出することを目的としている。すなわち、グローバルに芸術表現活動を展開するために必要な技術力や表現力を身につけ、かつ自らの創造実践がもつ独自性を歴史的・社会的文脈において言語化して発信することができるアーティストを養成することである。

4.博士研究

芸術実践領域博士プログラムでは、博士研究を芸術実践から独立した別個のものと捉えるのではなく、芸術実践を深めるための相互補完的なものと位置づける。

従来、芸術分野の研究といえば、美術史や音楽史といった歴史研究、制作技法や作曲技法に関する理論研究、あるいは認識論的問題を扱う美学研究が中心であった。これらは19世紀から20世紀初めに、芸術学や音楽学など「学」として発展したもので、その当時の学術研究(「純学問」と言われるもの)がそうであったように、学問的体系を確立することに主眼が置かれていた。現にこうした分野の研究では、先行研究を網羅的に検証する中から未着手の(もしくはアップデートが必要な)研究領域を見つけだし、調査や考察をおこなうというのが一般的なやり方だった。

一方、近年国際的に注目されている「実践に基づく研究」(practice-based research)は、学問的体系を整備することよりも、芸術的な実践に携わっている間に遭遇した課題に対して、答えを見いだすための調査や考察をおこなうことを重視する。今日では、環境、政策、防災など現在直面している問題の解決や、さまざまな現場で紡ぎ出される知を言語化・分析するための学術研究(「応用学問」あるいは「実学/実践学」)が盛んにおこなわれるようになっている。「実践に基づく研究」はこうした応用学問の一つと見なすことができる。「実践に基づく研究」以外にも、「実践主導の研究」(practice-led research)、「研究としての実践」(practice as research)などという呼称もあるが、基本的な立場に違いはない。

本プログラムが博士研究として奨励するのは、この「実践に基づく研究」と呼ばれるものである。「実践に基づく研究」では、自分のこれまでの芸術的実践を客観的に振り返り、そのエッセンスの一部を言語化することや、芸術実践の過程で遭遇した問題に向き合い、それを解決するプロセスを記録にとどめることが重要になる。ただし、実践との関係が重視されるといっても、芸術実践の一部に焦点を定め学術的に、つまり、先人の蓄積の上に、方法論を明確に示しながら何か独自の新しい知見を提示するものであり、作品や演奏等の背後にある自分の意図に関するエッセイ的解説や、芸術表現そのものを言語によって文学的に表現することを意味するのではない。

例を挙げるのなら、次のようなものが考えられる。

  • 独自の芸術表現を支える創造プロセスを論じるもの
  • 自分の作品や演奏等の核となるアイディアを言語化・文脈化するもの
  • 芸術実践の中で自分自身と向き合うことによって得られた知見を客観的に論じるもの
  • 自分の芸術実践で問題に感じていたテーマを抽出し、研究するもの

つまり、本プログラムが求める博士研究は、芸術実践の中で疑問に感じたことを追究したり、芸術を実践する過程そのものについての批判的考察をおこなったりするものである。

このように、「実践に基づく研究」と従来の芸術領域の学術研究との違いは、問題意識や着想が芸術実践の中にあり、且つそこで生み出された「知」が作品や演奏等へと直結するという点である。したがって、作品や演奏等へと結実する芸術実践の中で遭遇した「問い」を、いかに「外在化」(つまり、自分の中にとどめておくのではなく、他人とも共有可能な形として言語化)して研究テーマにすることができるか、そして、研究の結果示された「知」が、さらに作品や演奏等へと結実して究極的な研究成果として示されるか、ということが重要な課題となる。

5.研究方法

「実践に基づく研究」の方法は、テーマや目的によって異なる。通常、博士論文の最初の章では、先行研究レビューと呼ばれる文献調査が中心となるが、場合によっては、文献だけでなく、研究内容に関連した作品や演奏等の先行例がレビューされることも考えられる。それに続く部分では、「問い」に対する「答え」を導き出すために最適な研究方法を選択することが必要である。とくに「実践に基づく研究」では、従来の芸術研究で主流だった歴史的・美学的アプローチ以外にも、事例研究や参与観察研究といった経験主義的なアプローチも重要となる。その中でもとくに注目されるのが、アクションリサーチである。

アクションリサーチとは、研究者自身が何かのアクションをおこし、それによって生じた変化や相互行為の様子を研究するものである。以前から教育学、看護学、心理学の分野では実践されてきたアプローチだが、とくに近年、環境問題、国際紛争、防災、政策、マネジメントなどにおいて、問題解決のための研究手法として急速に発展している。古典的な学術研究では、研究者は対象から距離を保ち、それに手を加えることなく観察することが要求されていたが、アクションリサーチでは、研究者自身が状況の変化に関与することが前提となる。変化のプロセスを丁寧に記録し、それに省察を加えていく中から、新たな知見を生み出すのが、アクションリサーチの手法である。

このように、「実践に基づく研究」は、文字通り実践と研究を密接に結びつけるものである。しかし、研究方法が曖昧だったり中途半端であったりすることを許容するものではないという点は強調しておく必要があるだろう。いわゆる「主観的」な芸術実践と「客観的」な学術研究の中間的なアプローチをとるのが「実践に基づく研究」ではない。「実践に基づく研究」でも、テーマによってはデータの厳格な採取や比較など実証主義的な調査が主要な部分を占めることもあるだろう。あるいは、まだ知られていない歴史的な資料を見つけ出し、分析や解釈を加えるということも考えられる。しかし、「実践に基づく研究」は、伝統的な芸術学や音楽学と違い、データの解析や資料批判が目的なのではなく、それが実践にどのように還元されるかという点についての展望が不可欠となる。したがって、「実践に基づく研究」では、複数の研究方法が組み合わされることも稀ではない。

以上を換言すれば、本プログラムがめざす「実践に基づく研究」とは、芸術を実践する過程において遭遇した「問い」に対する「答え」(知見)を探し出すための最適な方法を見つけ出す作業とも言うことができるだろう。一般的なケースでは、複数の研究方法(V. 実践マニュアル参照)の中からいくつかを選択し、それらをうまく組み合わせることになるが、その選択や組み合わせ方が研究を成功させるための重要な鍵となる。場合によっては、これまで知られていない独創的な研究方法やプレゼンテーションの仕方を提案することが、研究目的を達成するために重要になることもあるかもしれない。「研究方法の曖昧さを許すものではない」というのは、研究がいい加減であることを戒めるものであり、研究において新機軸を打ち出すことを阻害するものではない。

6.評価方法

芸術実践領域博士プログラムにおいて、学生の評価は、作品や演奏等の実践面での成果、研究論文という形での学術的成果、さらに研究と関連したカリキュラム外における活動や業績という3つの観点から評価される。学生の達成度については、指導教員会議によって定期的に評価されるが、学位授与に関する決定は、学位審査委員会によって審議される。

指導教員会議は、通常、1名の主任指導教員と2名以上の副指導教員から構成される。(副指導教員の人数は各研究科によって異なる。)指導教員会議の構成員は、学生の研究計画をアドバイスすると同時に、定期的に学生の芸術実践面(実技面)、研究面、カリキュラム外活動に関する評価や指導をおこなう。指導教員会議は、3年目かそれ以降の年度の初めに、学生が最終審査へと臨む準備ができたかどうかを判定する。

最終審査の際には、学位審査委員会が招集される。学位審査委員会は、芸術面、研究面、カリキュラム外活動における達成度を総合的に評価する。評価の過程では、まず作品や演奏等の実践的成果、研究論文、カリキュラム外業績を個別に吟味し、十分な成果を上げているかを検討する。それから、これらが有機的に結びつきながら、それぞれの成果を引き出しているかに関しても検討する。したがって、最終評価は、あくまで一体的におこなわれるものとする。

6.1. 博士論文の評価

本プログラムの博士論文に関しては、次の基準を参照しながら評価をおこなう。

  • 1)研究の位置づけ(研究テーマ設定についての理由や意義)が、先行する「研究」「芸術実践」や、現在の芸術・社会状況というコンテクストの中で明確に述べられていること。
  • 2)研究の目的と、それを達成するための方法や手順が明確に述べられていること。
  • 3)研究の成果が明確に述べられていること。
  • 4)研究倫理(研究にあたって遵守すべき規則や規定)が遵守されていること。

本プログラムでは、海外の(とくにイギリスの)博士プログラムで散見される、実践と研究の比率に関する規定を敢えて設けることはしない。なぜなら、このような規定に本質的な意味があるとは考えられないからである。実際、実践と研究の比率を定めたとしても、それぞれをどのような基準に基づいて評価するかによって、比率のもつ意味は変化する。例えば、実践と研究の比率を4:6と規定したとしても、実践において高い評価を得るのが難しく、研究において高い評価を得ることが比較的容易であるとすれば、実際には、実践の方が研究よりも重要視されるという結果になる。したがって、実践と研究に比率を定めるよりも、両者の関連性や相補性に焦点をあてて一体的に評価する方がはるかに現実的であり、芸術実践・学術研究の双方の面においてレベルの高い成果がもたらされると考えられる。

また、博士論文の長さに対する規定についても、全学一律の規定は設けない。論文がいくら長くても内容が伴っていない場合は、評価をするのに値しないことは言うまでもない。一方、十分な研究成果を提示するためには、それを伝えるための十分な長さをもつはずであり、内容は優れているにもかかわらず論文が極端に短いということも考えにくい。つまり、研究内容を伝えるのに見合った分量であるかどうかが、論文の長さを考慮する上でもっとも問われるべきことなのである。

なお、博士論文に録音・録画メディアが添付された場合には、論文とメディアの内容の関連性・相補性に着目しながら評価をおこなう必要がある。芸術実践領域の研究では、録音・録画メディアを効果的に使用することで成果をより効果的に伝えることができるケースも多いため、紙媒体以外のメディア使用については制限を設けない。ただし、論文そのものを録音・録画メディアで代替するということは認められない。

6.2. 芸術実践面の評価

芸術実践面の評価に関しては、最終成果だけでなく、それに至るプロセスも重視する必要がある。博士課程在籍中に、作品展示や演奏会などを公開の場で複数回おこない、その度ごとに複数の審査員による議論を通じて評価をおこなう。また、こうしたプロセスを経ることで、学位授与に対する評価の客観性・妥当性も確保することができる。

中間成果の公開に際しては、学内における公開展示会や公開演奏会等を基本とし、その時点での研究成果やカリキュラム外成果についても文書やその他のメディアによって提示する。これらの成果に対する評価は、複数の審査員によってなされるが、評価内容は(講評という形などを通じて)公開の場で示されるか、そうでない場合には、文書やその他のメディアに記録されることによって、当該審査員以外にも検証可能な形をとる。

最終成果発表の場となる美術研究科の博士展、音楽研究科の学位審査演奏会、映像研究科の本審査会(展示と口頭発表)では、作品や演奏等だけでなく、研究成果やカリキュラム外業績についても文書やその他のメディアで提示する。また、公開性をより高めるために、広く社会にその機会を知らしめ、多くの人によって評価の場に立ち会ってもらえるよう努める。

芸術実践領域では、評価に関してこれまでの十分な方法論的蓄積がある。作品の講評や演奏の審査といった評価制度は、公開された成果に対して複数の審査員による議論を通して評価を導き出すというきわめて合理的かつ教育効果の高いシステムである。本プログラムでは、こうした芸術分野での従来からの評価方法をアップデートし、研究に対する評価も加えながら、これらを一体的に運用することが求められる。

7.研究成果の公開

博士研究の成果は次の方法で公開する。

  • 論文要旨と審査結果要旨(及び審査委員名)… 附属図書館のウェブサイト
  • 審査対象の作品や演奏等の記録 … 総合芸術アーカイブセンターのウェブサイト

上記のサイトは、相互にリンクさせ、容易に閲覧できるようにする。

8.グローバル・スタンダードの確保

前述したように、本芸術実践領域博士プログラムは、近年国際的に注目を集めている「芸術実践に基づく研究」(practice-based research)という理念に立脚している。しかしながら、この理念の具体化に関しては、いまだ各国とも試行錯誤の段階であり、今後さまざまな修正が加えられていくことも予想される。本プログラムが将来においても国際的に互換性のあるグローバル・スタンダードを維持し、人材の流動性を確保するためには、海外の芸術博士プログラムや芸術界の動向をリサーチし、アップデートしていくことは不可欠である。芸術リサーチセンターのプロジェクトが終了した後においても、海外動向調査や人材交流を促進するためのシンクタンク的部署を学内に配置することが望まれる。

9.学位名称

学位名称に関する国際的統一基準は、現時点では存在しない。以前は、アメリカを中心に学術系のPhDと、芸術系専門の学位(DFA, DMA等)が対比的に用いられていたが、近年、学術研究のあり方に関する再考と連動して、敢えて芸術系の学位をPhDとする動きが欧米で見られる。実際、美術分野ではPhD in Studio Arts、DFA (Doctor of Fine Arts)、DCA (Doctor of Creative Arts)など、音楽分野ではPhD in Music, DMA (Doctor of Musical Arts), Doctor of Musicなどが混在している。

本学の芸術実践領域では、現在、博士学位を下記の名称で授与している。英語名称については、従来慣用的に用いられていたものを併記する。学位名称については、近い将来、グローバル・スタンダードに対応させる形で、改めて決定をおこなう予定である。

  • 美術研究科*:博士(美術)Doctor of Fine Arts
  • 音楽研究科の芸術実践領域(実技系)**:博士(音楽)Doctor of Music
  • 映像研究科:博士(映像メディア学)Doctor of Film and New Media Studies

* 美術研究科文化財保存学専攻では、現在、博士(文化財)Doctor of Conservation of Cultural Propertiesを授与。

** 音楽研究科音楽文化学専攻では、音楽学に「博士(音楽学)」(PhD in musicology)、音楽学以外に「博士(学術)」(Doctor of Arts and Sciences)を授与。

10.社会的波及効果

芸術実践領域博士プログラムは、芸術実践に即した高度な思考力・批判力・言語運用能力を養いながら、芸術の技能や表現力を高めていくものである。このプログラムが育む高度な批判力や表現力を身につけたアーティストは、現代社会において芸術を通した新しい発想や価値観を生み出すことに大きく寄与すると考えられる。また、芸術分野における博士号取得者の問題解決能力や研究能力の水準がより高く安定し、教育・研究職等へより高度な技能をもった人材供給が可能になるとも思われる。加えて、海外の博士プログラムにおける近年の動向を踏まえた本プログラムは、海外の大学院とこれまで以上に密接な連携を図ることが可能になると期待される。