リサーチ活動

Ⅰ.全体の潮流

2.海外における新たな取り組み ―国境を超えた研究教育機関の連携について

遠藤 衣穂

はじめに

近年のヨーロッパでは、博士課程の学生を支援する研究教育機関が国を超えて結びつき、さまざまなレベルでネットワークを形成しつつある。本稿では、海外の芸術系博士課程をめぐる新たな取り組み、すなわち研究教育機関のネットワーク構築の動きについて報告する。

2000年頃から本格的に始まったボローニャ・プロセスにより、ヨーロッパの大学ではさまざまな制度改革が行われた。とくに注目すべきなのは、博士課程に作曲科や演奏科のコースを新たに設置するだけでなく、実際にDMA やPhD などの博士号を作曲や演奏の学生に授与する大学が増えてきたことである。その背景には、近年急速に展開しつつある新たな研究領域の存在がある。Practice-based research, practice-led research,practice as research などと呼ばれる、芸術実践に即した研究である。

一般に作曲家や演奏家は、日々の創作や演奏の研究成果を、舞台での上演や録音を通して社会に発信している。しかし、音楽の研究領域が拡大し、学際化が進んだことにより、完成された作品や録音、舞台での本番だけではなく、創作や実践の過程そのものが、音楽という人間の文化的営みを理解する上での重要な研究対象として注目されるようになってきた。そうした動きをいち早く取り入れたのが、ヨーロッパの音楽院や総合大学における博士課程である。音楽を、楽譜に固定された過去の遺産としてではなく、動的なプロセスとして捉え直す試みが、これらの高等音楽教育機関で始まっている。博士学生および博士号を取得した若手研究者(音楽家を含む)による斬新な視点と方法に基づく研究の成果が、徐々に実を結びつつある。

こうした実践的な研究と、従来の学問的研究の交差する領域に、芸術研究の新たな可能性が開かれている。この新しい研究領域の展開は、ヨーロッパでも比較的新しい動きであり、それをさまざまな研究教育機関が互いに連携しつつ支えている。その例として、オルフェウス・インスティテュート、創造的実践としての演奏研究センター、ロンドン大学音楽研究所、ヨン・シュー・トー音楽院の取り組みについて報告する。

§1.オルフェウス・インスティテュート

ベルギーのゲントにあるオルフェウス・インスティテュート(以下、オルフェウス)は、ヨーロッパにおける芸術研究の中心地として注目されている1。 国内19機関、海外34機関から構成されており、オルフェウスはその代表をつとめる機関である。予算の支援は、フランダース政府から受けている。所長のペーター・デヤーンス氏は、ボローニャ・プロセスと深い関わりのある人物である2

オルフェウスでは、1996年以来、音楽家のための大学院教育 Laureate Programme を展開している。2004年にフランドル初の作曲と演奏のための博士課程プログラムdocARTES(後述)を導入、2007年にはオルフェウス音楽リサーチセンター ORCiM(Orpheus Research Center in Music)を設置し、音楽領域における芸術研究を推進してきた。ベルギー国内の4つの機関と提携して行う研究プロジェクトMAR(Module Artistic Research)もある。オルフェウスでは、これらの研究成果をセミナー、レクチャー、ワークショップ、学会、マスタークラスを通して広く社会に発信している。

博士課程プログラム docARTES は、2004年1月に開設された、研究と教育からなる2年間のカリキュラムである3。その目的は、作曲家や演奏家が実践に基づく研究 practice-based research を行うことを通して芸術的素養を深め、学術的見識を広め、研究の方法論を修得することにある。このプログラムはオルフェウスが主体となり、オランダ、ベルギー、英国の9つの提携機関により運営されている4。docARTES で学ぶ学生は、これらの機関に所属する専門家から個人的な研究指導を受けることができる。オルフェウス自体は学位授与権を持たないため、実際の学位授与は各学生が本来所属する大学が行う。これまでに6名の作曲家や演奏家がPhD の学位を授与されており、学位審査に合格した博士論文の全文がウェブ上で公開されている5。現在、世界各国の学生43名がdocARTESで学んでいる。

§2.創造的実践としての演奏研究センター

創造的実践としての演奏研究センター(以下、CMPCP)は、ケンブリッジ大学を本拠地として2009年10月に発足した研究機関である6。英国の芸術人文科学研究評議会(AHRC)7より採択された5ヶ年計画の研究プロジェクトで、AHRCから約170万ポンド(約2億1千万円)、4つの主要な提携機関(ケンブリッジ大学、ロンドン大学キングス・カレッジ校、オックスフォード大学、ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校)から約43万ポンド(約5300万円)の支援を受け、合計約210万ポンド(約2億6千万円)の予算で運営されている。演奏実践に関する研究を行うことを目的とし、この分野で最先端をゆく英国の研究者や作曲家、演奏家が意見や情報を交換し、新たな研究の可能性について模索している。現在、CMPCPでは5つの研究プロジェクトを遂行している8。4つの提携機関に所属する主要なメンバーが分担して各プロジェクトの研究代表者を務め、随時ワークショップ形式の研究会を開催している9。また、提携機関に所属する学生3名が助成金を得て、CMPCP の一員として博士研究を行っている。さらに8名の博士学生が主要メンバーの指導のもとで関連するテーマの研究を行っている。

CMPCPでは、研究者と演奏家による国際的な演奏研究ネットワーク(PSN)を運営している10。PSNでは、2011年7月にケンブリッジ大学で4日間にわたる第1回国際シンポジウムを開催し、約100名が研究発表を行い、世界各国から約140名が参加した。2013年4月と2014年7月にも国際シンポジウムを主催する予定である。

§3.ロンドン大学音楽研究所11

ロンドン大学音楽研究所(以下、IMR)12は、2005年にロンドン大学高等研究大学院にある10部門のひとつとして設立され13、その翌年に活動を開始した研究機関である。大英博物館のすぐ裏側に位置するロンドン大学セネート・ハウスに所在する。英国高等教育財政審議会(HEFCE)14から約14万6千ポンド(約1800万円)の予算を得て、英国のあらゆる高等音楽教育機関の研究を促進し、9つの研究ネットワークを支援し15、大学院生のための教育を行っている。その活動は多岐にわたるが、とくに注目すべきなのは、1)博士課程学生のためのセミナーや行事の開催、2)学会や研究会、ワークショップ、レクチャー・コンサート等の主催、3)ロンドンに滞在する研究者の支援である。

IMRでは博士論文の指導は行っていないが、研究の基礎を養うための定例行事として、「音楽リサーチ・トレーニング Research Training in Music」と呼ばれる博士学生のためのセミナーを年に7回ほど開催している(隔週月曜日10時半~17時半)。研究所長のアーヴィング教授が毎回異なる研究テーマを設定し、その分野の専門家を3名ほど国内の大学から招聘する。ここでは、音楽研究に関するさまざまなテーマについて専門家から直接学び、討論を通じて理解を深めていく。この博士セミナーは、英国内のすべての大学院生に対して開かれている。受講を希望する学生は事前に個人で登録を行い、毎回20ポンド(約2,500円)の参加費を支払う。参加は任意で、毎回の定員はとくに設けていない。例年、25~30名が新たに登録しており、学生が情報交換を行うメーリングリストには、約100名が登録している(2010年9月現在)。音楽学専攻の学生が最も多く、作曲と演奏の学生は全体の約20% である。EU諸国からの留学生も数名いる。また年に2~3回、英国内の大学と協力して行事を開催している16

IMRでは、このように外部の機関と連携することで、個々の大学で学べる範囲とレベルを超えた最高水準の教育を提供している。また、研究者や演奏家がロンドンに集まり、学会やシンポジウム、レクチャー・コンサートなどを開催する際の場所や器材を提供することも、IMRの重要な使命のひとつである17

§4.ヨン・シュー・トー音楽院

ヨン・シュー・トー音楽院は、シンガポールにある唯一の音楽院で、シンガポール国立大学の一機関である18。ここには、上記のCMPCPと似たような研究機関がある(Strategic Planning and Research)。2009年10月29日~11月2日に、この音楽院において「演奏家の声」と題する国際フォーラムが開催された19。これは、ヨン・シュー・トー音楽院が主催となり、シンガポール国立大学、英国王立北部音楽院、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学ピーボディ音楽院の協力を得て実現した国際会議である。65名が研究発表を行い、22カ国から約170名が参加した。会議の様子はウェブ上で公開されており、講演や演奏、討論を動画で見ることができる。また、リチャード・タラスキン教授(カルフォルニア大学バークレー校)の基調講演をはじめとする主な内容が単行本で出版されている20。なお、2012年10月末には第2回会議が開催されている。

§4.まとめ

作曲家や演奏家による新しい音楽研究のあり方が多くの研究教育機関で模索されている。それを支えるネットワーク作りが、欧米だけでなくアジアも含めた国際的な組織により急速に進められている。今後、日本の芸術系大学が芸術研究の分野で飛躍的な発展を遂げ、国際的に展開していくためには、国内およびアジアや欧米諸国の高等教育機関との間に国際的なネットワークを構築していく必要があるだろう。また、日本における芸術系大学の質保証を明示し、海外機関との間で単位や学位の互換性を確立することにより、学生と教員のみならず、芸術家や研究者の国際交流を推進することが可能になるだろう。個々の大学が博士課程学生に提供できる資源(人材、時間、資金等)は限られている。国内外の大学と連携して情報や意見の交換を行い、知識と経験、アイディアを共有していくことが、今後ますます重要になると考えられる。

  •  
  • 1:Orpheus Institute[http://www.orpheusinstituut.be/en/intro
  • 2:ポリフォニア・プロジェクトのリサーチ・ワーキング・グループ代表で、第3サイクル・ワーキング・グループの主要なメンバーでもある。Guide to Third Cycle Studies in Higher Music Education (2007) は、デヤーンス所長の監修のもとで執筆された。
  • 3:Doctoral Programme in Musical Arts[http://www.docartes.be/en/welcome
  • 4:ライデン大学、アムステルダム音楽院、ハーグ王立音楽院、ルーヴァン・カトリック大学連合(ルーヴァン大学、ルーヴァン・レメンス音楽院)、アントワープ大学連合、アントワープ王立音楽院、英国王立音楽大学、ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校、オックスフォード大学。2006年に英国の3大学が加わったことにより、国境を超えた新たな協定 Documa Allianceが発足し、2008年9月から英語による博士プログラムが開設された。
  • 5:Doctoral Programme in Musical Arts, Doctors[http://www.docartes.be/en/doctors
  • 6:AHRC Research Centre for Musical Performance as Creative Practice[http://www.cmpcp.ac.uk/
  • 7:Arts and Humanities Research Council 英国政府の支援を受け、年間約7500万ポンド(約93億円)を芸術・人文分野の教育と研究に投資している。
  • 8:Shaping music in performance (Daniel Leech-Wilkinson); Global perspectives on the ‘orchestra’ (Tina K. Ramnarine); Creative learning and ‘original’ music performance (John Rink); Creative practice in contemporary concert music (Eric Clarke); Music as creative practice (Nicholas Cook).
  • 9:例えば、2010年9月6日にロンドン大学キングス校で行われたワークショップ Shaping Music in Performance [http://www.cmpcp.ac.uk/smipworkshop2.html] では、音楽、美術、社会心理学、言語学、医学などを専門とする7名の研究者が各分野における研究の視点や方法論、問題点などを音楽の場合に置き換えて考察し、音楽学者や演奏家も交えて、新たな演奏研究の可能性について白熱した議論を交わした。
  • 10:Performance Studies Network (PSN)[http://www.cmpcp.ac.uk/performance_studies_network.html
  • 11:2010年9月8日、ロンドン大学音楽研究所において、所長のジョン・アーヴィング教授(任期:2009年8月~2011年7月)にインタビューした内容に基づく。音楽学者・鍵盤楽器奏者として活躍するアーヴィング教授は、モーツァルトの鍵盤音楽や室内楽に関する著書、論文、書評、校訂譜、録音を出版するほか、歴史的楽器を用いた演奏活動を行っており、研究と演奏の両分野にわたる幅広い人脈を活かしIMRを運営している。現在はカンタベリー・クライスト・チャーチ大学教授。
  • 12:Institute of Musical Research, University of London[http://music.sas.ac.uk/
  • 13:School of Advanced Study, University of London[http://www.sas.ac.uk/
  • 14:Higher Education Funding Council for England[http://www.hefce.ac.uk/
  • 15:DeNOTE (Centre for eighteenth-century performance practice); Francophone Music Criticism Network; ICONEA Research Group (International Conference of Near Eastern Archaeomusicology); Medieval Song Network; Middle East and Central Asia Music Forum; Music and Science Group; New Music Insight Research Network; SongArt Performance Research Group; South Asia Music and Dance Forum.
  • 16:例えば、2010年11月のハダースフィールド国際現代音楽祭では、ハダースフィールド大学と協力して作曲家のための特別プロジェクトを開催している。
  • 17:例えば、中世世俗歌曲を研究する学者達と演奏家が新たなネットワーク Medieval Song Network[http://www.medievalsongnetwork.org/]を発足させ、IMRの協力のもと、2010年9月7日にロンドン大学セネート・ハウスの会議室において第1回ワークショップを開催している。欧米諸国から約30名の文学者と音楽学者、演奏家が集まり、研究発表や討論を通じて中世世俗歌曲に関するあらゆる情報を共有し、ネットワークおよびデータベース構築のための意見交換を行った。
  • 18:Yong Siew Toh Conservatory of Music[http://music.nus.edu.sg/
  • 19:Performer’s Voice: An International Forum for Music Performance & Scholarship [http://theperformersvoice.org/
  • 20:Performers’ Voices Across Centuries and Cultures,
    ed. Anne Marshman, Imperial College Press, 2011.