リサーチ活動

Ⅳ.海外実技系博士プログラムに関する調査

2.海外実技系大学院博士学位授与システムに関わる基本調査2

安藤 美奈

リサーチセンターでは、実技系大学院の博士学位授与システムに関わる基本調査の一環として、海外における関連情報について、関係諸機関への訪問調査と合わせて、関連ウェブ・サイトや文献情報を中心とした資料を収集している。収集した文献情報に関しては、必要に応じて翻訳を行い、リサーチセンターの活動に役立てられるよう整備し、さらに分析、調査研究を行っている。以下に本年度行った調査研究について概要を報告する。

平成22年度は、海外の実技系博士学位に関わる動向・情報を中心に、主として文献及び関連ウェブ・サイトを調査し、情報を収集した。まず特筆したい点は、2010年現在の段階で、ウェブ・サイトからも収集可能な資料が、リサーチセンターの活動が開始された2008年と比較すると格段に多くなっているということである。ヨーロッパにおける高等教育圏の形成を目指したボローニャ・プロセスが、2010年を一つの目処として進行していたことも、このような情報や文献の増加の背景にあると考えられる。

入手した文献資料は、イギリス、オーストラリア、アメリカなどのものが中心となったが、ボローニャ・プロセスが進行していたとはいえ、各国の教育システムの相違が浮き彫りになった。また、実技系博士学位に関する研究についても、我々が使用する“実技系”“美術”という用語に対応する言葉として、“studio art”、“creative art”、“visual art”、“fine art”などが使用されている。 “実践に基づく”を表す用語も“practice-based”、“practice-led”といったように様々で、共通した定義に向けた議論の途上にあると言えよう。これはプログラムや学位の名称についても同様で、国あるいは教育機関によりPhD、DA(Doctor of Arts)、DFA(Doctor of Fine Arts)DCA (the professional Doctorate of Creative Arts)、DVA(Doctorate of Visual Arts)といった学位名を、それぞれの教育プログラムに沿った形で定義、使用している。

こうして共通した定義を模索すると同時に、欧米における実技系博士学位をめぐる研究は、現行の枠組みの中ではあるが、実践に基づく研究の位置づけを検討し、さらには修士課程を含めた包括的な大学院レベルの教育システムの検討へと進展している傾向が見受けられる。これに対し、日本国内の実技系博士学位に関する本格的な研究・検討は、本学においても2008年にリサーチセンターが設置されてからであり、端緒についたばかりである。欧米における研究が先行しているが、実技系博士プログラムの歴史、学位取得者数などにおいては、本学を含め日本国内の実技系大学院には、各国と比べても遜色ない実績があるといえる。今後は、これまでの研究成果、検討されてきた課題を国内外に発信し、国内外において議論を深めていく必要があるだろう。

次に、平成22年度収集した文献資料の中から、海外の研究動向の例として、2つのレポートを紹介する。

1.Creative Arts PhD Future-Proofing the Creative Arts in Higher Education
     Scoping for Quality in Creative Arts Doctoral Programs
     Project Final Report 2009

本レポートは、平成21年度に訪問調査を行ったメルボルン大学のスー・ベイカー准教授をリーダーに、オーストラリアの主要大学が連携した、教育関連団体の助成プロジェクトの最終報告書である。

オーストラリアでは1990年代初めから、Creative arts(以下、クリエイティブ・アート) 教育を大学システムに導入し、高等教育システムに組み入れてきたが、特に大学院プログラムの拡大や進学者数の増加により、その教育システムは大きな変化を迎えている。他方、現在オーストラリアでは、“The PhD in the creative arts”は“terminal degree(最高学位)”として容認されているが、このプロジェクトは、大学におけるクリエイティブ・アートの博士プログラムについて、実証に基づく理解を広げるために企画されたものである。プロジェクトでは、オーストラリアの教育研究活動状況の調査を主としながら、イギリス、フィンランド、ニュージーランド、日本(筑波大学)などの事例も挙げている。

次に、レポートのエグゼクティブ・サマリーから要点を抜粋して紹介する。

プロジェクトの目的:
  • オーストラリアのクリエイティブ・アート、特に視覚芸術におけるPhD及び博士学位プログラムの実証に基づいた見解を提示すること。
  • 諸外国の大学における事例の調査。
  • 質の高いリサーチを行う教育方法について、国内外の認識を広げていくこと。
  • PhD及び博士学位の論文提出モデルを確立すること。
  • クリエイティブ・アートにおける質の高い博士課程の指導、リサーチ、審査及び審査結果について、指標となるべき基準を確立するための情報の提示。
  • クリエイティブ・アートの博士プログラムの設計及び展開における、現在行われている教育機関、各分野相互の協力に向けた提言。
  • ウェブ・サイトを通じてプロジェクトの調査結果を公開する。

このプロジェクトの研究成果は、クリエイティブ・アートという研究分野が、水準の高い、国際的競争力のある研究様式への発展に資することを期待されている。また、ここでは、美術・デザイン分野にとどまらず、実技系のパフォーミング・アートや音楽分野も視野に入れており、オーストラリアのパフォーミング・アート、音楽の分野においても同様に、PhD、博士学位に関する研究活動が行われている。

プロジェクトの手法:

本プロジェクトにおける手法は、教員、専門職員、政策決定者、研究者、そして他の関係者が、視覚芸術及びより広範なクリエイティブ・アートの博士学位プログラムについての決定を行う上で、有益な調査結果を提示することを意図して用いている。

クリエイティブ・アートという領域が直面する諸問題には、指導教員の質という問題だけでなく、多様な審査モデル、学位プログラムの問題も含まれている。プログラムに対して益々求められる要求と共に、広範囲に及ぶ運営上あるいは規則上のプロセスがあり、またこのようなプロセスを共有し、比較することは、関係者にとっては、非常に有益である。この点を実証することは、クリエイティブ・アートにおける発展性と、創造的でかつ明確な研究様式を証明することに他ならない。

提言項目:
  • 大学院コーディネーターのための実践的なネットワーク
  • ACUADS(Australian Council of University Art and Design Schools)のカンファレンスでの定例会議
  • ACUADS、ALTC(Australian Learning and Teaching Council Ltd)主催の美術、デザイン分野の実践教育についてのシンポジウムの開催
  • 広範なコースワークあるいは研究方法のプログラムを通した、計画的なリサーチ・トレーニングの諸項目の利益と費用に関する、更なる調査
  • 博士論文の事例データベースの構築
  • 多様な審査方法のメリットに関する更なる調査
  • グローバル・ネットワークの構築

クリエイティブ・アートの様々な研究領域を横断し、多くの関係団体や研究者たちの協力により、今後の研究においては、本プロジェクトを他のクリエイティブ・アートの領域へと広げることが可能となるだろう。視覚芸術とパフォーミング・アーツの研究様式は多様性を有し、またある部分では密接な相互の連携も可能である。この点において、領域を超えた確固たる協力関係が形成され、現在の、そして将来の研究と共にクリエイティブ・アートの文化を構築するであろう。

2.Timothy Emlyn Jones, “The Studio-Art Doctorate in America”Art Journal,
     Vol. 65, No. 2 (Summer, 2006), pp. 124-127

アイルランド Burren College of Art の研究科長であるティモシー・エムリン・ジョーンズ氏は、アーティストとしての活動と共に、20年に渡り、イギリスとアイルランドで実技系博士学位プログラムに携わってきた経験を持つ人物である。

本稿は、2006年のCAA(College Art Association)年次会議(開催地:ボストン)のセッション‘The MFA and the PhD: Torque in the Workplace’において発表した“The Studio Door is Open”を“The Studio Art Doctorate in America”としてArt Journalに寄稿したものである。2006年時点での、アメリカにおける実技系博士学位に関する状況を示していること、またヨーロッパ、特にイギリスのプログラムとの比較を行っている点で、興味深い考察といえよう。以下このレポートの要訳を紹介する。

2003年に、AICAD(the Association of Independent Colleges of Art and Design)のシンポジウムにで、ジョーンズ氏がスタジオ・アートにおける博士学位について発表した際には、その学位に否定的な意見が多くあったが、この数年間で、アメリカにおけるスタジオ・アートの博士学位についての議論は、主にAICAD、CAA、NASAD(the National Association of Schools of Art and Design)の関与により変化が見受けられるようになった。

2003年の時点で、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、中国などでスタジオ・アートの博士学位プログラムは既に導入されており、当時、英語圏でスタジオ・アートの博士学位プログラムを導入していないのは、アメリカなど少数の国のみであった。

一般的に、高等教育において他の研究領域のPhDのように、MFA(Master of Fine Arts)は“terminal degree”として認められてきた。しかしながら、アメリカの多くの大学では、この二つの学位が異なる学問的レベルの学位であると認識し、現行のMFAが果たして“terminal degree”であるかどうか、疑問視されてきている。通常、修士学位(“a master’s degree”)は、研究課題に関して既存の認識に対する新たな見解を提示するものである。他方、博士学位(“a doctorate”)は、新たな知見あるいは研究課題の理解に大きな貢献を示すのもであるとされる。

アメリカにおける実技系PhDに対する反応は、アカデミックな問題に起因するというよりも、教員としての学歴、資格取得のためにアート・スクールに戻らなければならなくなるのではないか、という疑念から生まれたものであった。2006年のCAAのカンファレンスの際には、アメリカにおいても、いくつかの大学で“studio-art(スタジオ・アート)”とメディアのPhDを認定しており、博士学位プログラムの設置を検討する大学が多くあった。2003年当時の「なぜ」博士学位が必要なのかという問いが、2006年には「いかに」実行するかという問題に移っていたのである。このように明らかな進展がありながらも、アメリカでは実技系博士学位についての議論には、不安と進歩という二つの側面が付きまとっている。

またジョーンズ氏は、上記のようなアメリカの状況に対して、次のようなアドバイスを示している。

  • 共通の問題に対しても、背景が異なれば異なった方策が必要であることを認識する。
  • “Terminal degree”について再考すること。就職の機会は、単に資格を持つ者に与えられるものではなく、そのポジションに最も適した者に与えられるべきである。
  • 今日に至るアメリカの美術と美術教育を特徴づける概念が、いかに進展してきたかに着目する。研究のプロセスとしての美術という考えは、美術研究の要である。また、アメリカの教育におけるジョン・デューイ(John Dewey)とドナルド・ショーン(Donald Schon)の位置づけに注目する。
  • アーティストがリサーチとして行っている活動を記述することは、小説を書くようだと考えられることがあるかもしれない。しかしながら、アメリカの現代美術のキュレーターたちは、アーティストが“enquiring(調べる)”、“exploring(研究する)”、“investigating(調査する)”といった表現をすでに用いている。アートに関わるこのような用語の使用について、教育機関が何らかの反応を返すべきであろう。
  • 美術におけるリサーチに最良の方式を構築する上で、人文科学と社会科学の優位性に注意すること。自然科学の、自然現象の観察と経験的戦略方法に注目することを勧める。
  • 博士学位レベルの論文と作品との関係について検討する基準として、CAAの提示するMFAの基準を検討する。文字数の規定はもちろんのこと、論文を執筆にするにあたっての規則を求めず、知的な厳密さを重視するものである。
  • イギリス的な“practice-based”research (「実践に基づく」リサーチ)という曖昧な用語に注意すること。この用語は、専門的な原理、方式、手順、そして倫理に関するあらゆる調査研究について指し示すものであり、芸術として認識される作品を生み出すことを通して感得された、知識、理解とは異なるものである。
  • イギリス、アイルランドの修士課程はアメリカにおけるMFAプログラムと全く同じというものではない。イギリスにおいては、いくつかの例外を除き、修士課程は一年間のフルタイムのMAである。MAは、MFAが博士学位と一体化できる可能性があるのに対し、厳然として博士学位を取得する前のプログラムである。
  • 博士学位についてMFAと切り離して検討しない。イギリスの多くの大学では、博士課程に先立ち、修士課程を修了していることを出願者に求める。つまりMFAと博士学位を連続するものと考えるべきである。
  • プログラムを開始する前に、PhDとDFA(professional doctorate in fine arts)との違いを検討する。イギリスではPhDが評価されるが、リサーチの実践においては、各国の様々な条件を考慮すると、DFAの方がPhDよりも適切で有益である場合も考えられる。

以上

(平成22年度活動報告書)