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リサーチ活動

Ⅰ.実技系博士学位授与に関する研究

1.実技系課程博士学位授与の現状と課題

美術研究科リサーチセンター主任 越川 倫明

東京藝術大学大学院美術研究科リサーチセンターは、平成20年から文部科学省の特別研究経費(教育改革)の予算措置をうけて設置された(5ヶ年計画)。その主たる目的は、実技系博士課程における課程博士学位審査および授与システムについて調査を行ない、望ましいシステムの姿を提示することである。同時に、学位取得のために不可欠な課題でありながら、実技系学生にとって必ずしも手慣れた分野とはいえない「論文」について、その在り方はどのようなものであり、どのような指導体制・評価体制が可能かという、非常に切実な問題に対して、将来をみすえた回答を見出すことが求められている。

平成20年度活動報告書は、この調査計画の初年度の活動について、主として論文執筆支援の指導プログラムに重点をおいて報告するものである。もうひとつの重要な実施事項は平成20年12月に開催された「博士審査展」であるが、これについては、別途刊行されている『東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程 平成20年度博士審査展 作品・論文要旨集』を参照されたい。

また、他大学院の学位授与の状況等に関する調査は、より多くの調査データを収集したのちにまとめるのが適当と判断し、今回はごく簡単にふれるにとどめた。

以下、本稿では、美術研究科における課程博士学位授与の現状の概略を示すとともに、今後の検討課題についていくつかのポイントに関して述べ、序文としたい。

学位授与者数の推移

本学における大学院美術研究科博士後期課程は1977年(昭和52年)4月に設置され、6年後の1983年(昭和58年)に最初の博士学位授与者を出している。その後、1995年には文化財保存の領域が拡大改組されて美術研究科内の独立専攻となり、現在にいたる。1983年から2008年(平成20年)までの、学位授与者総数は270名にのぼる。学位授与の審査対象は、領域に応じて、「論文」あるいは「作品と論文」という選択が可能である。当然、学科系諸領域は論文のみ、実技系諸領域は「作品と論文」を選択するのが通常であるが、研究のタイプに応じて、必ずしも研究領域ごとにタイプが完全に分かれているわけではない。以下、過去25年間の学位授与者数の推移と、「論文」「作品と論文」の選択数の推移を、表1に簡単にまとめてみる。

この表から、学位授与者総数の推移は、おおまかに3期に傾向が分かれていることが明瞭になる。1983―97年の15年間は一桁台で推移し、続く1998―2004年には10?15名程度、次いで2005年以降はほぼ30名前後となっている。1998年度における増は、1995年度における研究科の拡大改組による定員の大幅増の反映とみなすことができる。2005年度以降の急激な増加は、景気低迷による就職難に加え、2004年(平成10年)における国立大学法人法による独立行政法人への移行や中期目標の設定とも連動し、学位授与者増加への強い動機づけが働いた影響を見ることができる。現在の美術研究科博士後期課程の入学定員は美術専攻25名、文化財保存学専攻10名の、計35名であり、今後も毎年30名前後の博士授与者が出ていくことが予想される。

「作品と論文」「論文」の選択区分については、上表から明らかなように、「論文」のみの選択者(主として学科系)については、授与者数の推移には1988年以降、大きな変動はない。当然、総数の増加傾向をもたらしているのは、主として「作品と論文」を選択する実技系学生の学位取得の大幅な増加だということができる。このことは、実技系学生を主体とし、優れた創作家の養成を目的に掲げる本学としては当然なことともいえるが、一方で、過去わずか数年間に生じたこれほど急激な学位授与者の増加を考えても、学位授与に関連する指導および審査のシステムについて制度的な検討と整理が必要とされていることは確かだろう。以下、そのような検討の過程で問題となり得るいくつかの点を、課題として抽出しておきたい。

表1
年度 学位授与者数 「作品と論文」選択者数 「論文」選択者数
1983 (S58) 1 0 1
1984 (S59) 2 1 1
1985 (S60) 1 1 0
1986 (S61) 3 3 0
1987 (S62) 1 1 0
1988 (S63) 3 0 3
1989 (H1) 5 3 2
1990 (H2) 7 2 5
1991 (H3) 9 6 3
1992 (H4) 5 3 2
1993 (H5) 4 1 3
1994 (H6) 5 2 3
1995 (H7) 3 2 1
1996 (H8) 8 4 4
1997 (H9) 3 1 2
1998 (H10) 11 8 3
1999 (H11) 13 8 5
2000 (H12) 10 7 3
2001 (H13) 13 12 1
2002 (H14) 14 10 4
2003 (H15) 13 11 2
2004 (H16) 15 10 5
2005 (H17) 27 24 3
2006 (H18) 27 23 4
2007 (H19) 37 31 6
2008 (H20) 30 28 2
270 202 68

*博士後期課程入学定員は、1977-96年度が15名(美術専攻)、1996-2004年度が25名(美術専攻15、文化財保存学専攻10名)、2005年度以降が35名(美術専攻25、文化財保存学専攻10名)である。

審査対象:「作品と論文」

実技系学生の学位授与の明白な特徴は、「作品と論文」を審査対象とする、ということである。「作品と論文」を選択する実技系学生の学位審査におけるひとつの明瞭な問題点は、審査にあたって「作品」と「論文」の審査上のウェイトをどのようにとらえるか、であろう。本学の学位規則では、審査対象は「博士論文(研究領域により研究作品又は研究演奏を加える)」と規定され、「学位論文等」という用語で審査対象が総合的に定義されているが、両者の相対的位置づけや、審査上のウェイトについては規定されていない。実際、同じ「作品と論文」を選択する学生であっても、研究領域によっても、作品と論文の関係性、あるいは学生個人の研究のタイプによっても、作品と論文との審査対象としてのウェイトは一律ではない。したがって、この点を統一的な規定でしばることは現実的ではない。

優れた作家を養成するという実技諸領域の基本的な教育ポリシーからすれば、博士学位授与にあたっても、作品制作における実力が第一に重要な判断基準になることは、自然なことであろう。その場合、同時に提出される「論文」をどのような意味づけのもとに評価するかは、これまで必ずしもつっこんだ議論がなされているとはいえない。さまざまなタイプの創作研究を行なう学生に対応するための柔軟性は必要であるが、半面、方向付けの欠如によって学生が執筆の方針を定めにくいという事態も起こり得る。この点は、他の多くの美術系大学院も共通してかかえている問題といえる。

予備審査プロセス

学位申請のスケジュールは、本研究科では、学位申請の前年度の12月に予備申請、新年度4月に本申請が行われ、それぞれ、拡大研究科委員会によって最終的に申請の受理が承認される手続きとなっている。拡大研究科委員会に先立ち、各研究領域において審査が行われるのが通常であるが、申請の適格性に関する統一的かつ明文化された判断基準は現状では存在せず、各研究領域の判断にゆだねられている。研究領域によっては、ポイント制等による創作・研究の実績評価を内規化して申請条件として課しているところもあるが、領域によって「実績」のあり方にもさまざまな相違があり、研究科内で一律の基準を設けることはほぼ不可能といえるだろう。

しかしながら、第一に改善可能な点として、各研究領域において独自に定めている申請条件をできるかぎり明文化し、研究科内で集約された情報として共有することは可能であり、また必要なことと考えられる。当然、ポイント制のような数値的な評価基準がなじまない領域があることは認めた上で、また各領域の専門的判断を最大限尊重することを大前提とした上で、申請基準に可能な範囲での公開性をもたせることは重要な課題といえるだろう。

学位審査委員会の体制

本学の学位規則によれば、個々の課程博士の学位審査にあたって設置される「審査委員会」は、「提出された学位論文等の内容に応じた研究分野担当の教授及び准教授並びに関連分野担当の教授及び准教授のうちから、研究科委員会において選出された3人以上の審査委員をもって組織する。ただし、審査委員のうち1人以上は教授とする。」(第7条)と規定されており、これが審査体制の最小限の組織となる。しかし実際には、他研究領域の教員や学外審査委員を含め、通常5人程度の審査委員会が組織されるのが通例となっている。

平成20年度に行われた美術研究科の内規整備により、審査委員会の内部に、主査のほかに「作品担当第一副査」および「論文担当第一副査」を本申請時に指定することが義務付けられ、また、外部審査委員がいずれかの第一副査を担当する場合には、履歴・業績等による資格確認を行うことが明文化された。

審査委員構成については、他領域や学外の審査委員の依嘱は、評価の多角性の観点から一般に望ましいことといえるので、現状の体制はおおよそリーズナブルなものといえるだろう。これとは別に、「評価の客観性」の観点から、「当該学生の指導教員は主査になるべきではない」(「指導」と「評価」の分離)というラディカルな意見もあり得るが、高度な専門性の確保と現在のわが国の課程博士学位授与の一般的な通例から考えても、芸術分野における現実性は乏しいと思われる。

審査の公開性

審査スケジュールは、例年8月末頃に設定されている論文提出ののち、9?10月に中間審査が行われ、最終的に12月に「審査対象作品の公開展示」「論文公開発表」が実施され、最終審査が行われる。美術研究科では、平成19年度より一般にも公開される「博士審査展」を大学美術館にて開催し(平成20年度より開催主体を美術研究科リサーチセンターに移管)、当該年度の学位申請者の審査対象作品を一括して展示する機会を設けることにより、審査の公開性を高める工夫を行っている。この審査展では、提出された論文も展覧会場で閲覧可能にするとともに、実技系学生は自分の作品が展示された場所において論文内容の公開発表を行う。通常、当該学位の審査委員会メンバーだけでなく、関連分野の多くの学生や学外の関係者が公開発表に参加し、質疑応答が行われる。展覧会後には、「博士審査展 作品・論文要旨集」が刊行され、作品写真と論文要旨、審査メンバー構成などの情報を簡便に参照できるようにしている。

この博士審査展は、従来各研究領域でばらばらにアレンジされていた作品公開・論文発表の場を一元化することで、作品や論文の相互比較が可能となり、かつより多くの人々に審査対象を公開する効果をもつものとして評価することができる。また、今後の課題として、審査展に対する外部有識者の評価等を記録・公開していくこと、審査対象をウェブ上でも閲覧可能にしていくこと、などが考えられるだろう。

採点評価の方式

審査委員会による評価は、現状では、「作品」「論文」各々につき点数制で評価され、両者を考慮した「総合評価」がやはり点数制で評価される。この評価方式の問題点は、上述のように評価対象としての「作品と論文」のウェイトが一定ではないため、数値的な扱いが難しいことである。この問題を回避するため、現状では、「総合評価」の評点づけについては作品と論文の評点の単純なパーセンテージ計算によって算出されるものとはしない、という申し合わせがなされているが、やや透明性に欠けるという批判は避けられないかもしれない。点数制と合否制を含めた、採点方式の明確化のための議論・検討が必要とされている、といえるだろう。

学内でのひとつの有力な意見として、実技系学生については「論文」の評価のみ合否制にする、というものがあり、検討に値すると思われる。しかしながら、「作品と論文」を審査対象とする実技系学生にも、論文により多くのウェイトを置く場合もあり(典型的な例は文化財保存学専攻の学生の場合である)、すべてを一律の基準にあてはめることは難しい。この問題は現実的に重要な検討課題であり、学内の多様な意見を聴取するとともに、国内外の他大学院の事例等も参照しつつ、慎重に検討を進める必要がある。

論文指導体制

論文の内容的指導については、当然ながら指導教員が担当し論文担当副査教員が補佐するものであるが、実技系学生は一般に論文執筆に不慣れな場合が多いこと、および近年における学位申請者の大幅な増加に伴って、指導体制の維持に現実的な問題が生じてきていた。具体的には、副査を担当する一部の学科系教員の過重負担、論文の形式的クオリティの低下、などの問題である。

論文執筆を予定している実技系学生には、ます基本的な執筆技術(編集、校正など)を学習させることが望ましいが、このような基礎的指導は指導教員あるいは副査教員による全面的個別指導よりも、担当指導者による集団的指導を最初のベースとした方がはるかに効率がよいといえるだろう。また、作品制作と論文執筆作業がうまく両立するように、適切なスケジューリングを示唆してやることも不可欠である。さらに、実際の執筆にあたって、経験のある指導スタッフが随時アドバイスを与える体制を確保することにより、社会から要求される論文の形式的クオリティ(文体や編集技術)を維持できると考えられる。

リサーチセンターでは、このような基礎的指導体制を試験的に構築し、平成20年度から試行している。今後も、審査担当の教員、指導にあたったスタッフ、指導を受けた学生たちからのフィードバックを継続的に調査し、どのような指導体制がより望ましいか、調査を続けていくことが重要である。

アーカイヴ化と参照性

博士学位授与にあたっては、審査対象および評価の公開性が非常に重要であるため、学位取得に関する情報を適切にアーカイヴ化するとともに、広く一般社会への公開性を確保していくことが求められている。現在リサーチセンターでは、過去に遡って博士学位情報のデータベース化の作業を進めており、近い将来にはウェブ上での公開も検討している。この作業は、個人情報保護の観点と作品制作者の著作権保護の観点を十分に考慮しつつ進める必要がある。

学位の国際的な位置づけ

博士学位は、その取得者が大学等の高等研究教育機関に教員として採用される際に、いまや非常に重要な採用条件の一部をなすにいたっている。さらに付随する問題として、本研究科において授与された学位が国際的にどのような評価上の位置づけを与えられるかという点も、考慮していく必要がある。典型的な例は、本研究科で学位を取得した留学生が、自国に帰って教育機関に就職するにあたり、学位評価がどのように行われ雇用条件に反映されるか、という問題があるだろう。もちろん学位をどのように評価するかは評価者側の判断にゆだねられるわけだが、本学が自ら授与する学位のステイタスについて、対社会的に説明可能な明確な定義を用意しておくことは重要である。

以上、課程博士学位に関する現状と当面の問題点・課題を簡単に整理してみた。実技系博士学位授与は、客観的評価基準になじみにくい「創作者としての能力の評価」の問題を中核にかかえているため、特別な検討を必要とする分野といえるだろう。芸術の創作能力に関する判断は高度に専門的・感覚的な評価に属することであるから、明文化されたシステムや数値的な評価基準にはなじまない、という意見がある。この意見には確かに一理あるだろう。しかし、大学院教育の一環である以上、芸術分野をあまりにも特殊化して見ることは、最悪の場合ブラック・ボックス化に通じてしまう危険がある。各領域の専門的判断を最大限尊重することを前提としつつ、審査・評価のプロセスに関しては公開性・透明性を確保し、対社会的に有効な学位授与システムのかたちをさぐっていくことが本学にとっての重要な課題である。そしてなによりも本質的な課題は、学位取得を目指すことが、学生本人の創作家としての成長にとって意義ある挑戦となり得るような制度を整備していくことだろう。

(平成20年度活動報告書序文)

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