リサーチ活動

Ⅰ.実技系博士学位授与に関する研究

3.「実践に基づく博士学位」について

美術研究科リサーチセンター主任 越川 倫明

平成21年度の本報告書序文でふれたように、実技系博士学位については諸外国で現に多様な議論の最中にあるが、そのうち最も具体的な形式を確立し、おそらく最も多くの高等教育機関で運用されているのが英国である。博士学位について、伝統的な学術研究ベースの学位に加えて、いくつかの種類の学位のあり方が実際に適用されてきたが、そのうち実技系美術大学院の学位は「実践に基づく博士学位 practice-based doctorate」のカテゴリーに入る。このカテゴリーの一部として、美術創作とデザイン、音楽(作曲、演奏)、舞台芸術が、ひとつの共通性をもった領域として議論される場合が多い(さらに文芸創作が含められることもある)。その主要な特徴は、学位申請者によって創作された「作品」が学位審査対象の重要な一部を占める、ということである。以下、このカテゴリーの学位に関する英国を中心とした議論の趨勢を概観する目的で、2つの関連する資料を紹介してみたい。

英国では「実践に基づく博士学位」の運用が1990年代に急速な増加を見せた。その間に各大学院で適用された学位規則にはかなりのばらつきがあり、このような状況下で、1997年に英国大学院教育評議会UK Council for Graduate Education(以下、UKCGEと略記)のワーキング・グループによって実態調査と検討が行なわれ、「創作・パフォーマンス諸芸術およびデザイン領域における実践に基づく博士学位」と題する報告書がまとめられた1。これは38ページから成る報告書で、各セクションでは学位の定義と意味づけ、規則のあり方と審査、他分野の学位との同等性の問題など、いくつかの根本的な問題が扱われている。ワーキング・グループは、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)学長のクリストファー・フレイリング教授を座長に、数名のメンバーで構成された。

それではこの報告書の基本的な提言を見てみよう。第一に、PhDの授与に関する基本的前提として、以下の3点があげられる2

  1. (1) PhDの授与は、旧来の所謂「科学的方法」の適用に基づく主題に限定されるものではない。
  2. (2) この報告書で扱われるのは作品制作(=「研究」の成果物)が記録可能な創作物として生じる主題に限定される。
  3. (3) 創作物が高い質的水準にあるというだけではPhDの授与には結びつかず、それは「知識と理解 knowledge and understanding」への新しい貢献として他者に伝達可能な研究成果として提示されなければならない。

この3番目の論点が報告書の方向性を大きく決定づけている点であり、その結果、PhD授与の原則として、(1)研究成果が知識と理解への認識可能な貢献をもつこと、(2)学位申請者は研究の方法に関する批判的知識を示さねばならないこと、(3)審査対象に関連する口頭試問が適切な評価者によって行なわれること、が挙げられている。

このように、UKCGEの報告書は、研究の「成果物=作品」と「方法・プロセス」を区別し3、具体的には、後者は文字による記述(論文)によって表現されるものとなる。英国において実技系大学院が採用している「作品展示」と「論文」の評価を組み合わせた学位審査は、基本的にこのような考え方に沿った方式といってよい。一般に、そこでの「論文」の比重は決して軽くはなく、平均的にいって3万~4万語の規模である(おおまかに日本語に換算すれば、9万~12万字≒400字詰めで200~300枚)。

UKCGEの報告書に示された方向性が、現行の英国の実技系学位授与の一般的標準となっている一方で、この報告書の考え方に対するはっきりとした批判的立場も存在する。その例として、2000年にフィオーナ・カンドリン(ロンドン大学、バークベック校)が発表した「実践に基づく博士学位と学術的正当性の諸問題」と題する小論文を挙げておこう4。ここで筆者は、3年前に発表された上記のUKCGE報告書の方針を議論の俎上にのせ、とりわけ、上述の「成果物product」と「プロセス」の区分に対して批判を向けている。

重要な点は、この〔創作物に対して〕文脈を形成する「理論」への要請は、理論と実践の統合への要請ではない、ということである。……むしろそれは、美術作品に対して理論を優位に置こうとしている。なぜならば、PhD学位のステイタスを与えることができるのは理論的構成要素である、とされているのだから。この方針は、博士課程の研究が「実践」のみであるような学位申請者を規格外の存在にしてしまうのみならず、博士課程における研究のなかで美術の実践の位置づけをあいまいなものにする。UKCGE報告書の考え方では、いかに理論に精通し批判的内容を含むものであっても、美術作品それ自体は「研究」として機能することはできず、枠組みをなす理論的調査の言語記述を通じてはじめて「研究」として評価されるのである。換言すれば、美術の実践はいかに洗練された認識と豊富な理論的内容を含もうとも、いかに一連のアイディアを探究するものであろうとも、伝統的な学術研究の用具〔=論文〕によって補助されないかぎり、「研究」として認められることはないわけである5

このようにカンドリンは、研究の成果物である作品自体は、プロセスを説明し評価可能にするものとして不十分であるという、報告書の趣旨に疑問を投げかけ、究極的には「イメージ」と「言葉」を分離し、「客観的」意味伝達の手法としての「言葉」の優位を前提とする報告書の態度を批判している。

UKCGE報告書は「実践に基づく博士学位」に共感的な態度で書かれてはいるものの、美術作品と伝統的学術慣習、実践と理論、さらには学術世界の性質そのものに対して、実質的な意味での再検討を加えたものとはいえない。むしろ、美術作品は文字で書かれたコメントによって下支えされ説明される必要があると主張することによって、美術作品は理論的解説を通じてのみ「研究」としての有効性を確保できる、とみなしている。そうすることで、伝統的な学術慣習のイメージを保持しようとしているわけである。……実際のところ、報告書は旧来の学術世界の境界線を切り開いて異なった思考と実践の諸方法を認めようとしているわけではなく、美術の実践を伝統的な学術慣習の内部に押しとどめようとしているのである6

以上に紹介した2つの資料が端的に示しているように、芸術分野における「実践に基づく博士学位」の問題は、先行して運用が広まっている英国においても依然として多くの議論の対象である。UKCGE報告書は確かにひとつの学位評価の標準的なかたちを提示し、現行の多くの実技系美術大学院がこの形式に準拠して制度運用を行なっている。しかしながら一方で、美術作品がそれ自体として理論や批判的考察の表現であり得ること、その内容は多くの場合言語による表現に還元し得ないものであることは、創作や批評の現場に関わる者は誰もが認識している事実であろう。

以上の論点は、「作品」と「論文」の関係をいかにとらえるかという問題に、さらには「作品のみの評価によって博士学位を授与することはできないのか」という疑問に、文字通り直接的に関わる論点である。現在のところ、単純明快な回答が見出されることはなさそうだが、芸術系大学院にとっては最も根本的な問題であり、将来に向けて今後も考察を重ねるべき中心的課題のひとつだといえる。

(平成22年度活動報告書序文)

  •  
  • 1:UK Council for Graduate Education, “Practice-based Doctorates in the Creative and Performing Arts and Design,” 1997. 同報告書のPDFコピーを提供してくれたUKCGE事務局に感謝する。
  • 2:同報告書、pp. 8-9.
  • 3:同報告書、p. 16.
  • 4:Fiona Candlin, “Practice-based doctorates and questions of academic legitimacy,” International Journal of Art and Design Education, vol. 19 (1), pp. 96-101 (available at http://eprints.bbk.ac.uk/737/). 著者カンドリンはロンドン大学バークベック校のシニア・レクチャラーで、ミュージアム研究を専門とする。
  • 5:Candlin, 前掲論文、p. 6 (ウェブ版).
  • 6:Candlin, 前掲論文、pp. 11-12 (ウェブ版).