リサーチ活動

Ⅳ.海外実技系博士プログラムに関する調査

4.ヨーロッパにおける実技系美術博士号授与システムに関する聞き取り調査

五十嵐 ジャンヌ

調査概要

リサーチセンターでは昨年度に引き続き、海外の実技系美術大学院の現況調査を行った。調査対象は、フランス国立高等美術学校(通称:エコール・デ・ボザール)とチェコ国立ブルノ工科大学である。前者は美術教育の長い伝統があり、後者は中欧大工業都市に設立された技術分野に特化した大学である。

1.エコール・デ・ボザール(フランス共和国)
① エコール・デ・ボザール概要

フランス・パリ市のエコール・デ・ボザール(ENSBA: École nationale supérieure des Beaux-Arts)は、1643年フランス王立絵画彫刻アカデミーの付属学校として設立された。18世紀末フランス革命後アカデミー付属学校は廃校となったが、19世紀初め帝政期に建築アカデミーと統合した形で復活し、1819年エコール・デ・ボザールと改称された。その後、1968年に建築が切り離されるも、当校は実に360年以上の伝統をもつ美術教育機関である。

当校では、現在3年間の第1課程と2年間の第2課程(研究課程)からなる計5年間の教育課程が設けられている。4年次(第2課程1年次)は研究の準備や構想にあたり、5年次前期には研究論文を提出し審査を受けなければならない。

2009-10年度の総学生数は530名(女性307名、男性223名;フランス人430名、留学生100名)、同年度第1課程新入生は77名、第2課程は47名、2009年第1課程修了者は87名、第2課程修了者は103名である。

② ボローニャ・プロセスに基づく教育制度への移行

2002年にボローニャ・プロセスに伴い、フランスでは学士(licence)、修士(master)、博士(doctorat)の学位に基づくLMD教育課程システムが導入され、現在ボザールにおいても旧システムからLMDへ移行途中の段階である。今回、国際交流課長ロランス・ニコッド氏らの協力のもと、以下のことが明らかになった。

数年来検討が重ねられた結果、2010年度前期に造形芸術高等国家免状(DNSAP: Diplôme national supérieur d’arts plastiques)が修士号(master)と同等の学位であると、国の研究高等評議会によって承認されたばかりである。2011年には初めての修士号(=DNSAP)が授与される予定である。システム移行に伴い、上記した修士課程(第2課程)での論文執筆が必須となったのは2009年からである。一方、博士課程は2011年2月現在まだ設けられていない。

学校案内書によると、第3課程(博士課程)を設けることについては「大きな挑戦」とし、近年実現予定としている。この研究課程は3年間とし、造形美術と自らの制作に適った理論研究を行う学生を受け入れる予定である。エコール・デ・ボザールとしては、2011年度からこの第3課程の研究・分析に取り組む予定である。

2.ブルノ工科大学(チェコ共和国)

チェコ共和国第二の都市(オーストリア・ウィーンに近いモラヴィア地方中心都市)であるブルノ市には、マサリック大学(Masaryk University;Masarykova univerzita)とブルノ工科大学(Brno University of Technology;Vyscoké učení technické v Brnè)の2大学がある。今回聞き取り調査を行ったのは、ブルノ工科大学美術博士課程担当のラデック・ホラーチェック氏である。ホラーチェック氏はマサリック大学の教授も兼任しているため、本インタビューはマサリック大学教育学部校舎内の教授研究室で行われた。

① ブルノ工科大学美術学部の概要

1899年に設立されたブルノ工科大学は、現在では、建築、化学、電気工学・コミュニケーション、情報技術、ビジネス・マネージメント、市民工学、機械工学、そして美術の計8つの学部からなる。

ブルノ工科大学美術学部(FaVU:Fakulta výtvarných umění)は1993年に開設された新しい学部である。15の研究室(アトリエ)があり、常勤教員の人数は40名である。学士課程(bachelor)は4年間、修士課程(master)は2年間、博士課程(PhD)は3年間と定められている。現在、学部学生は161名、修士学生は87名、博士学生は16名が在籍している。

ヨーロッパで提携している学校は29校に及ぶが、アジアでは東京と上海の2校のみである。長期留学生はスロヴァキアから19名(学部生9名、修士10名)をはじめ、ベラルーシから2名(学部生1名、修士1名)、ボスニアから修士2名、ブルガリアから修士1名と、東欧出身者のみである。この理由には、チェコ語という通用言語の問題があるようだ。

なお、現在すでに博士号を取得した者は5名おり、全員チェコ人である。なお、博士課程での英語による授業を検討していることもホラーチェック氏は明らかにした。

② 実技系美術博士課程の現状と学位授与システム

美術博士号授与にあたっては、国家試験、論文、審査が必須である。まず国家試験をクリアすることが前提条件である。博士課程では修士課程とは異なり、より理論に力を入れているため、評価にあたっては、論文が50%、「デザイン(構想と実践)」(具体的には企画、展示、カタログ作成)が50%である。博士課程では彫刻などの実技の授業の選択もあるが、制作作品単体の審査はなく、あくまでも作品の展示、企画といった社会に向けての実践が求められる。したがって、純粋に実技系ではなく、アート・マネージメントとパブリック・アートに関する博士課程しか存在していない。

3年間の博士課程のうち、はじめの2年間で論文の構想を立てる。博士課程のプログラム(2011年2月24日作成)は以下の14のテーマからなる。

  1. 公共機関における環境コンセプト
  2. 書物:出版業界での目的
  3. 美術機関のマーケティング戦略
  4. 建築におけるペインティングの実践
  5. 3Dの国際的協力発展
  6. ガラスの反射光:公共空間
  7. 聖なる美術
  8. 小ギャラリーの役割
  9. 現代アートのアイデンティティ
  10. キュレーターの役割とアーティスト
  11. パフォーマンス・アート
  12. 公共空間とイマジネーション
  13. グラフィズムと公共空間における視覚コミュニケーション
  14. 様々な特殊化、その概念、実際の形体とのコーディネートによる環境美術

図書館で博士論文2冊を閲覧したところ、1冊は展覧会企画に関する内容、もう1冊はアート・マネージメントについてであった。図版入りで、ページ数はいずれも130から140に及んでいる。なお、修士課程においても論文が必須であり、30ページ分の文字数が設定されている。また、作品に沿ったものではなく、作品とは独立した論文を執筆することが求められている。一般に論文の審査にあたっては、国家の法律に従って最低3名の審査員を要するが、美術系の論文においては実際には、実技の教員やアーティスト、さらに理論系の教員からなる計12名が審査を行っている。

③ 実技系美術博士号取得者のその後

博士号取得者には大学機関でのポスト(まずは助手など)がある。美術館、画廊関係の仕事に就いた者もいる。審査に合格すれば、博士研究員(post doctor)で3年間、国家から給与が支払われるが、現在、実技系美術の博士研究員はいない。

④ チェコ・スロヴァキアにおける実技系美術博士課程を有する教育機関

チェコ国内では、4つの教育機関において、実技系美術博士課程が設けられている。ブルノ工科大学以外では、プラハ美術アカデミー(Academy of Fine Arts in Prague;Akademie výtvarných umění v Praze)、プラハ美術建築デザイン・アカデミー(Academy of Arts, Architecture and Design in Prague;Vysoká škola uměleckoprůmyslová v Praze)、ヤン・エヴァンゲリスタ・プルキネ大学美術デザイン学部(Faculty of Art and Design at Jan Evangelista Purkyně University in Ústí nad Labem ;Fakulta umění a designu Univerzity J. E. Purkyně v Ústí nad Labem)である。一方、スロヴァキア国内にはブラティスラヴァ美術デザイン・アカデミー(Academy of Fine Arts and Design in Bratislava; Vysoká škola výtvarných umení v Bratislave)の1校のみである。

⑤ 実技系美術博士課程開設の経緯と位置づけ

ブルノ工科大学における美術博士課程は、もともと同大学の要請で開設された。同大学の工科系大学院博士課程のシステムとの兼ね合いで美術博士課程が整備されたため、直接的に社会貢献とみなされるアート・マネージメントとパブリック・アートの分野のみに博士課程を設けたという経緯がある。こうして、論文を自作品へのコメントと位置づけているプラハの美術アカデミーとは大きく異なり、ブルノ工科大学の美術博士課程では理論を重視することとなったとホラーチェック氏は述べていた。また、同氏は、アーティストが論文を書くこと自体に違和感があるようで、アーティストの自主性を重んじたいと、個人的な考えを述べていた。同大学ではあくまでも社会的構想・実践が重視され、現時点では今後純粋に実技系の美術博士課程を設ける予定はないものと思われる。

(平成22年度活動報告書)