リサーチ活動

Ⅲ.インタビュー集

1.シベリウス・アカデミーの博士課程に関する報告と議論
―グスタフ・デュープシュバッカ先生(シベリウス・アカデミー学長)をお招きして

中村 美亜

  • 日時:2009年11月25日(水)13:00-14:30
  • 於:東京藝術大学本部第2会議室

グスタフ・デュープシュバッカ先生

グスタフ・デュープシュバッカ Gustav Djupsjöbacka
2004年よりシベリウス・アカデミー学長。ピアニスト。専門は歌曲解釈。1977年シベリウス・アカデミーでピアノ・ディプロマを取得、78年ヘルシンキでデビュー・リサイタル。1983年からヘルシンキ音楽院で歌曲解釈のクラスを担当の後、88年からシベリウス・アカデミーで歌曲解釈の講師を務める。欧米各地の音楽院や大学でマスタークラスや、コンクールの審査員をつとめる。2005年に音楽博士号を取得。日本フィンランドセンター財団理事。
§1.プレゼンテーション

プレゼンテーション

デュープシュバッカ(以下D):
 お招きいただきまして、ありがとうございました。最初に私の方からお話をさせていただきますが、重要なことは、一方的に話をするのではなく、その後のダイアローグを通じて、質問や答えをすることを通して、理解を深めることだと思いますので、ぜひよろしくお願いします。

本題に入る前に、ヨーロッパで進行しているボローニャ・プロセスに少し触れたいと思います。ボローニャ・プロセスというのは、各国どうしの学生の移動を可能にするために数年前に設けられたもので、シベリウス・アカデミーもそれに沿ってプログラムを変更してきています1

プレゼンテーション

プレゼンテーション

ヨーロッパでは、学士号がプロフェッショナルになるための最初の学位ですが、現実には、修士号が基本の学位になってきています。今日、学士号のない大学はありません2。シベリウス・アカデミーでは学士号を持っている人たちを受け入れて、主に修士課程の教育をしています3。ボローニャ・プロセスによる学生の流動化の一環として、ECTS(European Credit Transfer System)という単位の互換制度を採用しています。60単位が1年、1単位が1週間の履修にあたります。

もうご存知だと思うので、繰り返す必要はないと思いますが…。そういえば、先ほど言おうとしていたことを思い出しました。シベリウス・アカデミーは芸大よりも5歳年上でしたね。1882年設立でしたから…(笑)学生数は最近ちょっと減っています。減少しているというのは、旧制度から新制度への移行期にあたるからで、新制度にうまくあたっていない旧制度の人たちは、今、ここに入ってこないということです。中には、学位をとるまでに20年もかかる人たちもいるので…(笑)。今、博士課程の学生数と学部生の割合を調整していて、博士の学生数が10%になるように努めています。

すでにシベリウス・アカデミーのウェブサイトからご存知かもしれませんが、シベリウス・アカデミーには10のプログラムがあります。基本的には、どのプログラムでも博士をとることができますが、最新の二つのプログラム、アート・マネージメントと音楽テクノロジーではまだ博士が出ていません。

プレゼンテーション

学士号のためには、3年間で、180単位必要です。修士号は330単位必要です。つまり、2年半の修士課程履修に相当します。その後、博士ですが4年かかります。

プレゼンテーション

先ほどシベリウス・アカデミーには歴史があると言いましたが、博士課程に関しては芸大よりも若いです。1990年に博士を初めて輩出し、現在100人程度の博士取得者がいます。

プレゼンテーション

シベリウス・アカデミーには、3つの博士プログラムがあります。原則的には、どの専攻の学生も3つのプログラムの中からどれかを選ぶことができます。一つめがリサーチ・プログラムですが、これは、従来の研究中心のプログラムです。次のディベロップメント・プログラムは、リサーチと実技が半々なものです。最後のアート・プログラムが、実技中心のプログラムです。

プレゼンテーション

まず最初にお話するのがアート・プログラムです。これは、おそらく芸大の方にも興味を持っていただけるものだと思います。アート・プログラムに関しては、対立する二つの意見があります。先ほど伺ったのですが、芸大でも同じ議論があるそうですね。一方では、演奏家は、演奏だけしていればいいというもので、もう一方は、演奏家も研究をすべきだというものです。しかし、修士号をとった学生が、継続して大学で教育を受けたいと思ったときに持っている選択肢は、博士課程しかないということは、心に留めておかなければなりません。もちろん、演奏家から研究者を育てようとは考えていませんが、研究者にはならなくても、研究というツールを通して、アーティストとしての研鑽を積んでいくことは可能なことでしょう。

プレゼンテーション

アート・プログラムに関して、もう少し詳しくお話しましょう。博士課程では、50単位の基礎的訓練を履修しなくてはなりません。芸術に関する基礎的なものや、研究の方法について学ぶものです。もっともウエイトがあるのは芸術プロジェクトで、演奏家の場合は5つのコンサートをすることになっています。5つのコンサートは、5年以内に終えることになっており、これらが165単位に相当します。それから、短めの論文があります。3つを合計すると240単位になります。

プレゼンテーション

先ほど、芸術プロジェクトでは、演奏家は5つのコンサートをすると言いましたが、コンサート以外の方法でも可能です。例えば、公表されたCD(Published CD)で、コンサートの一部を置き換えることができます。もちろん、作曲家の場合は、事情が異なっていて、作曲と実演が芸術プロジェクトに相当します。各コンサート終了後には、5人の審査員から構成される委員会により審査があり、そこで合格と認めなければ、単位にはなりません。5つのコンサートと論文がいっしょになって、学位取得のための最終試験を受けることになります。1997年以降、シベリウス・アカデミーは100人程度の博士を輩出しましたが、その内57人がアート・プログラムから巣立っています。

プレゼンテーション

こちらがアート・プログラムの例です。何人かの日本人も博士課程を修了しています。ピアノでは3人の日本人がいたと思います。二つめに、ノルドグレーンのピアノ作品における日本の女性性というのがありますが、ノルドグレーンは、日本で作曲を学んだ作曲家です。

プレゼンテーション

その他の例は、ご覧の通りです。

プレゼンテーション

二つめは、ディベロップメント・プログラムです。これは、研究と実践的な音楽活動を結びつけるものです。典型的なものとしては、新しい音楽の教授/教育方法の提案です。実際に、そうした教授/教育方法を示したり、それに関する本を出版したりします。もしかしたら、このプログラムは理解しにくいものかもしれません。アート・プログラムは実践中心のものですし、リサーチ・プログラムは研究中心のもので、わかりやすいと思うのですが、このディベロップメント・プログラムはこの二つを融合したものです。

プレゼンテーション

この表を見てください。先ほどと単位の内訳が変わってきます。理論的な部分の比重が重くなって、75単位になります。そして、残りの部分は、実践のプロジェクトであったり、プロジェクトに関する記録である「プロジェクト・ポートフォリオ」になります。

プレゼンテーション

「プロジェクト・ポートフォリオ」ですが、実際には、コンサートを開いたり、教授方法をデモンストレーションしたり、教材を作ったり、コンピューターのソフトウェアの開発をしたりします。基本は、方法論を新しく生み出し、それをアウトプットするということです。このプログラムでも、最後には、公開の審査がおこなわれ、ポートフォリオに関する議論(ディフェンス)がおこなわれます。これまで8人の博士学生が修了しています。

プレゼンテーション

この研究の内容は、先ほどのアート・プログラムとは随分異なっています。例えば、一番最後のものは、新しい記譜法を提案しています。それから、これは、妊娠しているお母さん向けの鈴木メソッドの応用に関してのプロジェクトです。

プレゼンテーション

最後が、リサーチ・プログラムですが、これはもっとも馴染みのあるものなので、説明は不要です。典型的なPh.D.です。35人の博士が出ています。

プレゼンテーション

ご覧のように、他のプログラムに比べると、より大きな単位の割合をリサーチにあてます。それから、リサーチ・プロジェクトにあたる博士論文があります。

プレゼンテーション

これが、リサーチ・プログラムの例です。二つ目は、学習方法に関するものですが、一般の多くの人にも知られるようになったものです。というのは、多くの人が「私は歌うことができない」と言っていますが、「そんなことはない」ということを示したものだからです。興味深いのは、学生自身が、これまで何年もかけて歌うことを探求してきたので、その体験に基づいて「どうしたらうまく歌えるようになるか」について書いたことです。

プレゼンテーション

最初のものは、フィンランドにおける新しい音楽教育カリキュラムの移行に関するもので、これを応用しながら、どのようにレパートリーを広げていくかということを提案する論文です。

これでパワーポイントによるプレゼンテーションを終了します。これを土台にしながら議論に入っていきませんか?

§2.ディスカッション
① 修了後の進路
Q:
 博士がほぼ100名出ているそうですが、この人たちは社会に出てから、どのような仕事をなさっているのか、具体的に教えていただけないでしょうか?
D:
 博士の人で、仕事がないという人はいません。私たちは、一般の人向けの音楽学校、音楽の専門学校、音楽院との幅広いネットワークをもっています。博士は、たくさんの音楽専門学校や音楽院で教えています。もちろん、シベリウス・アカデミーの教授陣にも、博士修了生がたくさんいます。もっとも有名な博士は、ジュリアードで教鞭をとっています。リサーチ・プログラム出身者の一人は、25年に及ぶシベリウスの校訂楽譜出版プロジェクトのチーフ・エディターを務めています。
Q:
 演奏家になる人の数は、多くないのでしょうか?
D:
 フィンランドでは、演奏だけで生活ができるということはありません。演奏活動と他の仕事、教えることなどをいっしょにやりながら生計を立てています。中には、「演奏家だったら、博士課程を修了する時間などないはずだ」という人がいます。「そんな時間があったら練習をすべきだ」と。ただ、私は、演奏や方法について思考をめぐらすことと、実際の演奏を組み合わせることで、真に創造的な活動ができると思っています。学術系の研究では、リサーチを通じて結論を導き出すのですが、芸術家は、そこから創造的なことをしていかなくてはなりません。
② 論文の指導・分量
Q:
 実技系の学生は文章を書くのが不得意です。芸大でも、それでとても苦労しているわけですが。シベリウス・アカデミーではいかがですか?
D:
 まず修士で、何らかの音楽学的なトレーニング、あるいは、文章を書くトレーニングをして準備をしておくことが肝要でしょう。修士課程でやってみて、できそうだという学生のみが、博士に入ることができるというように…。
Q:
 博士課程で、ピアノだったら、ピアニストが指導するわけですが、論文を書くのは誰が指導するのでしょうか?
D:
 それは、研究の先生です。ピアノの教授ではありません。ただ、シベリウス・アカデミーの博士プログラムを設計したのは、ピアノの教授で、Ph.D.を持っている人です。もちろん、論文を書く能力が二年やそこらで身につくものではないことは理解しています。だからこそ、それを克服するためのアイディアを持たなくてはなりません。私たちのところでは、毎週セミナーを開催しており、学生は毎週、批判的なコメントをしたり、ディスカッションをすることで、ライティングに必要な能力向上をはかっています。
Q:
 アート・プログラムの場合に、演奏だけでなく、論文がくっついてくるわけですが、どの程度の分量の論文を書くのですか?
D:
 正確なページ数を言うことはできませんが、だいたい100-150ページぐらいでしょうか。ただ最近では、DVDとタイアップさせているというものもあります。その場合は、DVDとの組み合わせで分量が決まってくるでしょう。
③ 博士号の種類
Q:
 この3つのプログラムなんですが、どれもPh.D.なんでしょうか?
D:
 Doctor of Musicです。シベリウス・アカデミーでは、Ph.D.を授与する権利は取得していません。リサーチ・プログラムもDoctor of Musicです。これまでリサーチ・プログラムを説明する時に、Ph.D.という言葉を使いましたが、それは内容がほぼ同じだからです。
Q:
 それはアメリカのDMA(Doctor of Musical Arts)という学位と同じですね。その場合、社会に出てから、Ph.D.と同等に博士として評価されるのですか?
D:
 ええ、まったく同じです。キャリアの上では差はありません。
④ ディベロプメント・スタディ・プログラム
Q:
 ディベロプメント・スタディ・プログラムは、需要が増えていく感触をお持ちでしょうか?
D:
 そうは思いません。大学の規約(University Act,Registration Law)が、アーティスティックな学位とリサーチの学位の二つと定められ、この二つが基本となったので、その間をいこうとするディベロップメント・プログラムが今後、メイン・ストリームになっていくとは考えにくいのです。そのことには学生数にも現れています。私自身の学位は、ディベロップメント・プログラムでしたが、演奏の学位にも非常に近いものでした。このプログラムの内容は、定義するのが非常に難しいのです。新しい方法を模索しながら、実践にどのように生かせるかを考察する研究というのは、リサーチの要素が大きいわけですから、リサーチの学位に近くなっていくでしょう。なので、学位は、やはりアーティスティックな学位か、リサーチの学位かの二つに一つということになるのでしょう。
 もう一つ心にとどめておいた方がいいのは、他の大学でのPh.D.の内容です。Ph.D.のプログラムでも、ポートフォリオの内容に近い博士論文が増えています。いくつかの論文を組み合わせたり、他のプロジェクトと組み合わせるというリサーチは増えてきているので、ディベロップメント・プログラムに関して説明した内容は、そうしたリサーチの学位として認められていくのではないでしょうか。例えば、生物学の分野では、一つの大きな論文という形をとらず、5つの論文の組み合わせたような博士論文が出ています。つまり、学術分野においても、博士論文の中身が変わってきているのです。このようなことを考えると、ディベロップメント・スタディは、新しい形のリサーチだと言えるでしょう。演奏の学位ではなく、リサーチの学位というふうに。
⑤ 論文の比重と内容
Q:
アート・プログラムでは、論文の比重が少なすぎるのではないかという意見や、逆に、論文は必要ないんじゃないかという意見の対立はあったでしょうか?
D:
 答えは、そうともいえるし、そうでないともいえます。シベリウス・アカデミーの演奏の先生たちは、一般に論文は重要だと考えています。ただ、学外の批評家の中には、演奏家には論文は必要ないという人たちがいます。私は、音楽をするということは、美的な活動であると同時に、知的なプロジェクトだというふうに強く考えています。したがって、私にとっては、何らかの論文が課されることは当然のことだと思われます。リサーチ・プロジェクトのように、論文を書かれなければならないとは思っていませんが、何らかの方法で、芸術的な経験をコミュニケートする必要はあると、私たちは考えています。書くというのは、コミュニケーションをはかるのによい方法です。芸術表現を補強するものとして、最適なものだと思います。それを考えれば、非常に厳格な論理構成だったり、科学の専門書のような書き方である必要はないはずです。
 興味深い例としては、5つのコンサートを通じて、自分の芸術的思考がどう変化してきたかを熟考してみたり、どういう新しい解釈が生まれたか、どのような歴史的な情報を得たかについて、論文を書くということがあるでしょう。もっとも印象的な例は、先ほどお話したジュリアードの教授になった同僚ですが、彼は5つのコンサートでベートーヴェンのピアノ・ソナタを取り上げました。全てのソナタではないのですが、20曲演奏をおこない、論文では、フィンガーリングについて論じました。論文と実技のとてもよい組み合わせです。これは、リサーチ・プロジェクトとしても認められるようなリサーチの内容を持っていたので、やや特殊な例なのかもしれません。しかし、私たちはかなり多様な内容の論文を受け入れています。とはいえ、コミュニケーションが可能で、熟考を経たものであることは最低条件になります。
⑥ アーティストが論文を書くこと
Q:
今の話は、我々にとってとてもうれしく、興味深いものでした。芸大のリサーチセンターは、そのことを模索しているんです。どういう内容にするのか、どういう書き方か、それから、演奏家にとって自分の演奏とどれだけ密着したことが書けるのか、そういうことをやっています。
D:
 音楽学や学術分野の論文は10年のトレーニングをして書けるようになるものであり、それを音楽院の学生が2年でできるようになると言うのは、嘘をつくようなものです。面白いのは、他の分野の人たちは、アーティストが言葉で語ることに興味を持っています。
 ですから、おそらく最善の方法は、新しい形や方法の組み合わせによる学位のあり方を生み出すことでしょう。それによって、音楽以外の分野にも影響を与えることもできるはずです。先ほどお話したように、生物学では、もうすでに博士学位の新しいモデルを提案しています。私たちも、アーティストの博士学位のあり方を説得力のある形で提案していこうではありませんか。
 ただ、独りよがりの表現方法ではいけないので、相互のコミュニケーションを可能にする方法で、自分のことを表現していく言葉が必要でしょう。私たちの経験では、演奏の学生は、たいていこの論文を書くこと(アカデミック・ライティング)が好きで、一生懸命やっています。彼ら/彼女らにとって、新しいもので、重要なものになっています。言語表現は、芸術表現を深めるための一つの新しいアプローチです。音楽の博士プログラムから、リサーチや学術的な要素をすべてなくしてしまい、論文を書く必要をなくすのは、よい解決法とは思えません。もちろん、それは音楽学の論文ではなく、芸術活動の別の表現としての論文であることが必要です。
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  • 1:ヨーロッパにおける高等教育機関に統一した学位制度、単位互換制度を設けるために1999年にボローニャ宣言が採択され、その後、一連の「ボローニャ・プロセス」が進行している。
  • 2:ボローニャ宣言以前、ヨーロッパでは、大学の基本学位は修士であり、学士号は一般的ではなかった。つまり、学部卒業の年数や課程の内容は、学士と修士を合わせたものに相当していた。
  • 3:シベリウス・アカデミーの学部課程は、日本で言う、学士と修士の一貫教育に相当していた。今でも、学部では、修士修了希望者のみを募集する。他大学の学士取得者が編入することが可能になるように、近年、制度改革をおこなった。