リサーチ活動

Ⅲ.インタビュー集

4.パリ高等音楽院のプログラム改正 ―クレール・デゼール先生を迎えて

吉川 文

  • 日時:2010年7月8日(木)18:00-20:15
  • 於:東京藝術大学音楽学部第1ホール

クレール・デゼール

クレール・デゼール Claire Desert
ピアニスト、パリ国立高等音楽院器楽科室内楽教授。
14歳でパリ国立高等音楽院に入学。一等賞を獲得して同大学院修士課程に進み、フランス政府から奨学金を得てモスクワに留学、チャイコフスキー音楽院にてエフゲニー・マリニンに師事した。

東京藝術大学演奏芸術センター主催で行われたデゼール教授の講演会では、「ボローニャ・プロセス」に対してパリ国立高等音楽院のような歴史ある音楽院がどのような対応を行っているのか、非常に具体的に示された。新たな動きを取り入れる中で生じるメリット、デメリットについても率直に語られ、教育改革の大きなうねりの中で単にその流れに飲み込まれるのではなく、新たな枠組みを活かし、時代の要請に応じた優れた学生たちを育てていこうとする柔軟な姿勢が表れていたように思う。
以下は、当日の講演とその後の質疑応答の概要である。

講演「ボローニャ・プロセス―ボローニャ宣言に基づくさまざまな大学改革について」(通訳:小林新樹)
§1.フランスにおける音楽の高等教育

 フランスにおける音楽の高等教育の特殊な点は、国立の高等音楽院がパリとリヨンの2か所のみで、非常に集中化しているということです。フランスの音楽教育は3段階(エコール、地方音楽院、国立高等音楽院)に階層化されていますが、ピラミッドの頂点に立つのがこの国立高等音楽院で、入学するには大変難しい試験に合格しなければなりません。エリート式とも言えるこのやり方は、フランス特有のものです。

§2.教育内容の多様化とLMDシステム

私がかつて高等音楽教育として学んだことと、現在の学生が学ぶこととではかなり違いがあります。かつてのパリの国立高等学院の教育は、特定の楽器の演奏者を養成するというものでしたが、10年ほど前から、教育内容を豊かにし、総合的な音楽家の育てようという方向がとられるようになってきました。従来の器楽演奏+ソルフェージュ、分析、初見という形に、音楽演劇や民族音楽学、インド音楽、ジャズ、即興演奏といった新課目が加わってきたのです。さらに、ここ3年、これからお話するLMD、あるいはボローニャ・プロセスという新しいシステムに加わることになり、この改革は、今までのパリ音楽院の教育課程を大きく変えることになりました。音楽を勉強するということの捉え方自体が変わってきたのです。

LMD と呼ばれるこの新しい改革には、教育内容の幅の拡大のほか、後述するEU 各国共通レベルでの学位の設定、ECTS と呼ばれる単位認定制度があります。改革のもうひとつの目的は、フランスの大学システムとの連携による、音楽学の研究等の重視です。演奏家にとっての研究が具体的にどういう形でできるかは、現在模索中です。

§3.LMDシステムの実際~Licenceの課程について

それでは、EUレベルで導入されつつあるシステムLMDについてお話したいと思います。LはLicence(第一課程=学部)、MはMaster(第二課程=修士)、DはDoctor(第三課程=博士)を意味しています。

Licenceは勉学期間として3年を標準とし、すでに持っている等級によっては2年で済ませることも可能です。このLicenceへの入学には、今まで同様入学試験を受ける必要があります。入学要件として(LMD導入により)今までと変わったのは、その国の言語についてB1レベルの獲得が必要とされている点です。フランスの場合には、入試で演奏のほかに[訓練されていない留学生にとっては比較的ハードルの高い]初見とソルフェージュが課されること、入学に年齢制限があることが特徴です。

Licenceでの3年間は毎年期末に試験が行われます。現在は、Licence 3年目の期末に自分の選んだ曲目(現代曲も可)で50分間のリサイタルの開催が求められ、優(tres bien) か良(bien) で合格すれば、直ちにMasterの課程に入ることが出来ます。

§4.Masterの課程について

Masterの課程は2年間で、曲目自由のリサイタル形式の試験が毎年あるほか、補完的な課目として、いくつかの単位を取る必要があります。自由選択科目には、たとえば舞踊の伴奏、即興演奏、音響学、民族音楽学、専攻楽器以外の楽器の習得や、新しく加わった研究手法論等も含まれます。その他、音楽を職業としていくための様々な知恵をつけるという観点から、音楽教育者としての手ほどきや、音楽家としての実際的な側面についての教育もあります。必須のものとしては外国語の習得が課せられます。もうひとつの義務的な項目は個人研究論文です。学位論文ほどではない、卒業論文的なもので、テーマは全く自由に選ぶことができますが、パリ音楽院にいる間に書きあげる必要があります。外国からの留学生は、ある程度のフランス語を習得していないとこの義務項目がどうしても果たせません。このMasterの課程を修了すると、パリ音楽院としての主要な免状(かつての一プルミエ・プリ等賞に相当)を獲得したことになります。

§5.Doctorの課程について

Masterコース修了後は2つの選択肢があります。ひとつは、Doctorのコースです。パリ第4大学と提携した形をとり、LicenceやMasterでの卒業論文より内容の濃い、学位論文的なもの(150頁以上)が要求されます。MasterからDoctorに直接つながる道はなく、Doctorを志望する場合は非常に厳しい入学を受けることになります。これとは別に、Diploma of Artist というアーティストとしての免状(かつての「第三課程」に相当)があります。一流の演奏家として身を立てようとする人のためのコースで、課程のあいだ、ひとつの楽器の演奏のみ集中的に勉強します。いずれも2年間のコースです。

§6.大学機関との連携

パリ音楽院では、Licenceの3年間に、希望者はパリ第4大学(ソルボンヌ大学)で追加の講義を受けることが可能です。半年に1課目ずつ、①人文社会科学入門②クラシック音楽の分析③選択自由の3課目をとると、パリ第4大学の音楽学のLicenceが取得できるというシステムです。

§7.ECTSによる単位互換とErasmusによる留学

現在、高等教育の学生に対し、他国に行っていろいろな情報を仕入れたり、いろいろなものの見方に触れたりすることが奨励されています。これはパリ音楽院においてとても新しい事態です。私が学生だった頃は、勉強はすべてパリ音楽院でするのが当然で、外国留学は難しかったのです。今回EUに導入されたECTSによる単位互換制度のおかげで、国ごとの間で勉強の場を変えることが非常に容易になりました。音楽家を目指す人間にとって、音楽についての多様な言説、考え方に触れ、自分のものにするのはとても重要です。大学レベルで交流の余地が最大限あることが望ましいと考えます。大学間の交流を容易にするもうひとつのシステムは、EU全体をカヴァーする留学システムErasmusエラスムスです。ひとつの課程に在学中に、原則として3カ月あるいは6カ月間、別の国の大学に在学できるというものです。こうした高等教育機関同士の交流は、学生の留学にとどまらず、教師レベルでも行われています。

§8.広い視野を持つ演奏家の教育

LMDシステムのもたらしたもう一つのプラスの側面として、将来演奏家になる人たちに広い視野を持ってもらおうという姿勢で教育を行う点があげられます。パリ国立高等音楽院という由緒あるエリート的な高等教育機関でも、卒業生全員が演奏家、ソリストとして身を立てるわけではありません。他方、ごく少数の人には単独でコンサートを開くことが今まで以上に奨励され、そのためのチャンスも与えられています。

新課程で特筆すべきこととして、Master修了時のリサイタル形式の試験があげられます。ここでは独創的でかなりクリエイティヴな演奏が奨励され、たとえば、演劇と結び付けた形で器楽演奏を考えるなど、自分の選んだ楽器にあまり縛られないプロジェクトも進められます。このリサイタルは2つの観点から評価されます。ひとつはその楽器の演奏能力について、もうひとつはリサイタルの構成、プロジェクトの内容が意義のあるものかどうかという点です。ソリストとしての修練を積むだけでなく、今日において演奏家とは、コンサートを企画するとはどういうことなのかを自問自答しつつ、舞台上で演奏することを新しい目で見ることが奨励されているのです。

§9.ボローニャ・プロセス、LMD導入後の入学志願者の状況

このボローニャ・プロセス、LMDシステムが導入されたことによって、在学生のプロフィールも大きく変わってきました。パリ音楽院の教育内容が多様化し、豊かになりましたので、最低年齢の14歳でいきなり入るよりは、普通の高校に通ってフランスのバカロレア(大学入学資格)を先に取ってからパリ音楽院で学ぼうという方向に変わってきています。私の時代と違う点として、Licence卒業時にバカロレアに通っていなくてはならない(フランスの学生のみ)こともあげられます。

日本からパリ国立高等音楽院に入学しようとお考えの方にぜひお勧めしたいことは、フランス語と初見の十分な準備です。それ以外は入学してから十分に学ぶことが出来ます。実際、留学生の方々は、この新しいLMDのシステムに十分順応されていますので、その点はどうぞご安心ください。

以上ご清聴ありがとうございました。ご質問がありましたらお答えいたします。

§10.質疑応答
◆LMDシステム導入の難点
渡邊健二副学長:
 大学同士、国を超えた単位の互換の問題に関して難しい面、困った面なども教えていただけますか。
デゼール(以下D):
 この新しい教育課程に適応するのは、まず教師自身にとって難しいところがあります。他の国の高等教育課程はフランスとは全く異なっていたわけで、その違いに適応できるような共通の枠を実施するのがとても難しいと感じています。
 私自身が特に気にしているのは、学生が演奏の修練に十分な時間を割けるかどうかという点です。新しく導入された課目を勉強しなくてはならないために、本来の個人練習がおろそかになることには非常に注意しなければならないと思います。
◆学生の研究論文への指導・取り組み
中村美亜(音楽研究科リサーチセンター):
 実技専攻の方は論文を書きなれていないと思うのですが、論文を書く場合、誰がどのように指導されているのでしょうか。
D:
 パリ音楽院としては、学生に口頭表現、そして出来る限り文章による表現をできるように指導しています。Licenceの課程では、実際の演奏を聴いてもらう際に、演奏する曲の内容を紹介するようなちょっとした文章を書いてもらいます。また、文章指導の一環として、口頭表現の訓練も積んでもらいます。これは必須の科目ではありませんが取得するように勧めているもので、演奏時に、演奏して感じたことなどを語ってもらうようにします。指導は演劇の専門家(俳優)にお願いしています。
 最近のコンサートでは演奏者が自分の演奏する曲について話すということが頻繁に行われるようになってきました。それによって、舞台上の演奏者と聴衆とのあいだの境界を取り払おうという試みが行われています。こうした解説付きのコンサートは、当初は現代音楽のものばかりでしたが、最近ではもっと一般的なレパートリーでも広がってきています。コンサートのオーガナイザーの方で、学生に何か語ってほしいということもありますし、それに対応できるように指導しているつもりです。
◆論文や演奏の評価について
中村:
 論文や新しい形のコンサートは、誰がどのように評価しているのでしょうか。
D:
 論文については、論文執筆の指導教官が、評価をしてくれる人を選びます。演奏については、従来型の審査委員会形式です。フランスが他国と違うのは、6人の審査員すべてを、教育機関外部の楽器演奏者、音楽家から選んでいる点です。
◆グローバル化とパリ高等国立音楽院の特色
質問者A:
 学生も教師も色々な国に行きやすくなっている状況だということですが、グローバル化が進みすぎて、逆にそれぞれの機関のカラーが薄れてしまうのではないかと懸念されるように思います。そのあたりのバランスはいかがでしょうか。
D:
 的を射たご質問です。音楽教育におけるエコールという概念そのものが少し混乱をきたしています。パリ音楽院では、かつてはフランス人がフランス人を教えていたのですが、30~40年ほど前から他国出身の教員も増えてきました。しかし、それによって教育の内容が豊かになりこそすれ、パリ音楽院のカラーが損なわれたというようなことは全くないと思います。もちろん、それぞれの出身国のカラーもあると思いますが、パリ音楽院自体のカラーはやはり純然と残り、むしろ支配的なカラーとして維持されています。
 私自身がフランス的なカラーを意識したのは、モスクワに行った時でした。モスクワで教育を受けている間に、パリで受けた教育について距離を置くことができたのです。他国に行くことで、まったく違った観点、アプローチに基づいた言説が耳に入ってきますが、それによって自分を失うようなことはなかったと思っています。国際的な交流は、演奏の仕方を一様にしてしまうことではなく、自らをよりよく理解し、さらに他者もよりよく理解できるようになることに通じると思います。
◆パリ国立高等音楽院でのLMD実施状況
渡邊副学長:
 現在パリ国立高等音楽院においてLMDのシステムで学んでいる学生の人数はどのくらいになるのでしょうか。
D:
 楽器ごとに違います。ピアノの場合Licenceには1年に毎年15人が入り、その内訳は年によって例えばフランス人が8人、留学生が7人ということもあります。ただ、フランス人の学生は伝統的に自国内にとどまる傾向があって、私たちのほうで少し動機づけをしないと留学など全く念頭にないことがあります。つまり、外国から来る学生の方が外国へ行く学生より多いということです。このあたりも最近エラスムスのプログラムを使うことで変化している部分があり、私としてはなるべく外国の様子に好奇心を持ってもらいたいと思っているところです。フランスは外国人留学生も含めて学費が無料です。これは他の国ではあまり見られないことです。
◆エラスムスのシステムによる短期留学に関して
植田克己音楽学部長:
 学生がエラスムスを利用して3カ月、6カ月の留学をする場合、パリ音楽院では受け入れ側として人数制限など何か条件があるのでしょうか。
D:
 受け入れの条件はまず出身大学がエラスムスに参加していること、そしてあくまで交換留学の形を取るということです。おっしゃる通り、数は限られた形になります。
質問者B:
 フランスの学生がエラスムス・システムでドイツに行く時、何か試験はあるのでしょうか。
D:
 ほとんど条件はありません。パリ音楽院の学生がエラスムスで移動したい場合、エラスムスに参加している大学を見つけてこなくてはならない、交換でフランスに来る人が必要になるということくらいです。