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クローズアップ藝大 - 第九回 小沢剛 美術学部先端芸術表現科教授

連続コラム:クローズアップ藝大

連続コラム:クローズアップ藝大

第九回 小沢剛 美術学部先端芸術表現科教授

クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。

 

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第九回は、美術学部先端芸術表現科教授で美術家の小沢剛先生です。令和元年11月の終わりに取手校地の研究室をお訪ねました。


【はじめに】

藝大の取手キャンパスはJR 常磐線の取手駅から車で15分。キャンパスの入り口に美術館、その先には野外運動場に地元のNPOが運営する解放感のある食堂がありました。キャンパス周辺には食べるところはなく一番近いコンビニも歩くには遠いと感じる距離にありました。食堂はオアシスのような極めて大事な存在なのだろうと思いながら車で進んでいくと 金工、木工、石材などの工房や機械室が入った工房棟につきあたり、そのすぐ先の建物の中に小沢先生の部屋がありました。みんな創作に集中しているのか、そもそも広いキャンパスに学生が少ないのか、とても静かでした。

先生の部屋の窓からはゆっくりと流れる利根川が見えました。岸辺には樹木がうっそうと茂り先生は“木が多いので川までたどり着けないです。もったいないです”と窓の外を眺めながらおっしゃいました。窓のすぐ下には「3月11日 涙の日」と書かれた古い革のソファー。大きな机を挟んで座ると目に飛び込んできたのが先生の背後の壁に貼られたおそらく構想途中のドローイングに書かれた「呪」という字でした。


先端芸術表現とは

国谷

先端芸術表現というおそらく一般の人は聞いたこともない、藝大の美術学部のなかでも1999年にできた新しい学科です。ここに来ると他と違って何が学べるのでしょうか。

小沢

油画とか日本画とか彫刻とか工芸とかって、材料がはっきりしているじゃないですか。先端の場合はまず自分のアイディア、つくりたいものがあって、それから材料を探す。

国谷

アイディア先行でそれに合うベストの材料は自分で。

小沢

そうです。だからみんな表現方法が違うし、作品ごとにも違う。まあ僕もそういう感じでやってたから、教えやすいかもしれないですね。

国谷

面白い。でもアイディアがないと苦しいですね(笑)。

小沢

そうですね。

国谷

材料がはっきりしていても苦しいかもしれないけれど、根本的な発想の種がないと、とても大変だと思う。

小沢

だからリサーチが大事だし、リサーチするうちに次のアイディアが生まれてくるときもあるし。

リサーチは面白いですよ。まず文献を読んだり、旅をしたり、インタビューしたりします。

国谷

先端芸術表現ですが、私は芸術はそもそもみな先端をいくものと思っていたのですが、違いますか?

小沢

そうでもないですね。全然先端じゃなくてオッケーと考えている作家もいます。

国谷

素人からすると何が先端なのか、その先端がわからない。

小沢

先端芸術表現科の先生の中でも、その解釈は多面的だと思いますけれど、変化していく社会や時代を敏感に感じ取り、ジャンルに囚われることなく誰もつくったことのないものをつくる、そういうことじゃないかなと。だから美術史に名を残している巨匠たちは、みんな先端だったんじゃないですかね。

国谷

そうですよね。芸術家の方々は自分は先端をやっていると思っているから、あえて先端芸術表現と言わなくてもいいのではと思っていたのですが。

小沢

そうですか。僕は、常に誰かが切り開いたものをちょっと深めて、無理に新しさにこだわらないという態度の作家のほうがむしろ多いんじゃないかなと思いますね。ある程度、価値が定まったものを人は安心して購入するからね。先端すぎると売れない。だから辛いですね(笑)。

先が見えない怖さと楽しさが同居

国谷

さまざまなところで作品の発表が続いています。今年は何回くらいですか?

小沢

今年は10回くらい、海外は2、3回かな。でも最近は減らしています。多いときは20回近くあると思います。でも作品を送るだけという場合もあります。展覧会は数が多くても、金銭的に潤うということはないですよ。

国谷

でも商業的な作品はつくってないっておっしゃってる(笑)。

小沢

もう開き直るしかないですよね(笑)。まあ売れたらうれしいけど、金銭に変わりやすい美術っていうのは一部でしかなく、アートマーケットと相性が合わない作品というのも世の中にたくさんあって、僕はいつの間にかそのようになっちゃってる感じです。

国谷

先生も藝大のご出身で、(美術学部絵画科の)油画を卒業されて大学院は壁画に行かれました。“藝大の油画”のイメージと先生の作品とのギャップが大きすぎて…。藝大の勉強って役に立ちましたか?

小沢

当時はめちゃめちゃアカデミックでしたからね。社会との関わり方とか何も教えてくれなかった。ただ、表現力っていうか観察する力、見たもの、思ったものを描く力とか、それは後々役に立っていると思います。こんなのつくりたいって思ったイメージを、紙の上にでもちょろちょろっと描くのはできるようになったんで。

国谷

26歳で卒業されて仕送りが終わってしまい、アルバイトで職業訓練校とか予備校で教えていらした。この頃、「アーティストとして自分はこれからどうなっちゃうんだろうって思っていた」と書かれています。アーティストとして先の見えない時期があったのですね。

小沢

そうですね。真っ暗は大げさですけれど、見えない怖さと見えない楽しさが同居してました。振り返るとその頃は楽しかったと思いますけどね。貧しかったけど、自分と同じように売れないけど野心のある仲間とか、周りにうじゃうじゃいたから。

旅をしながら作品を残すなんて、ロマンチックでいいなと

国谷

バックパッカーで旅をしていたのが学部3、4年生の頃です。「地蔵建立」という作品を始められたのですが、油画とは全く違いますよね。

小沢

全然違いますね。それは、アトリエにこもってやるのがちょっと嫌になっちゃったっていうのと、どんどん外に出ようと。可能な限り遠くへ行けば何か見つかると、何の根拠もなく信じてて。で、旅と制作が一致する方法で、絵でもよかったんですが、写真のほうがシャッターをパシっと押せばイメージが写っていますからね。旅にはぴったり合うかなと。実は写真の撮り方もろくに知らないところから始めた感じでした。

国谷

自分でつくられた地蔵を持って。

小沢

手に乗るぐらいの大きさの自作の地蔵をリュックに10個ぐらい詰めたらものすごく重くて一日で嫌になっちゃって(笑)。ちょっとこれはいかんなと。で、いろいろ改造したんですよ。途中で土を掘って型に詰めて地蔵をつくるとか。それが第二号。でも旅の途中で型をなくしちゃったので、しょうがないから手でこねたりして。「いや待てよ、これは描いた方が速いな」となって途中から紙に描くとか壁に描くとか。

国谷

お地蔵さんは好きだったのですか?

小沢

そうですね。江戸時代に円空という、旅をしながら仏様を彫るお坊さんがいたんですよ。修行僧のように旅をしながら作品を残すなんて、すごいロマンチックでいいなと思って。それを僕はなぞったような感じなんですね。

国谷

三蔵法師が行ったシルクロードを旅したわけですね。

小沢

そうか。確かに。シルクロードにあこがれもあったんですよね。中国から最終的にはギリシャまで。本当はローマまで行きたかったんですが、お金が尽きちゃって。ヨーロッパは物価が高いからこれ以上は進むのは無理だなと。それで翌年リベンジしたんです。今度は北周りでロシア、当時はソビエトでしたけど。

国谷

ソ連崩壊前ですか?

小沢

その1ヶ月くらい前で、もうちょっとでベルリンの壁崩壊でしたけど、ベルリンは治安が悪くて一晩で出ちゃった。

国谷

すごいところにいらした。

リベンジっておっしゃったけど、まだまだ探したいという渇望感というか、何かあると思ってらしたのですね。この旅は小沢先生の原点ではないですか。油画専攻の学生が進む道とは違う表現を見つけ出す。

小沢

そうですね。先生たちは誰も理解してくれなかったですけどね。よく卒業できたと思います。

国谷

「地蔵建立」を卒業制作として出されました。

小沢

はい。でも自分では間違いないと確信していたし。作品自体も十数年後に美術館に収蔵されることになって、今は東京都現代美術館にあります。リアルタイムでは評価できないものなのかなとその時は思いました。

国谷

旅から帰ってきてご自分のなかで何か変わりました?

小沢

変わるつもりで旅をしたんですが、何も変わってないですね。何でだろう。自分も探せなかったし。

国谷

私も80日間バックパックを背負ってひとり旅をしたんです。

小沢

ええ! そうですか。

国谷

大学を卒業したあとで。まあ女子なのでそんなにワイルドなことはできないんですけど、同じように自分探しだったのですけど何にも見つからなくて、ひとり旅が嫌いになって帰ってきました(笑)。

感じたことをつかまえて糧にする

国谷

先生は、現代に対する問題意識といいますか、何かご自分が感じたざらつきとか、そういうものからの刺激で発想されることがありますか?

小沢

そうですね…別に啓蒙的とかそういうことでは全然ないと思いますけど…。つかまえる力は大事かなと思います。そういうのをいかにつかまえて、作品の糧とするか。でもいつも目を光らせているわけではなく、まあ90%はぼんやりしていて、いやもっとかな。つかまえるときはパッとつかまえますね。

国谷

お地蔵さんのケースでも、東京の郊外がどんどん画一的な街並みになっていくなか、しかし一方でお地蔵さんはさりげなく残っている。その違和感…。

小沢

ええ。僕の育ったところは『平成狸合戦ぽんぽこ』(スタジオジブリのアニメーション映画)の舞台となった辺りなんです。宅地造成が進んで、自分の家の窓から見える風景もどんどん変わっていくけれど、里山の端っこに地蔵が残ったり、わずかに農家が残ったり。視覚的にすごく風景が変わるということが時代の変化を表していて、そこにわずかに古いものが残されているのが面白いというか、何か印象的で。それが地蔵とつながっているのかもしれないですね。地蔵は一応祈る対象でもあるから簡単には破壊されない。都心でもけっこう残っていますから。そういうのがたまらなく面白いなって思っています。

機能が終わった牛乳箱を無名作家のギャラリーに

国谷

身のまわりの事象に対して、ある意味ジャーナリスティックというかドキュメンタリスト的な眼差しを向けていらっしゃいます。「なすび画廊」も、どんどん牛乳配達がなくなっていくなかで箱だけが残っているということに目を向けた。

新なすび画廊―ピーター・ベラーズ「Game A[T.N.(43)男性、会社員]」
New Nasubi Gallery by Peter Bellars ― “Game A [T.N. (43) male, office worker]”
2000年 

小沢

そう、その機能が終わって残っている箱が気になってて。あのなかの小さな空間を活用できたらなって。あとは個人的な問題で、ギャラリーで展示したいけれどできないという現実があった。無名の作家にはそんなチャンスはなかなか無いわけですよ。で、だったら無理矢理だけどその2つを一緒にしようと。

国谷

その空間をギャラリーにして、ご自身の作品を入れるのではなくて、キュレーターみたいになって先生が好きなアーティストを招へいして。

小沢

そうですね、僕がディレクターになって。まあ、まともな神経してる人はやんないです(笑)。だってこんな小っちゃいんだもん。ふざけてるとしか思えない。

国谷

アイデアを募ったらいっぱい来ましたか? 難しかったのではないですか?

小沢

なかなか反応は良かったです。面白がって次々と。で、そのときの無名の作家の仲間達が、今の美術界で重要な作家になっていたりするんですよ。半分ぐらいそうかな。

世の中が変わったかどうかはわからないけれど、自分自身の社会における環境、“「なすび画廊」の小沢” みたいな、美術界の一部ではそういう認知があったから、自分の居場所がつくれたというのは確かですね。

国谷

先生だけの居場所じゃなくて、芸術家を受け入れる社会のプラットフォームですね。

小沢

そうですね。作品だけどプラットフォームたりえるものっていう。それまでの作品はあくまでも“個”のもの、個人的な感情とか考えとか美意識が吐き出されたものがどーんとあって、「見なさい」みたいな。そんな一方向性ではない可能性を示せたかなと思います。

国谷

インタラクティブということですか?

小沢

そうです。僕はあくまでも空っぽの箱を置くだけで、その中にいろんな人の作品を受け入れる余地のある作品なんです。

国谷

美術館に入っているものが芸術だとか、画廊が展覧会をやってくれるものが芸術だという、一般にはそんな思い込みがありますけれど…。

小沢

そうじゃない概念を提案できたことは確か。しかも屋外で。でもそれが芸術と認知されたとたんに矛盾が生じるんですよ。なすび画廊を始めてから数年して、オーストリアの美術館で展示されるチャンスがあって、当然胸躍るけど、路上で展示することに意義を見出していたから、美術館という制度に回収されていくことに、自己矛盾を感じて悩みました。

国谷

一番やりたいのは、パブリックのなかでの表現?

小沢

いや、どうなんだろう。美術館のなかでやるのも楽しいんですよね(笑)。安全だし。矛盾を受け入れてやっている感じです。

博多人形や牛乳箱など様々なものが並ぶ研究室の棚