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ゲ!偉大! - 第六回 岡本誠司

連続コラム:ゲ!偉大!

連続コラム:ゲ!偉大!

第六回 岡本誠司

2021年9月にミュンヘン国際コンクール ヴァイオリン部門において優勝の快挙を果たした岡本誠司さん。音楽学部卒業後ドイツに渡り、現在はクロンベルク・アカデミーに在籍しながら国内外で演奏活動を行っている。本学在学中の指導教員でもあった澤学長と、同コンクールでのエピソードやこれからの活動について対談を行った。

あらためまして、ミュンヘン国際コンクール ヴァイオリン部門優勝おめでとうございます。

岡本

ありがとうございます。

コロナ禍でのコンクールということで苦労もあったと思いますが、コンクールの期間中はどうでしたか?

岡本

コンクール期間中は、新規感染者数はある程度収まっていて、ワクチンを接種していれば参加可能、していない場合は2日に1回PCR検査を、コンテスタントも審査員も受けていました。今(2021年12月)はワクチンを接種していても定期的な検査を受けないといけないというルールに変わりつつあります。手間はかかりますがそのほうが安心ということのようです。

日本もこの2年間はコロナとの戦いで、そういう中での岡本さんのミュンヘンコンクール優勝はすごく嬉しいニュースだったし、それに続いて反田恭平さんのショパンコンクール2位というニュースもありました。DMG森精機さんと立ち上げたジャパン•ナショナル•オーケストラのメンバーがすごい成果を上げているのは、日本の新しい時代の幕開けという感じがします。

岡本

ありがとうございます。

ライプツィヒのJ.S.バッハ国際コンクールで優勝した時は20歳ぐらいでしたか?

岡本

そうですね、大学2年生の夏でした。

その時も既に注目されていましたけれど、ある意味バッハとは対照的なヴィエニャフスキ国際コンクールでも2位になるという、引き出しの多さというか器の大きさというか、すごくたくましいと思っていました。その後ベルリンに留学されて着実に力をつけ、その1つの結果として今回のミュンヘン国際コンクールがあると思います。ミュンヘンを受けようと思ったきっかけは何かありますか?

岡本

きっかけといいますか、もちろん最高峰のコンクールですし、ドイツに留学しているからにはいつか挑戦したいと思っていました。澤先生が受賞された時のお話も聞いていましたし、課題曲の選曲がすごくこだわっていることや、攻めた内容のコンクールであることは認識していました。タイミングがちょうどコロナ禍で演奏会などが思うようにできない時期と重なったことで、むしろコンクールにしっかりフォーカスして取り組めました。藝大を卒業して4年半が過ぎ、年齢的にこれが最後のチャンスかもしれないという覚悟もありました。

ミュンヘンコンクールはなかなか1位を出さないことでも有名だけれど、葵トリオや佐藤晴真くんといった藝大の卒業生たちが立て続けにそのトップを極めてくれたことも、とても嬉しいことです。自分自身も40年近く前にデュオ部門で入賞したので、想い入れもあります。コンクール期間中は受賞者演奏会までの期間を含めると3週間ぐらい滞在したかな。

岡本

そうでしたか。

ちょうどデュオ部門が一番最初だったので、他の部門も聴くことができて面白かったです。

岡本

今年度はヴァイオリン部門が一番最後だったので、ミュンヘンには10日間ぐらいしか滞在しなかったです。なおかつ、ミュンヘンに集まる人数を減らすという目的で一次予選は映像での審査で、現地では二次予選からでした。1日おきに二次予選、セミファイナル、ファイナルとかなりハードなスケジュールで、体感的には5日間ぐらいで一気に駆け抜けた感じです。そういった意味では、この作品をこのラウンドでどう演奏するかということだけに集中することが出来ました。

ファイナルの課題は パウル・ヒンデミットかフランク・マルタンのヴァイオリン協奏曲で、ヴァイオリンを専門にしている私ですらどちらの曲もほとんど聴いたことがなかった(笑)。

岡本

そうですよね(笑)。課題曲が発表された時はギョッとしました。僕はヒンデミットを選びましたが、そこまで作曲家に馴染みがあったわけではありませんでした。フランク・マルタンも名前だけは聞いたことがある…というところでしたので、どちらを選んでも新しく取り組むのと同じだったと思います。一応どちらの楽譜も取り寄せてみて、けっこう悩みました。フランク・マルタンの協奏曲もすごく美しい作品でしたが、この限られた期間で準備するにはリスクが大きかった。ヒンデミットも十分リスクはありましたけれど、今回はヒンデミットを選びました。

今や同時配信で、日本に居ながらにして熱気あふれるコンクールのすごい臨場感を味わいながら聴くことができる。岡本くんは画面を通して観ると、すごく自信にあふれていましたよ。弾く前から、多分優勝するだろうなと思いました(笑)。

岡本

ありがとうございます!

演奏も素晴らしかったし、ステージの振る舞いも巨匠の風格が…(笑)。

岡本

ファイナルの前日に45分間のリハーサルがあって、当日の朝にも一回通して演奏しました。それは何かアクシデントが起こった時用のものとして、本当に舞台衣装を着てファイナルだと思って演奏をして。収録もしていたので、実質のリハーサルとしては前日だけという感じでした。

ヒンデミットのヴァイオリン協奏曲は、ブラームスやメンデルスゾーンといったドイツ・ロマン派の協奏曲の流れを汲んだ最先端の作品という感じで、本当にヒンデミットらしい構造と言えます。こことここがかみ合ってここのモチーフがここにはまる、というように精巧に出来ている作品ゆえに、うまくはまらないと作品としての盛り上がりにも欠けますし、魅力が薄くなってしまうと思っていました。オーケストラとアンサンブルする部分がうまくいくかとか、不安を少しだけ持ちながらステージに上りましたけれど、でも何しろ素晴らしいバイエルン放送交響楽団の力強いサポートがありました。あの舞台で一緒に弾けただけでもご褒美というか、もう本当に最高の贅沢だと思います

会場はヘラクレスザールでしたか?

岡本

はい、ヘラクレスザールでした。

僕らも受賞者演奏会ではヘラクレスザールで弾きましたよ。とてもよく響くホールでね。

岡本

本当に気持ちよく響くホールだったので、ストレスはありませんでした。オーケストラが鳴りやすい作品ということもあり、トロンボーン3本、チューバまで入った大編成で、僕が一番最後のコンテスタントだったこともあってか、皆さんノリノリでかなりヒートアップしていて、それがむしろ一体化して音楽を作り上げる感じにつながってよかったのかなと思います。

(©︎Daniel Delang, ARD competition)

コロナ禍で演奏活動がほとんどできないような状況で、逆にコンクール集中できたと。

岡本

新しいレパートリーに挑む上では、そう言えると思います。この2年間も、ドイツと日本を行き来しながら演奏活動をしていたので、完全にぽっかりと空いた時期はなかったんですけれども、それでも演奏活動の回数は減っていました。一番難しかったのは、渡航とそれに伴う隔離期間の問題と、この状況がいつまで続くかわからない中で予定を組むことでした。せっかく準備をして行ってもキャンセルになったりして、精神的にこたえることもありました。2020年の3月4月はコロナが流行り始めたタイミングだったのでキャンセルが相次ぎ、「もう終わった…」と思ってすべての気力をそがれたような時期でした。

そういうコロナの影響をもろに受けて打ちひしがれても、最終的にはこのコロナの状況を味方につけてミュンヘンで結果を出したのはすごいことです。他のコンテスタントも同じ状況ですけど、それをきちっと味方にできたのはものすごいことだと思います。
ここでいくつか質問をしたいと思います。ヴァイオリンを始めた時期ときっかけは何ですか?

岡本

僕の両親は音楽家ではないんですね。一番最初にヴァイオリンを知ったきっかけは、3歳になる少し前、近所で一緒に遊んでいた女の子に、「私、ヴァイオリンをやってるのよ」って自慢をされたことでした。子どもながらに「何かかっこいいな」と思って、それで両親に「僕もやりたい」と。それまでは「ヴァイオリン」という名前も知りませんでしたし、その音もクラシック音楽も聴いたことはありませんでした。音も知らない、実物を見たわけでもないという状態から興味はスタートして、その女の子のご家族にスズキメソードの教室を紹介してもらったんです。その子は1歳年上だったので、彼女が使っていたヴァイオリンをおさがりみたいな形で貸していただいて。そのヴァイオリンが最初に家に来たときは「本当に来ちゃったよー」というか、うれしいようなちょっと恥ずかしいような。それは今でも鮮明に覚えていますね。スズキメソードでは小学校に入るまで3年ほどお世話になったのですが、その3年間は「ヴァイオリンを弾くのは案外楽しいな」と思っていました。毎日練習しなきゃいけないのは大変だし、うまく弾けないときもあるけど、一冊ずつ新しい教本に進んでいくのも楽しくて、発表会に出て人前で弾くのも楽しかったです。その純粋な部分は今につながっているかもしれないですね。

中澤きみ子先生との出会いはその後ですか?

岡本

はい。6歳の冬だったと思うんですけれど、家で練習していたら誤って楽器をぶつけて駒が割れてしまったんですね。いつも楽器の調整をしてもらっていたところが年末でお休みで、全く知らない楽器屋さんに行ってつけてもらったら、分数楽器用の駒を揃えていないところだったので、音がまったく鳴らなくなってしまって。母ももちろん楽器の知識がないので、スズキメソードの富川歓先生に急いで連絡して日本ヴァイオリンさんを教えてもらったんです。藁をもすがる思いといいますか、本当に駆け込みで楽器を持っていきました。そこで楽器を見てくださったのが中澤きみ子先生の夫・宗幸さんでした。「僕の奥さんがヴァイオリニストで、先生もやってるからレッスンを受けにおいで」と言われ、中澤きみ子先生を紹介していただきました。駒が割れなかったら中澤ファミリーと出会うこともなかったわけです。中澤先生が、いろいろな先生にレッスンを受けていろいろな方のコンサートに行っていろんなものを吸収するのは、できる限り早い方がいいと勧めてくださったので、中澤先生のレッスンを受けなかったら澤先生にも出会っていなかったかもしれません。

子どもの頃にヴァイオリンを壊しちゃったことが今の岡本誠司につながっているのかもしれない。

岡本

まさにそうだと思います。

藝大時代の思い出、忘れがたいエピソードはありますか?

岡本

藝大の附属高校(藝高)の3年間と学部の4年間、しっかり7年間お世話になりましたけど、思い出は尽きないですね。コロナの期間はもちろん訪れる機会はなかったですし、3、4年ぶりぐらいに構内に入って、いやあ、いろいろな思い出がよみがえりますね。

チェロの岡本侑也くんは同期でしたよね。

岡本

そうですね。チェロの岡本侑也は同期でしたし、最近、東京交響楽団のコンサートマスターになった小林壱成もそうです。ヴァイオリンは城戸かれん、荒井優利奈…。

すごい学年ですね。

岡本

そうですね。藝高の時からお互いに刺激を与え合うというか、切磋琢磨し合える仲間と出会えたのが一番の思い出、財産だと思います。高校生の、自分がまだ何者であるかもわかっていない、自分が何をやりたいかもまだおぼろげな時期に、いろいろな考えや個性を持った仲間が周りにいて、それぞれやりたいことが違ったり一緒だったりして、共感したりあるいは自分の個性が確立されていったり。藝高に通っていなかったら音楽的な意味でもそういった部分の刺激はなかなか得られなかったと思います。藝大に入ってからも、他の学年とか他の楽器の人たちとの交流が増えて、いろいろな場所で演奏させていただき、世界が広がりました。

音楽家として、作品から何を受け取ってどういうふうに演奏して何をお客さんに伝えていきたいか、あるいは何を次の世代に伝えていきたいかという点が一番大事になってくる。そういうことに、ドイツに行ってから荒波にもまれる中で気づきました。迷うことも悩むことも多いですけれど、何が大事かという部分をしっかり持てているのは、藝高・藝大の間にさまざまな考えを持った仲間・友人、そして先生方に出会えたことが一番大きかった。そこで考えさせられることがとても多かったですし、その時期をスキップしていたら、留学してももっと迷走してしまうことが多かったかもしれません。

留学先で藝高・藝大時代の仲間と会うこともすごく多いわけでしょう。

岡本

はい、ベルリンは特に多いので、一緒にご飯を食べに行ったりホームパーティーをしたりというのはあります。本当にみんないろいろな場所で活躍したりいろんな活動を始めているので、バラバラになったなと思いながら、でもどこかではその絆を保ちつつお互いを応援しているという感じですね。

僕が藝高でレッスンをしていて、岡本くんが他の生徒たちと一番違ったのは、こちらがコメントしたことにちゃんと言葉で返してくるところでした。

岡本

(笑)。

アドバイスしたことを実践してみることはもちろんみんなやってくれるけど、言葉で考えを返してくれる。それは反論であることも少なくなかったし。

岡本

生意気な生徒だったという自覚はあります(笑)。

それはすごく頼もしかったね。そのキャッチボールでこちらもすごく勉強になったし。やっぱり、ただ者ではないなっていうのはその頃から思っていました。

岡本

せっかく近くにいろいろな経験とか考えを持った人がいるので、その人たちの考え方を知りたかったし、自分の価値観や考え方がどう受け取られるのかを知りたいという思いもありました。レッスンはある意味そういう、自分では気づかない部分をしっかりと学ぶ場でもあると思っていたので、いろいろとお話させていただいたことも多かったです。

「古楽器」という言い方は今はあまり流行らないけど、ピリオド楽器のこともすごく積極的に勉強していましたよね。寺神戸亮さんのレッスンを受けたり。

岡本

そうですね。もしかしたら藝高の頃に一番そういったものに傾倒していたかもしれないです。寺神戸亮さんのレッスンとか、藝高に入る前ぐらいからバロック・チェロの鈴木秀美さんのプライベート・レッスンを受けていました。モダンの楽器で何を演奏するかを学んでいく上で欠かせないステップではありますが、まだ高校の時期でそれを知ってしまったことによって自分の中に葛藤と迷いが生まれたと思います。しかしそれが大学2年の時のバッハコンクールにつながったのかもしれません。

確かにこだわりすぎてオタクになってしまうのもどうかなと思っていた時期もあるけど、それを見事に自分のものにして。バッハコンクールもそうだし、この間のコンクールでのモーツァルトのコンチェルトの演奏も、ピリオド楽器のことをちゃんと自分で消化してモダン楽器で演奏している、すごく典型的ないい例だなと思って聴いていました。

岡本

ドイツの最近の流れなのかもしれないですけれど、若い世代も少し上の世代の方々もピリオド楽器をすごくオープンに捉えていて。それをただ真似するのは本末転倒ですけれども、例えばモーツァルトの時代の彼らが話していた言語というか、音楽言語や文法といった部分も勉強した上で演奏しよう、という雰囲気をかなり感じます。ドイツでのレッスンもそうですし、ドイツの音楽仲間たちもそこはフレキシブルに考えている人が多い。そのバランスはもちろん人それぞれですけれど。

またドイツの生活の話に戻るけど、日本以上にロックダウンとか非常に思い切った政策で窮屈な思いもしたと思いますが、実際にはどうでしたか?

岡本

ドイツの場合は、ロックダウンとはいえ初期のフランスやイタリアと比べてそこまでの厳しさはなかったように感じます。でもやはりスーパーとドラッグストア以外は全部閉まっていた時期もありました。日本に戻ってくるといろいろなことが自由すぎて、「こんなことをしてよかったっけ?」と感じることが多いので、それは確かに向こうが不便ということになるのかもしれませんが、日々練習をする上でのエキストラの制約は特になかったです。演奏会がキャンセルになったりしたことが一番の痛手で、それ以外はつつがなく生活しておりました。