藝大出身の著名人に現役の学生が質問をぶつけ、その対話の中から芸術と教育の接続点について探る。本連載、「藝大人たち」は、そんな目的を持った対談インタビューだ。第二回は、現代美術家の会田誠に美術学部絵画科油画専攻4年の林裕人と三好大和がインタビューを行った。
林
まず最初に、藝大を目指したきっかけについて教えていただけますか?
会田
18歳のときの感情を、今の自分の言葉で再現するのはとても難しい。そういう前提で話すけど、まずはとにかく新潟から出たかった。その方法の中で、美術大学を選ぶっていうのが一番可能性も高く、親からの仕送りも堂々ともらえそうで、写実画とか上手かったから、受かるだろうと。美大に行きたいっていう強い気持ちよりも、まずは地方都市から出ることが目的だったかな。
林
とにかく東京に行きたかったということですか?
会田
美術家とか画家になりたいと思って藝大の油画を受けたわけではないんだよね。当時、油絵と呼ばれていたものは僕にとって魅力的ではなくて。たとえば、当時「美術手帖」で毎月紹介されていたような「銀座で個展をひらいた若手美術家」って、日本風に翻訳された「和製抽象表現主義」のような作風の人が多かったんだけど、全く魅力を感じなかった。
油画をルーツとした美術家や画家がおもしろいと思えなかったんだよね。じゃあなぜ行ったかというと、とにかく美大に行けばその先の選択肢の自由度が広がると思ったから。その感覚は間違ってなかったし、それは現在の藝大も変わらないんじゃないかな。
林
会田さんは、どんな高校生だったんですか?
会田
新潟のそこそこの進学校で、文化的不良みたいな学生でした。まず勉強はしない。自分の将来に真面目に取り組むことはかっこ悪くて、アウトローな姿勢を持つわけです。すると、当然テストの点数が必要な大学には行けなくなる。で、美大という選択になる。武蔵美に行った村上龍さんのような、進学校でバンドをやって文化的不良になるみたいなわかりやすいルートって昔からある。僕はバンドはやってなかったけど。
東京に行って、文化に関わり何かを作る人間になるということは、100%決めていたんです。今で言うところのサブカルチャーの作り手になりたかったのかな。例えばリリー・フランキーさんとか、しりあがり寿さんとか、僕が18歳のとき彼らは多摩美や武蔵美のデザイン科の学生。だから彼らというモデルがいたわけではない。でもなんとなくそういう時代の予兆は感じてた。当時は、美術家になるとは考えもしなかった。ダサくて、世間からも注目をされてないし、終わったジャンルだと思っていました。
三好
中高時代、新潟には、そういう文化的な感覚を共有する仲間っていたんですか?
会田
仲間はゼロ。孤独。東京に来て仲間がたくさん増えたわけでもないんですけれどね(笑)。
林
藝大ではどんな学生だったのでしょう。
会田
藝大の4年間はとにかくめちゃくちゃ。モヤモヤ、イライラしていてひどかった。1年次の藝祭に出した作品は、カバーを外した新潮文庫がただ壁に並んでるっていうもの。タイトルはなし。それが、僕が考えに考えた挙句の発表第一作で、コンセプチュアルアートなわけだけど、コンセプチュアルアーティストになりたかったわけでもなくて。1年の終わりごろには、屏風に少女漫画の女の子が描かれていて、日本刀がグサッと刺さっている作品だとか、今の自分の作風を思わせるようなものを学生会館で展示したりしてた。人生の可能性を8種類ぐらい立てて、どれも本気だったんだけど、どれも本気じゃなかった。
無題(通称:文庫本)
1985 / 1989
(c) AIDA Makoto
Courtesy of Mizuma Art Gallery
林
全く異なる方向性の作品を短期間のうちに手がけられたと思うのですが、それぞれどういった意図を込めて作られたんですか?
会田
芸術家・表現者として自分の名前を看板にして物を作って発表するという人生を始める。そういうタイミングで、「そこに何の意味があるんだろうか」ということを考えた挙句のひとつの結果だと思うんです。文庫本の作品は。
屏風は、油画に入るとみんな西洋中心の美術の価値観やスタイルに支配されちゃって、「それを盲従しているのはバカだ」「俺だけは意識が高いのでその枠組みの中から外れてやる」というような考えで作りました。若い時ってモチベーションやテンションが高かったり、同時にイライラしたり、虚無に陥ったり、1日の間でも感情が無秩序に変わりますけれど、まさにそういう時期でした。
大学院に行くことを決める時まで、高校時代の文化的不良の気分が抜けずにいたんだよね。卒業する気もなかったし。僕は従順に卒業証書をもらって喜ぶような人間ではない、経歴には中退と書かれるのがかっこいい、みたいなことを考えていた。でも、4年の秋ぐらいにやっぱり大学院に行きたい、佐藤一郎先生のところならいいな、と思うようになって。どうにかこうにか従順に藝大を卒業するわけだけど、そのときに不良の魂は汚れたから、謙虚な職人のようになろうと決めました。
林
それで院に進まれるわけですね。
会田
僕の専攻した「技法材料研究室」は、当時は全く人気がなかった。世界を見ても日本を見ても絵画は死んでいた。意識の高い人はインスタレーション、ビデオ、写真、パフォーマンスをやって、絵画には目もくれない。そういう時代だった。「技法材料研究室」にいた人の半分は、従順に古典技法を学ぼうとしている人。もう半分は、今で言うところの現代美術を志向している人だった。そのとき現代美術って言葉はあまり使われていなかったんだけど、そういう「意識高い美術」を専攻する榎倉康二研究室には3人か4人しか入れなくて、受からないことがわかっていた劣等生が技法材料研究室に行く。吹き溜まりになってたんだよね。
僕は最初から屈折していたんだけど、技法材料研究室に入ってからますます屈折した。マインドはブリブリに現代美術、誰よりも不真面目なことがやりたい。一方で真面目な職人性も目指す。それで最初に描いたのが、今も悪名高い「犬」。完全に矛盾に満ちた絵です。
会田
僕は1985年入学で、自分が変わり者だったと自慢するのも変なんだけど、その時も似ている人はいなかったね。当時のよくいる美大生の典型からは程遠くて。
三好
典型はどんな感じでしたか?
会田
自分より少し前の世代では和製抽象表現主義に惹かれた学生は多かった。一方で自分の世代としてはパフォーマンスとかインスタレーション、ビデオをやりたいみたいなのが主流派で、後はポカンとしたあまり考えていない人が具象や半具象をやってて、後々公募展に入ろうかなんて考えてたと思う。
三好
そういった学生のあり方の転換点には、どんなことが影響していたのでしょう?
会田
たぶん世界的な傾向として、ビデオとかインスタレーションにアートスチューデントが飛びついたのが、80年代後半から90年代初めあたり。例えばヴェネツィア・ビエンナーレなんかの記録を見ても、その頃現代美術が熱かった気がする。毎回常に新しく更新されていく感じ。その時代と比較すると、今の現代美術シーンは世界的に見ても停滞期なんじゃないかな。
ネットでも話題になった、バンクシーの作品がシュレッダーにかけられて…とかってのも、現代美術という業界全体の末期というか、なんか疲れてきた感じに僕には見える。決してバンクシーが悪いわけではないんだけどね。
林
今そういう若者のエネルギーって、YouTuberとしてデビューしてお金を稼ぐとか起業するとか、そういうところへ向かっているのかなって思うんですけど。
会田
その辺は専門じゃないから語れないけど、インターネットがいろいろなものを変えたのは確かだよね。90年代の終わりから、変わった実感はあります。「僕の若い時は意識高い素敵な学生が多かった。最近の君らはなっとらん!」ということではなくて、それは避けがたい変化なのかなって。
三好
僕らは今、まさに学生生活を送っているのですが、会田さんは在学中に後悔とか、失敗したな、ということはありますか?
会田
そうだなあ……意地を張らずに、ベタにインドでバックパッカーとかやれば良かったなって思ったりもしますね。また昔話になっちゃうけど、僕らが若かった時代は『地球の歩き方』のようなトラベルガイドブックが出てきた頃。好景気を背景にした為替のマジックで、ちょっとバイトすればアジアで悠々と遊んで過ごせる、みたいなね。だから多くの美大生が、リュック背負ってインドとか東南アジアへ行って考える、みたいなことをしてた。何をしたらいいかわからなかったんだよね、みんな。
今、先端芸術表現科で教授をやってる小沢剛は同級生なんだけど、まさにそういう学生で、ひとりで中国へ行ったりしてた。当時の中国はまだ人民服を着てる人がたくさんいるような時代だったから、小沢を見送りながら「死んでこい!」みたいなことを言って(笑)。僕は、ちょっとアジアに行くだけで答えが見つかるもんか、ってひねくれてましたけど、今思えば全世界共通語の英語を覚えて、度胸をつけておけば、その後の人生が変わったかもしれないですね。ひねくれながら小林秀雄とか三島由紀夫とか保守系の本読んでたら、どんどん世界が遠くなっちゃって。大学時代の4年間を振り返ると何がやりたかったのか、自分としても全然わからないんだよね。
林
自分の目指す先が固まったきっかけはあったのでしょうか。
会田
少なくとも大学院の2年間はやることを決めていたんだよね。「日本の古典や近代日本画をシミュレーションして現代を表現する。絵画テクニックは惜しみなく使い、抽象表現は一切捨てて、評価されるところまで仕事を進める。」
大学院へ進む時にそう決めて、それは後にそこそこ成功するんだけど、シミュレーショニズムは一生続けたいタイプの仕事でもなかったので、またよく分からない作家に戻って、53歳の今の僕は都市計画みたいなことをやったり、ねぶた作ったり、ときどき絵を描いたりしている。
18歳で藝大に入るとき、抽象画がメインの時代だったせいで、僕にとって美術はクソ真面目に見えた。僕はそれが性に合わなかった。だから美大生になってもしばらく、美術家が将来の選択になかった。抽象画って必然的に論理で作るものだけど、論理に従って作品をつくるのが嫌い。
ちょうど90年を過ぎたあたりから、そうじゃないものが世界的にも認められるようになってきた。マルチカルチュラリズム、多文化主義ですね。
それまでは西洋の歴史を一本貫くのが王道という美術理論があったんだけれど、西洋中心すぎた。表現はもっとバラエティがあるはずだっていうのが90年以降の多文化主義で、そこで僕も美術をやれると思えたんだよね。漠然とサブカルがやりたいと考えていたけれど、それが美術という枠組みの中でできるような気がして。
三好
文庫本を並べた作品を発表したときに考えていたような、「自分は何をやりたいのか、どこに到達したいのか」ということについて、今はどう捉えているのでしょうか?
会田
あんまり到達とか考えない。なんなら今日死んじゃったら、中途半端でやり残したことはあるけれど、それでいいと思ってるんだよね。人類の文化はいろんな人がそれぞれつくるからバラエティ豊かに存在する。僕の人生が完璧で、作りたいもの全部作って、それでゴールインみたいな、そんなことは人類全体にとってどうでもいいこと。思いついたものを思いついたときに作って、時間切れで死んだら終わり。そんなエッセイみたいなイメージですね。
林
会田さんは社会問題に言及することもありますよね。作家としてメッセージを発信したいとか、社会に関わろうとする意図があるんですか?
会田
社会問題に触れるのは、偶然に身を任せてるというか。社会は自分じゃないからね。僕は初期から「私ってなに?」っていう問いの立て方は危険だと考えていたんです。「私なんてどうでもいい」って思うことがまず大切なんじゃないかと。
社会で起きる事件は、究極のところ「私のこと」ではないから。例えば先日のニュージーランドでの銃撃事件は、僕がこの世にいなくてもきっと起きてた事件。自分と無関係に社会は動いていて、たまたま同じ時期に生まれ合わせたから、そこで起きた出来事と時代を共にする。自分がいなければ発生しなかった社会的事象なんて、よほどの人生でないと起こりえない。自分に対する特別視を外すために、時事ネタ的なものを扱っている。
社会変革を人生の目標にするなら、美術家はやらず野党政治家でもやった方がいいわけじゃないですか。ジャーナリストでもいいけど。美術家はフィクションを扱うというか、基本的に直接社会は動かさない、動かせない。へんてこな架空のものを作る、変な、虚しい仕事。それを分かってて、それが好きであることが芸術家をやるということだと思っているので。
林
なるほど。ニーチェみたいです。
会田
わからないけど、そうかな(笑)。
三好
普段の生活のお話も聞いてみたいです。家庭的な部分についてはどうですか?
会田
家族をつくって子育てをするって、若い時には想定もしていなかったような新しいことの連続だから、新鮮ですよ。退屈かもしれないこの人生を、飽きずに楽しむための変化の一つ。
林
会田さんご自身は、ご家族ができてどんな風に変わったんですか?
会田
これは、いつもおもしろく上手に答えられないな。自分って意外と父親っぽくやってるな、とかは思う。本能なのか社会的な学習なのか分からないけど、自分も父親をうまくやってるじゃん。って思うね(笑)。
三好
それは子どもが出来て、その子を見たときに変わったんですか? それとも奥さんの存在が影響してますか?
会田
うーん……深いことはあまり考えてないんだよね。とりあえず餓死させないようにしよう、とかしか考えてない。
林
たとえば子どもにどう育ってほしい、とかは考えますか?
会田
それはない。息子が小さい時に田舎に引っ越したことがあって、子どもは自然に触れて、ドジョウとかと戯れなければいけないと僕は思っていたんだけど、都内にいる時よりも家から出なくなったんだよね。虫が嫌いとかそういうわけでもなかったんだけど。で、コンピュータが好きなインドア野郎になった。子どもは親の思惑通りに育ったりしないってことがよくわかった。遺伝子的に、この子はこういうものが好きとかって最初から決まっていて、てこでも動かないみたいな部分って多いんだよね。うちの子のクセが強かったということもあるけど、産んで育ててみないと、そういうことは分からないよね。そういうことが新鮮。
林
たしかに、それは僕らには全く想像できないことですね。
会田
うちの息子、今高校3年生ですけれど、なかなかスリリングな人生ですよ。これからどうなるのか全然わからない。僕が100歳まで生きるとして、50年近く時間があるけど、これからの50年に起きることって大体想像ができる。どうせ大した幅はない。でも、息子のこれからはわからない。犯罪者になるかもしれないし、偉人になるかもしれない。これからのことがわからないやつと一緒に暮らしてるだけでも面白いね。
林
そういう意味で、現役の藝大生もさまざまな可能性を持っていると思うのですが、学生に向けた会田さんからのメッセージをいただけますか?
会田
僕は23歳ぐらいまでずっとあがいていて、空振りばっかりで、まともに球に当たったことがなくて、虚しい4年間を藝大で過ごしました。でも、そのあがきは糧になっている。若いうちから小ずるく球を当てに行くのも良いかもしれないけど、僕はそうじゃなくて、闇雲にバットを振り回してきた23歳までがあって、そこから「やめた、現実的にクリーンヒットを打とう」みたいになった。まあ人それぞれですな。でも最初から小ずるくやる若者を見ると、ちょっと早くないかな?とか思いますけどね。
【プロフィール】
会田 誠
1965年 新潟県生まれ
1989年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業
1991年 東京藝術大学大学院美術研究科修了(油画技法・材料研究室)
美少女、戦争画、サラリーマンなど、社会や歴史、現代と近代以前、西洋と東洋の境界を自由に往来し、奇想天外な対比や痛烈な批評性を提示する作風で、幅広い世代から圧倒的な支持を得ている。国内外の展覧会に多数参加。
【インタビュアー】 林 裕人 (東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻4年) https://yuto-hayashi.localinfo.jp/ 三好 大和(東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻4年) 撮影:新津保建秀 文:長嶋太陽