藝大出身の著名人に現役の学生が質問をぶつけ、その対話の中から芸術と教育の接続点について探る。本連載、「藝大人たち」は、そんな目的を持った対談インタビューだ。第三回は、レディー・ガガ専属のシューメイカーとして「ヒールレスシューズ」で話題を呼び、現在は靴だけに留まらない活躍を続けるアーティスト舘鼻則孝に、美術学部工芸科(染織)2年の遠藤瑞希と河邊実央がインタビューを行った。
河邊
はじめまして。工芸科染織2年の河邊実央と申します。よろしくお願いします。
遠藤
同じく遠藤瑞希です。よろしくお願いします。私たちは舘鼻さんの直属の後輩になるんですが、舘鼻さんはそもそもなぜ藝大を目指そうと思ったんですか?
舘鼻
もともとは世界で活躍するファッションデザイナーになるために、海外に留学しようと思っていたんです。ファッションは日本の文化ではないし、本場に行って学ばなければならない、と。海外へ行く道筋をいくつも考えましたし、パリに留学をしてファッションアカデミーに通う自分を想像してみました。僕は日本人で、本場で学びたいからパリにいる。でも、パリで生まれ育った人々の目線で考えてみたら、彼らは「自国の文化を学んでいる」ということになりますよね。
次第に、世界で活躍したいと思っている日本人の僕が、外国の文化を勉強して、それが自分の武器になるのか? っていう疑問を抱くようになりました。自国の文化を勉強してから世界に出て行くのでも遅くはないかなと。
河邊
そうだったんですね。
舘鼻
それで、伝統的な日本の文化を学べる美術大学に行くべきだと考えて、東京藝大を目指すようになりました。技術そのものではなく、自分の糧になるような文化について勉強することが重要だと考えていたんです。作家としての舘鼻を構成する要素として、日本のファッションとも言える和装の文化をしっかり腰を据えて学びたいと思ったんですね。
だから工芸科でも染織以外の専攻には一切興味がなかった。高校2年生の時に、そう決めました。また藝大に入ることも目的を達成するための手段であり、大学院に行くつもりもなかったですし、4年間学んで世に出ようということは早い段階で決めていました。計画に沿って大学に通ったというような感覚でしたね。
遠藤
実際にどんな学生だったのでしょうか?
舘鼻
周りを見渡したときに、将来の目標を明確に持っている学生がかなり少なくて、それをギャップに感じていました。藝大だけではないかもしれませんが、日本は受験が難しすぎて、大学に入ること自体がゴールになってしまうんです。否定するわけではないんですけれど、工芸科に入ってから進学する専攻について考えはじめるとか、そもそもやりたいことが決まってないのに藝大を目指すということ自体が、受験戦争の弊害な気がして僕には理解できなかった。2年生の時に希望する専攻を提出するじゃないですか。その時、第一希望も第二希望も「染織」と書いたんです。それで先生と揉めました(笑)。
河邊
実は私も、全く同じことをしました…(笑)。
舘鼻
僕の頃は人気の専攻が偏っていて、漆芸を希望する学生が多く、成績順で決めることになったんです。染織は全然人気がなかったので無事に進めたんですけど、行きたい専攻から漏れてしまった学生が他の専攻に行くことも実際にあって、自分が求めていることが学べなかったら、退学するレベルだと僕だったら、そう思うんですけどね。こういう部分も含めて他の学生と自分との間には温度差があって、なかなか友達はできなくて、それはそれで辛かったです。今思い返すと自分も斜に構えていたということもあったとは思いますが…。
ただ、僕はどうしてもファッションデザイナーになりたかったんですよね。大学で学ぶこととは別にファッションを独学で学んで、自宅で制作をしていました。やりたいことがたくさんあったんです。大学での学びと自宅での制作。制作のためにお金を稼がなきゃいけなかったので予備校講師のバイト。世界に出るためには英語の勉強も必要で、英会話教室にも通いました。
河邊
すごいハードスケジュールだったのでは?
舘鼻
そうかもしれないですが、スケジュールは計画的に考えていました。例えば、4年生の前期はほとんど学校に通わないで英会話教室と自宅での制作を主に過ごしていました。自分がやりたいことをやっていたので、とても有意義ではありました。先生からは好かれてなかったかもしれないけれど計画と目的があったし、卒業も見えていました。ただ、もうちょっと遊んでればよかったなとも思います。社会に出てからの大変さを考えると、あの頃は本当に自由だったんだなと感じますね。
遠藤
幼少期から大学に入るまではどんな子どもだったんですか?
舘鼻
僕の今の活動のことを考えると、母からの影響は非常に強いと思います。母はシュタイナー教育(哲学者ルドルフ・シュタイナーの思想に基づく、児童の個性や芸術的感覚を尊重した教育実践の総称)で用いられるウォルドルフ人形を作る人形作家です。僕自身が直接的にシュタイナー教育で育ったわけではないけれど、小さい頃から母のアトリエで素材や道具に触れたり、そのような環境が自分にとっては、とても身近だったんです。
いつも母からは「好きなものや欲しいものがあるんだったら、自分で作ればいい」と言われていました。デパートで売っているようなおもちゃは、買ってもらえなかったんです。素材なら与えてもらえたので、遊びたいおもちゃがあったら、自分で作ることからスタートしたんです。とにかく僕の家では、なんでも手作りでした。例えば、友達の家に遊びに行くとお店に売っているショートケーキが出てくるんですけど、僕の家に友達が来た時には、母親手作りのキャロットケーキが出てくる。幼心にはそれがすごく嫌で、うちは本当に貧乏だと思ってたんです。実際はそうではなくて、母の教育方針だったんですね。
そういった環境だったので、自然に「作ること」が遊びになっていきました。小学校の図工の時間や中学校の美術の時間に先生に褒められたりして、すごく嬉しかったことを覚えています。単純に、絵を描いたり物を作ったりするのが好きだったんですよ。高校は普通科に入ったんですけれど、母が美術予備校のチラシを持ってきてくれて、それが大きなきっかけになったと思います。
河邊
ファッションへの興味はいつ頃生まれましたか?
舘鼻
実家が鎌倉なんですけど、幼い頃は野山を駆け回って、海で遊んで育ったので、自然のなかで五感をフルに使ってきましたね。中学生くらいの頃、実家のすぐ近くにコンビニができたんですよ。そこで初めてファッション誌を読みました。最初はメンズのファッション誌で、「Boon」とか「smart」などを見て、こんなファッションが東京にあるんだと思いました。
遠藤
普段の作品がモードなので、野山を駆け回った少年時代というのは意外でした。
舘鼻
都会の洗練された生活とはかけ離れていました。今思うとそれが良かったのかな。センスって育むもので、誰しも生まれつきセンスが良いわけじゃないじゃないですからね。それは環境や努力によって培われるものだと思います。
河邊
そこから靴作りにはどうたどり着くのでしょうか?
舘鼻
初めて靴を作ったのは15歳の頃でした。今34歳なので年月だけで語ると、もう20年近くやってることになりますよね。僕は大学院に行くつもりがなかったので、社会に出るための最後の関門として卒業制作では、今後の方向性を示唆するようなものづくりをするべきだなと思っていたんです。そこでヒールレスシューズとそれに合わせたドレスを作って、日本の伝統文化から着想を得た現代のためのファッションとして発表したんです。先生からしたら、ずっと学校では着物を染めていたのに、いきなりヒールレスシューズとドレスを作ってきた、ということになるわけで、ちょっと呆れられる感じだったんですけどね(笑)。
そんな卒業制作の写真をメールに添付して世界中のファッション業界の人たちにアプローチしたんです。そうしたら、その中にいたレディー・ガガさんの専属スタイリストのニコラ・フォルミケッティさんから返事が来て、彼女が履いてくれるということになりました。驚きましたね。そこで機転を効かせたというか、レディー・ガガさんが僕の靴を履いて世に出たらどうなるかを考えたんです。特徴的なフォルムを持った靴。レディー・ガガさんがそれを履く。そんな状況から、さまざまなものづくりをしていたことを伏せて靴だけに絞ってやってみよう、と咄嗟に判断しました。その方が強く伝わると思ったんです。その当時持っていたウェブサイトも編集して、靴だけに絞って打ち出しました。「かかとのない靴=舘鼻」という世間の認識になるまで持っていく。そういう戦略を取りました。
アトリエに展示されている「ヒールレスシューズ」
遠藤
そういったパブリックイメージを意図して作ったんですね。
舘鼻
そうですね。レディー・ガガさんとはその後2年間ぐらい専属契約をしていたんですが、それだけで生計を立てるのは難しかったです。そんなときに声をかけてくれたのがアメリカの美術館でした。ニューヨーク州立ファッション工科大学(FIT)という大学があるんですけど、付属美術館のヴァレリー・スティール館長が、僕の靴を収蔵したいと言ってくれたんです。それが初めてヒールレスシューズが売れた瞬間でした。
彼女は僕にとってニューヨークの母のような存在で、今でもとても仲が良いんです。その後に彼女の親友でもあるアイルランド貴族のダフネ・ギネスさんを紹介してくれました。ギネスビールの相続人で、今でもパトロンをしてくれています。その当時、一度に5万ドルほどの作品を買ってくれて、それでやっと生活ができるようになりました。その頃、父親にお金を借りて表参道にアトリエを半年間だけ借りていたんですよ。この期間で軌道に乗らなかったら鎌倉に帰らなきゃいけないと思っていましたが、ギネスさんのおかげでなんとか自立の兆しが見えて今まで継続できています。
遠藤
ヒールレスシューズを最初に作った動機についても教えてください。
舘鼻
大学在学中は、和装の中でもその時代の前衛とも解釈のできるものに興味があって、花魁の研究をしていたんです。一方で、現代の日本では1960年代ぐらいから本格的に洋装が主流となり、僕自身も生まれた時から洋服を着て、西洋化されたライフスタイルの中で生きてきました。
そのため現代という時代の中で、東洋と西洋の文化が入り混じった日本というアイデンティティをどのように表現するか、ということを考えました。そんな環境や背景を活かして、日本のファッションとして世界に打ち出せるようなものづくりができたらいいなと思ったんです。そうしないと、1960年代で和装の文化は終わり、日本が古来から持つファッションの歴史はそこで途絶えてしまう。過去と現在をつなげる作業が必要だと思ったんです。
そういった思いが、花魁の下駄に着想を得たヒールレスシューズにつながりました。僕の作品を収蔵してくれているニューヨークのメトロポリタン美術館では「舘鼻の靴は、江戸時代から続く日本の文化の延長線上に今を表現している」と解説してくれています。ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に収蔵された僕の作品は、着物や日本刀などの過去の日本文化を象徴する収蔵品と同様に展示室に並んでいます。僕にとっては、この国に生まれたことも、男性に生まれたことも、当たり前ですが自分で選んだことではありません。藝大に行くことは自分で選択しましたが、生まれた場所、育った環境は自分で選択したことではなくて、色んなことが数珠つなぎになって今まで続いてきたこと。そこにある必然性を大切にしたいだけなんです。
河邊
舘鼻さんはご自身を冷静に俯瞰していますよね。その視点はどういう段階で見つけられたのかなって。
舘鼻
僕は絵を描くのが下手だったんですよ。中学や高校の時は学校で褒められたから、自分は上手いと思い込んでいたんですけど、美術の道を目指す学生しか通わない受験予備校に通ってみたら、その中では一番下手だったんです。この道しかないと思っていたから本当にショックで、絵を描くのがすごい嫌いになってしまったのは、実は今でも少し引きずっています。僕は高校の3年間と2年間の浪人で、あわせて5年間生徒として予備校に通っていました。その後講師として4年働いたので、合わせて9年間予備校に通いました。そこでおそらく1,000枚以上のデッサンを描いたと思うんです。
自分が教える側の立場になって思ったんですけれど、離れて見るということ、客観的になるということが全てです。少し離れるだけで、絵の見え方は大きく変わる。それは絵に限った話ではなく、物事をどう俯瞰して捉えるかということが重要なんだと思います。
河邊
俯瞰して自分自身を見つめる謙虚な姿勢と、世を渡るためのしたたかさを両立することが、社会へ出て活動していく上で必要になってくることだと思いますか?
舘鼻
ある種のずるさがないと成功することは難しいと思います。ずるくなれる理由がある、と言ったほうがいいかもしれません。到達したいステージがあり、そこに向かうためのピュアなモチベーションがあって、それをコントロールできるようにならなくちゃいけない。情熱を持つことも重要だし、冷静に一歩引いて見ることも重要。スイッチを自分で切り替えられるようになるということが作家って大切だと思うんです。
河邊
舘鼻さんはすでに世界で名を知られていますが、今後新たな野心はあったりしますか? 舘鼻さんのようになりたいと考える学生は少なくないと思うし、私自身そうなのですが、その先に何があるのかなって。
舘鼻
僕の場合、高校生で最初に掲げた目標をすでに超えてしまったんです。加えて、そのタイミングが自分の想像より早かったんです。もちろん、目標のかたちはどんどん変わっていくんだけれども、美術館に作品が収蔵された時に、自分は死んでも名前が残るんだなって思ったんです。死ぬための条件が揃ったような感覚になりました。
そのような状況で、過去の自分に縛られるのはやめようと思いました。肩書きに縛られず作家としての新しい人生を歩むことのほうが有意義だと感じたんです。そう思い立って、ファッションの世界からアートの世界に身を移すことに決めました。それは、作家として創作活動の幅が広がるだけでなく、マーケットの性質も全然違う世界に身を移すことになりました。アーティストって、響きだけだと好きなことやっているように思われるけれど、実際にはプロとしての職業でもありますし、お金を稼がなくちゃならない。全てが思い通りになるような簡単な世界ではないんです。でも、そのようなことに今は強くやりがいを感じています。
河邊
思ったよりもお金のことを考える、ってことですか?
舘鼻
お金のことばかり考えていますね、日々(笑)。アートは、それが物差しになる部分もあるんです。展覧会を開いてもお金はかかるし、その費用は何百万円で済む話でもないので、自分が学生の頃にイメージしていたレベルとは本当に違います。
遠藤
芸術を志す若い人たちに、何かメッセージをいただけますか?
舘鼻
結果論ですが、学生のうちにいろんな選択肢を持っていろんなことに挑戦をできたのは本当に良かったと思います。夏休みに作家さんを手伝ったりだとか、ファッションデザイナーを手伝ったりだとか、靴職人を手伝ったりだとか、いろんなバイトも経験しました。時間が限られている中でも、一つのことだけに費やしていたわけではないということです。
今はある意味プロフェッショナルのアーティストとして、作品を作ることが仕事になっているから、やらなくちゃいけないことや制約が多い。学生の皆さんの場合は、例えば時間を惜しまず制作をするということが、当たり前のようにできるわけじゃないですか。僕の場合は、会社組織としてチームで働いているので、自分ひとりの判断ではなく計画的にプロジェクトを進行するというイメージです。
皆さんの場合はまだそういうステージではないからこそ、様々な選択肢を得ることができる。僕は学生時代に人脈など持っていなくて、インターネットだけが唯一世界と繋がれるツールだったから、それを駆使してアクションを起こすことができました。選択肢の中から自由にアクションを起こせるのが学生の持つ強みの一つ。自分が掲げた目標にたどり着くためにやれること、考え得ることは全てやってみて欲しいなと思います。
【プロフィール】
舘鼻 則孝
1985年、東京生まれ。歌舞伎町で銭湯「歌舞伎湯」を営む家系に生まれ鎌倉で育つ。シュタイナー教育に基づく人形作家である母の影響で幼少期から手でものをつくることを覚える。東京藝術大学では絵画や彫刻を学び、後年は染織を専攻する。遊女に関する文化研究とともに日本の伝統的な染色技法である友禅染を用いた着物や下駄の制作をする。近年はアーティストとして、国内外の展覧会へ参加する他、伝統工芸士との創作活動にも精力的に取り組んでいる。2016年3月には、仏カルティエ現代美術財団にて人形浄瑠璃文楽の舞台を初監督「TATEHANA BUNRAKU: The Love Suicides on the Bridge」を公演した。作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館など、世界の著名な美術館に永久収蔵されている。
【インタビュアー】 遠藤 瑞希 (東京藝術大学美術学部工芸科2年) 河邊 実央 (東京藝術大学美術学部工芸科2年) 撮影:新津保建秀 文:長嶋太陽