「上野の森は深いんだよ」普段冷静な兄・千住博は少し怒ったように僕に言った。昭和58年3月、僕の2回目の浪人が決まった瞬間だった。当時大学院の日本画専攻に在学していた兄に、僕の入学試験の発表を見てきてもらった後だった。僕は作曲家になる為に慶應義塾大学を中退し、東京藝大音楽学部作曲科を受験した。周囲からは余り認められていない音楽活動をしていた僕に藝大受験を勧めたのは兄だった。「日陰の身の音楽を人生の日向に引っ張り出せ。僕に出来たんだから明にも出来る」。好きな道に進む為に課せられた、学者家庭である我が家の条件が藝大受験だった。そして30歳までに何かしらの結果を出せない場合は芸術家を諦めるという約束もある。
この年は2回目の受験、しかし全ての受験の準備を二十歳から始めたので、僕はまだ経験の為の受験のつもりだった。しかし兄は大まじめで僕がその年に受かると信じていた。「入試の結果は次回から自分で見ろ!落ちた悔しさからモチベーションを感じなければだめだよ!」普段は兄弟間であっても余り人の事に口を出さない兄が、その悔しさで眼を真っ赤にして怒った。師匠である南弘明先生(現東京藝大名誉教授)からもその時の単純なミスを指摘された。もう自分は受験に受かるレベルに達したのか?まだまだ様子見の受験と思っていたのは自分だけだった。この時僕の長い旅はやっとスタートしたのだ。次の年、僕はしっかりと自分の眼で受験番号42番を見つけた。
大学院音楽研究科作曲専攻修了制作「EDEN」が作曲専攻史上8人目の買上作品※になった。実は昨年その作品が藝大の大学美術館において展示された。録音DATと図形楽譜の電子音楽で、展示は譜面と共に音もスピーカーで再生して頂いた。僕も28年ぶりに自分の作品と対面したが、時間の流れに劣化はなく、当時の音楽のエネルギーを感じた。買上作品認定の賞状を頂く時、「君は芸術と共に生きる責任ができました」と、時の学長故平山郁夫先生がおっしゃったのを思い出した。あの時、音楽の女神がやっと微笑んだのだ。僕は29歳、数学者の父にも分かりやすい形で、30歳という我が家の約束のデッドラインに間に合った。芸術資料館(現:大学美術館)の方から、兄(日本画専攻)の学部卒業制作も買上げになっているので、兄弟揃っての買上げは史上初であると言われた。兄を追って深い藝術の森の中へやって来た。この先の道標は僕自身の中にある。平成2年3月、上野の森の入り口から7年が経っていた。
※買上作品:東京藝術大学では学生が制作した極めて優秀な卒業・修了作品の買上げ制度がある(音楽部門は作曲のみ)。買上げられた作品は大学美術館に収蔵され、本学の歩み、さらには、日本の近代美術・音楽を具体的に物語る貴重資料として活用される。
【プロフィール】
千住 明
COI拠点プロジェクト 特任教授