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クローズアップ藝大 - 第八回 黒川廣子 大学美術館教授

連続コラム:クローズアップ藝大

連続コラム:クローズアップ藝大

第八回 黒川廣子 大学美術館教授

クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。

>>過去のクローズアップ藝大

第八回は、大学美術館教授の黒川廣子先生。令和元年11月、大学美術館内の美術館資料調査室にてお話を伺いました。


【はじめに】

藝大の美術館の地下は思いのほか深い。膨大なコレクションを収蔵する場所でもあるのだから当然ともいえますが。大学美術館教授の黒川先生はここで学芸員を目指す学生などを教え、自らも学芸員を務めています。ご専門は近代工芸史。美術館の地下3階の対談の場所には大きなテーブルが置かれ、授業で使う様々な工芸品や作品の製作過程がわかる途中段階のオブジェがきれいに並べられていました。その中には藝大が誕生したころに大学で教えていた金工作家の作品も含まれていました。

細密な模様が施されていたり、色の違う金属が組み合わされて微妙な色彩を出している工芸品の数々。磨き抜かれた技で描かれた文様や自然の風物がどのように生み出されてきたのか、黒川先生の話は藝大誕生の歴史や日本において美術という言葉が生まれていった歴史へと広がりました。


日本の工芸と東京美術学校

黒川

こういう感じで実際の作品を使って日本金工史の授業や博物館学などを行っています。
国谷

私を学生だと思ってちょっとご説明いただけますか?

黒川

まずこちらの手板は金工のなかでも彫金ですね。江戸時代に刀の飾りものを作る技術を学んだ職人たちが明治時代になって刀を作れなくなって、その技術を使って何か他の制作物に転換しようとしているときに、こういった絵画的なものとか器などを作るようになったんです。

国谷

刀の柄の部分とか、装飾が施されていますね。

黒川

刀の鐔(つば)の部分とか先端とか、もっと小さいものもあって。この技術を使ってより大きなものへと進化していったことがわかります。よく見ると違う色が使われていると思うんですが、これは伝統的な金属の金・銀・銅を合金にして表現しています。こういったものにものすごく高い技術を使って美しいものを作ってきた歴史があって、それが明治になって、これは外国にはない技術だとわかった。

国谷

外国にはなかったんですか?

黒川

外国にも金工とか彫金はあったんですが、宝石とかエナメルなどを使った宝飾品になるんですよね。日本にも七宝はありましたが、金属を宝石と合わせて使うことはあまり多くなくて、どちらかというと、金・銀・銅を合金にして四分一とかそういう技法を使って色を表現していました。

国谷

合金にして叩くんですよね。以前対談させていただいた彫金の前田宏智先生みたいに。

黒川

そうです。こちらの手板は明治時代を代表する彫金家の海野勝珉の作品です。海野勝珉は、藝大美術学部の前身である東京美術学校の草創期から、金工を教えてました。 

海野勝珉「雀手板」

 

国谷

かわいい。 ブローチにしたい(笑)。

黒川

職人のなかには帯留めだとか、そういうジュエリー系のほうへ発展していく人たちもいますよね。

国谷

どうしてこういうやさしいモチーフなんでしょうか。

黒川

円山応挙とか絵師の仕事も勉強して、それを図案に生かして彫金をしていたと言われています。絵師の勉強も彫金の勉強もして、それを合わせてひとつの作品にすることを彼らは盛んにやっていますね。

国谷

小さい頃から勉強や訓練をしていたのでしょうか?

黒川

名人の域に行きつくためには、小さい頃から訓練をして、体が覚えるくらいやっています。学校にも行かないで、6、7歳ぐらいから職人として弟子入りをしてやるんです。

国谷

うわー! そうなんですか。

黒川

そうやって技を身に付けてきた人たちが明治時代になって、いきなり学校で教えなきゃいけなくなった。どうやったらいいのか、相当いろいろ考えて、悩んで、検討して作り上げてきたのが東京美術学校の教育課程ですね。

国谷

東京美術学校ができるということで、こういう技術を持った人たちがいきなり「教えてください」と言われてリクルートされたわけですね。

黒川

そうです。それまで金工なんてやったこともない若い学生に、どうやって教えるのかってことですよね。大学美術館には、装飾をされる前の段階の手板がたくさん残されています。例えば簡単な線を一本彫るとか、初歩から叩き込んでいって何年かするとこういう作品を制作するようになります。

いろんな創意工夫をして学生を育ててきたことが高く評価されて、現在につながっているんですね。

平田宗幸「茄子水滴」 

黒川

この茄子の実の部分は一枚の板から打ち出しています。鍛金の技です。金属は叩けば伸びていくことを理解させるためによく学生に見せます。鍛金の教授だった平田宗幸の作品です。これは銅に金を混ぜた合金で茄子色を出しています。

国谷

え! これ金属だけで色を塗っていないのですか。

黒川

塗ってないです。金属の変色液で煮るとこの色になる。

国谷

美しい。

黒川

こちらが「木目金」といって、木の木目を金属だけで再現しているものです。

国谷

木だと思いました。

黒川

木目を再現するために違う種類の金属を数枚重ねて叩いて、鏨で木目を表すための穴を作って、また叩いて、何回も叩いて薄くしていきます。で、どんどん伸ばして下の色を出していきます。非常に手間がかかっています。

国谷

これは何に使われるのですか。

黒川

板状のものを器にしたりとか。今でも伝統工芸展などを見れば、この技術を使った花瓶だとか鉢ものなどもあります。

国谷

漆のようにも見えますね。

黒川

はい。他の材料で作ったほうがはるかに楽なのに。

国谷

そう、どうしてこんな楽じゃないことを?

黒川

そこが彼らのこだわりというか、技の見せ所というか。そんなことを学生に語っています。

人間に“クローズアップ”

国谷

黒川先生は日本近代工芸史がご専門です。先生の研究について伺っていると、本当に大変だなあって。当時の文献から新聞から、どれだけ発掘していく作業なのかと。

黒川

まあ作品だけでは語れないじゃないですか。やっぱり作品があって、その背景には作品を作った人がどう生きてきたかがある。そのヒントを文献から探し出して全部つなぎ合わせるんです、パズルのように。

国谷

だから人間を見ているわけですよね。

黒川

はい。やっぱり人間が作ったものなので、その人間がどういう人だったのか、知ることでものすごく作品の面白さがわかる。興味も沸きますし、それによって作品の持つ意味を深く掘り下げることができますし。まさに“クローズアップ”です(笑)。

幸い明治時代は資料がたくさんあって、まだまだ未発掘のものが個人のお宅から出てきたりします。わずか150年ほど前のことなので曾おじいさんぐらいの時代です。まだまだ「戦争をくぐり抜けた」ものがたくさんあるし、いわゆる公的な機関、公文書館とか国会図書館とかにも残っていますし、ここ数年でかなり調べやすくなりました。私が学生の頃は大変だったんですよ。今はデジタルで検索できるのでだいぶ違います。資料・文献等々を読んでいって、「ああ、これがあれだったのか!」とパズルがうまくはまったときはすごくうれしいです。

国谷

芸術作品を鑑賞する楽しみ、自分はこれを美しいと思うとか、面白いと思うとか、そういう主観的な見方があります。でも純粋にその作品を観るだけじゃなくて、歴史のなかに置くと別の評価が生まれてきます。

黒川

そういうことをやるのが我々のような歴史を勉強した人なんだと思います。どうしてそれがそういうものなのか。

国谷

相対化する?

黒川

はい。たくさんある作品のなかでどうしてこれだけが残っているのかとか、その理由といいますか、なぜこの作品が重要なものとして位置づけられているのかを調べるのが私たちの仕事なのかなと思います。

国谷

先生から見える世界というのは、とても面白いのだろうなって思います。

黒川

それはもう…。まだまだ知らないことがいっぱいあって。だけど、どんどんいろんな資料や作品と出会って、その出会いによってまた違う物語のようなものが浮かび上がってくるときって、すごく楽しいですよ。

大正、昭和、平成の大嘗祭

国谷

それは例えばどんなときですか?

黒川

例えば…あの銀の置物はどうですか? ただ見ただけでは何だかわからないですよね。

平田宗幸「洲浜置物」とその元になった和歌の資料

国谷

いろいろなものがそこに…。なんでお花がここに大きく付いているのか。家もある。

黒川

いくつかの村の景色です。こういったものを何の知識もなく見たら、変なかたまりじゃないですか。まあ、ここは山だろうとか海だろうとか思いますけれど。

これは「洲浜置物」といって、天皇陛下の即位に伴う儀式である大嘗祭(だいじょうさい)の大饗の儀のときに作って飾る置物の試作品です。平安時代から洲浜を象った置物を飾る習わしがあるそうで、これは大正4年の即位のときに先ほどの平田宗幸が作った試作品です。本物は皇室に納めていますので。

大嘗祭のときに詠まれる和歌が前もって作られるんですが、その和歌の中の部分部分の情景や地方の風物がここにまとまっていて、現実世界ではありえない景色なんです。

国谷

面白い発想ですよね。どうしてこの置物を大嘗祭で?

黒川

洲浜は文献のなかには出てくるんですが、古い時代のものがどういう造形だったのかはわからない。でもその伝統を継いで作られています。大正、昭和、平成と、本学の教員が依頼を受けました。

こういったものを何の知識もなく見たら、面白さもその価値も全く分からない。和歌があってその和歌のこの部分をモチーフにしているとか、この作品が作られるまでの細かい経緯は、誰かが解読して作品と一緒に展示してはじめてわかる。

国谷

確かに。置いてあるだけじゃわからないです。

黒川

作品の意味を調べあげてわかりやすく伝える、それが私たちの役割だと思います。

調べても調べてもわからない作家、鈴木長吉

国谷

いろんな各地の資料館へ行かれたり、ハンティングな感じですね。

黒川

そうです、そうです。調べて調べて調べても、わからないものがたくさんあります。どうしても調べたくてわからないものを今1つ抱えているんですけれど…。

国谷

何ですか、それは?

黒川

明治の鋳金家の鈴木長吉という作家なんですが。彼についてはわからないことが多くて。作品はすごいものがあります。「十二の鷹」は今年、国の重要文化財に指定されました。東京国立近代美術館の収蔵品ですが、来年は金沢に移っちゃう予定なんです。

12羽それぞれが別の金属の色で作られていて、1羽ずつ違う恰好をしているんですが、これも鷹匠に訊いたらちゃんと物語があるんです。真ん中の一羽の鷹がしっぽの羽の枚数が1枚多いんですが、鷹匠にとっては憧れの存在で、その隣も白鷹で貴重なんだそうです。つまり真ん中の2羽が鷹の世界ではすごく偉い存在なんですって。すごいですよね。1羽ずつ性格を描き分けている。

「十二の鷹」は2003年に大学美術館でも展示された

  大学美術館に所蔵されている鈴木長吉「鷹置物下絵」

国谷

へー! やっぱり先生に解説していただいたくと面白い。

黒川

鷹を飾ることは江戸時代では普通に行われていて、偉い人が鷹に謁見する風習もあった。絵画的にはよく出てくるモチーフですが、それを立体的に、工芸の技術で、多種の金属を使って作ったことが世界で認められて、シカゴ万博で評価されたんです。

シカゴ万博での展示の写真を見ると、飾り紐も全部形が違っていることがわかります。それも鷹匠に訊くと紐の形に意味があって、結び方の形で鷹の状態を示しているんですって。鷹ってすごく敏感じゃないですか。人間が近づこうとすると怖がったりするから、遠くからパッとその鷹がどういう状態なのかわかるようにと。

国谷

とても興味深い話です。シカゴ万博は何年でしたか。

黒川

明治26年(1893年)です。当時の指導者たちの一大目標が、日本の工芸を美術館で展示することでした。つまり、日本の工芸は美術なんだと国際的に認められること。それまでずっと認めてもらえなくて、シカゴ万博でようやく認められたんですね。

国谷

シカゴ万博はそういう節目の万博だったんですか。日本は今、2020に向けて日本の芸術文化を発信しようとしています。やっぱり同じように国際的なイベントで日本の価値というかブランディングを上げようとしているのですね。

 

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